2017-10-30
■ブレードランナー2049をもう一度映画館で見たいとは思わない。だけど、ジョイには会いたい 

好きな映画というのは、基本的に繰り返し見るものである。
しかしすごい映画というのは、一回みたらそれだけで強烈な印象が残ってしまって、見なくても思い出せてしまう。
たとえば「この世界の片隅に」とか、「のぼうの城」とか、「ブレードランナー2049」とかである。
ブレードランナー2049は間違いなくすごい映画だった。
であるが故に、もう映画館では見なくてもいいか、と思ってしまう。
シン・ゴジラやサマーウォーズを繰り返し映画館でみたときとは対象的に、ブレードランナー2049をもう一度映画館でみたいとは思えない。ブルーレイや、DVDになったら、きっと買うだろうけど、そうなるまでは見なくていい。
理由はいくつかあるけれども、スター・ウォーズ7くらい、つらい映画だからだろう。
スター・ウォーズ エピソード7は、僕にとってはつらい映画だった。だけれども、ハン・ソロの活躍が大画面で見れるチャンスはその瞬間しかないと思ったので何度も映画館に行った。
エピソード8がどういう内容になるのかまだわからない。確実に見に行くだろうし、できればエピソード8も最低4回は映画館で見たくなるような映画であって欲しい。
シン・ゴジラは少なく見積もってももう50回は見てる。劇場で15回見て、自宅でブルーレイで30回はみて、クルマのDVDで20回は見ている。もはやシン・ゴジラは僕にとって環境映像である。
なんでかなと思うと、たぶん辛いシーンがないからだ。
のぼうの城は、死なないとわかっていても野村萬斎が射たれるシーンがつらい。スター・ウォーズも、ブレードランナーもそういうシーンがある。
もちろん物語上の必然的な要請でもってそうなっていることは僕も子供じゃないからわかる。だけど、それでも、つらいのだ。人が傷つく話は。
ならサマーウォーズだってそうだろう、と思うかもしれないが、サマーウォーズにおいてヒロインの祖母の死はすべての始まりであり、物語の焦点でもある。あそこで死なないと話が盛り上がらない。あのとき初めて「ああ、親孝行しておこう」と思うのだ。
ハン・ソロが刺されるところにはそういう必然性がない。いや、カイロ・レンが真の暗黒面に至るために必要だったのかもしれないが、ベンジャミン・ソロ(くそだせえ名前だ)が、カイロ・レンという厨二っぽい名前に改名し、その運命を完全に受け入れるために父殺しという宿命を受け入れざるを得なかったのはわからんでもない。
けれども、それでも、愛する息子に殺されるハン・ソロが不憫なのだ。こういう話じゃなかっただろスター・ウォーズはさあ、と思わなくもないが、そうなっちゃったもんは仕方ないのである。
この世界の片隅に、は名古屋の小さな映画館で見ただけだが、あまりに強烈で今でもたまに夢で見る。すごい映画だが、また見たいとはぜんぜん思えない。そもそも何度も見たいということを期待して作られた映画ではないだろう。何度も見る人がいてもいいが、あれは僕にはつらすぎる。
ブレードランナー2049はまさしくそういう映画で、別に後味が悪いわけじゃないけど、全体的に退屈で、それでいてメッセージは鋭く、心をえぐってくる。
ジョイがかわいい。ひたすらかわいい。ジョイだけでいい。ジョイだけで一本映画をとってほしい。
ジョイが可愛く見えるのはなぜだろうか。
もちろん女優も非現実的なまでに美人なのだが、まず服が変わるというところだ。あれこそ理想である。
僕は生物学的観点から、男性の服はできるだけオーソドックスにして変化を乏しくして、女性の服はできるだけ変化を激しくしたほうが異性からみて好ましいと思われるという仮説を抱いている。
オスは本能的に常に目先の変わったメスを探しており、メスは本能的に安定したオスを探しているので、その両方を満たすにはオスはできるだけ同じ服装をして、メスはできるだけ違った服装や髪型をするのが良い、と結論付けている。
もともと魅力的な女性が、髪型を変えたり服を変えたりすると印象が一変してさらに好きになってしまう、ということはよくある。
反対に男性は、とにかく変化しないほうがいい。たとえ変化するにしても、できるだけ控えめな変化が好ましいのだ。
そこへいくとジョイは凄い。
会話してる最中にどんどん服が変わる。
あれはなんで服が変化してるんだろうと野暮なことを考えてみると、Kの微妙な表情や反応を読み取って、「この服じゃないかな、こっちの服かな」といろいろ変化させているのだと考えるとわかりやすい。
これはAIの強化学習そのものだし、たぶん女性には理解されないだろうが、ある種の男性の夢でもある。
デッド・オア・アライブや、閃乱カグラ、サマーレッスンなど、どうして服を変えるオプションが有料でも成立するのかというと、男性は本来、女性がいろいろな服を着るのを見るのが好きだからである。
理由については、やはり進化生物学的な理由が考えられる。要するに、オスは多様なメスと交配したほうがより多く長く子孫を残せる可能性が上がるからである。
そしてジョイは、とにかくまっすぐにKを愛している。もちろんそうプログラムされているからなのだが、それがどうしたというのだろう。
現実の女性も、誰か現実の男性を愛するようにプログラムされている。それが進化生物学的には正しいからだ。現実の女性が自然に現実の女性を愛するようになっていたら、その時点で人類は滅亡している。
必然的に誰かを愛するようにプログラムされているのとあまり変わらない。
違いがあるとすれば、それは商品として販売されているものなのか、それとも自発的に愛するようになったのかということくらいで、「自発的に」という断り書きがあったとしても、その芯には女性なりの打算がある。年をとるとそういうものがどんどん見えてきてしまって絶望したりうんざりしたりする。でもそれはそれで仕方ない。進化生物学的には、そういうことも含めて必然性があるからだ。
だとすると、ジョイのようなAIと現実の女性とで、果たしてどれほどの違いがあるのだろうか。
むしろAIのほうがより純粋に自分(購入者)を愛してくれるぶん、より尊いのではないだろうか。
ネタバレが嫌な人はもうとっくにこのページを呼んでいない前提で書くが、ジョイは素晴らしい女性である。
あれこそが男性の理想であり、レプリカントであるKの人間らしさを感じる象徴でもある。
ジョイが出たことで実はブレードランナーらしくなくなってしまっているが、しかしだからこそブレードランナーなのである、という解釈も成り立つ。ジョイがいなかったら、ブレードランナー2049はもっと薄っぺらい話で終わっていただろう。
ジョイが死ぬ間際の「愛してる」という台詞がいつまでも頭から離れない。
果たして僕は、こんな素晴らしいAIを作ることが出来るだろうか。
ウソでもいい、死ぬ間際に、せめてそう叫ぶAIを。
- 383 https://www.google.co.jp/
- 90 https://t.co/AQU3zx3Xxf
- 67 https://www.facebook.com/
- 44 http://search.yahoo.co.jp/
- 27 https://www.bing.com/
- 24 http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=10&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwi_gJSUvJfXAhULVrwKHYjrCKQQFghmMAk&url=http://d.hatena.ne.jp/shi3z/20140917/1410905658&usg=AOvVaw1535_TfOY0r0nUMmOKyBBA
- 24 http://www.google.co.uk/url?sa=t&source=web&cd=1
- 14 https://www.google.com/
- 11 http://d.hatena.ne.jp/
- 11 https://socialmediascanner.eset.com