この前塾の中学生に、「本当に自由な社会って、法律をなくせばいいんじゃないんですか」と聞かれたので、その疑問にお答えするための記事を書いてみよう。
あの人は不寛容だ、なんていいかたをする「寛容」ということば。
そのことばの意味を最大限広げて、究極的に寛容な社会を考えてみよう。
少し難しい話になるかもしれないが、中学校卒業程度の社会の知識があればついてこれるように解説するので、お付き合いいただきたい。
あらゆる不寛容が寛容される社会
「寛容な社会」ときくと、皆さんはどういう社会を想像するだろうか。
たぶん、
「法律を破る以外、どんな行為も許容される」ような社会だとか、
「どんな価値観も許される」社会だとか、
「何を信じても、何を言ってもよい」ような社会だとかを想像するに違いない。
寛容を試しに辞書で引いてみると、
心が広くて、よく人の言動を受け入れること。他の罪や欠点などをきびしく責めないこと。
とあるが、本来「寛容」というのは宗教的な寛容のことを表していた。
つまり、他の宗教を信仰する人を受け入れられるか、という文脈で使われてきたのだった。
いつしか意味が拡張され、思想とか信条とか好みに対しても使うようになっている。
ここでは広い意味での寛容を考えることにする。
だが、考え得る限りの究極的な寛容を考えてみれば、寛容な社会の定義とはきっとこうなるに違いない。
「どんな不寛容さえも、受け入れられる社会」と。
不寛容さとは
だがそもそも不寛容さとは何か。
例えば、「〇〇好きな人は世の中から消えればいいのに」というのは不寛容だろう。もちろん〇〇に何が入るかにもよるが、例えば「サッカー好きな人は許せない」とか、「猫が好きな人は全員いなくなれ」というのは、個人の好みの問題を踏み越えた言論だから、一般には寛容ではない(と、私は思う)。
これが「私は猫が好きではない」なら、許されるはずだ。
逆に、「〇〇が嫌いな人間はいなくなればいい」というのもまた、不寛容だ。
だが問題は個人だけのものではない。もっと大きなスケールで……例えば社会、共同体、国なんかで見てみよう。
国がその好き嫌いに対して、「罰則を設けます」だとか、「見つけ次第捕まえます」なんて言えば、その国は「不寛容な国」となるだろう。
「ピーマンが食べられないだけで処刑される国」とか、「アニメを持っていると罰せられる国」なんて、住もうとはあまり思わないに違いない。
そうやって考えていくと、我々はごく自然に、「国家は多くの価値観に対して寛容であるべきである」と思っているのだと実感することになる。
それと同時に、「多様化した価値観を認められない社会は、寛容ではない」というのも、裏返しで思っている。
だからこそ、「北朝鮮の人達は、思ったことも言えなくて、かわいそうだよね」とか、「中国って『天安門事件』がタブーなんでしょ?かわいそう……」と思うのだろう。
つまり、不寛容というのは、広い意味でとれば、「世の中のいろんな価値観のうち、少数のものしか認めない姿勢」とみなすことができる。
こうやって一般化すれば、個人でも国でも、同じように「不寛容」を考えられる。
個人の場合は偏狭な価値観を他人に振りまく、押し付けること、国家の場合は罰則で以って処罰することを指す。
究極的な寛容
ということは逆に言えば、究極的な寛容というのは、
「どんな価値観をも認めることのできる姿勢」だとわかる。
ここでいう「どんな価値観をも」には、「世の中のいろんな価値観のうち、少数のものしか認めない姿勢」……すなわち「不寛容」さえも内包される。
なぜか?
例えばAくんが「ぼくはね、人の意見なんて聞く必要ないと思うよ」に対する、「駄目だ。もっと他人の意見に寛容になれ!」ということばを考えてみよう。
この言葉自体がそもそも「不寛容」なのだ。
なぜなら、「他人の意見に寛容になれない(なる必要はない)」という価値観を、否定してしまっているのだから。
そういうわけで、いろんな「不寛容」な意見も、一つの意見として消さずにおくと、最終的に残るのは「例外なく、何をも寛容に認めるべきである」という、奇妙な結論なのである。
最高にクールでアルティメットな寛容とやらは、「俺は俺の好きなものしか認めないからな!!!」という、どこかのガンコおじさんでさえも、寛容に許してしまうのだ。
めでたし、めでたし。
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「完全な寛容」の危険性
だがちょっと待ってほしい。
この定義自体には何の問題もないが、これだととても危なくならないだろうか。
例えば、
「うちの宗派以外皆殺し~~!!」
「国民は全員麻薬を吸え」
「猫をコロすのが趣味です。認めてください」
こういういわば「ヤバい」人達のこともまた、「寛容に」認めてあげなきゃならなくなるのだ!
「究極に寛容な社会」なものを考えると、どうしてもそれが上手くいく保証が見えてこない。そんな街があれば、とっくに無法地帯と化しているだろう。
究極的な寛容と犯罪をも許すことの違いはどこに見つける?かつてビスマルクがとった「社会主義者鎮圧法」は、社会、共産主義のデモや集会、出版などの一切を禁じた法律であったが、これは思想弾圧とも、それから法律だとも言える。
日本で違法になっている大麻だって、オランダでは認められている。
どこがまずかったのか。
ことばの定義?寛容の範囲?寛容から不寛容への論理飛躍?
実はこれらは間違っていない。
大事なのは、我々が「暗黙の前提」を抜かして考えていたということ。
寛容が認められるための前提
実は、「究極的な寛容」ということばには含みがある。どうしてもそんな社会が上手くいくように思えないのは、その含みがトゲとして引っかかっているからだ。
今の日本には、「殺人を犯してはいけません」なんて法律はない。
そのかわり、「犯したらこういう罪がありますよ」というのが定められている。
なぜ罰則を設けるのか?
これは当然、「みんなの生活を守るため」である。
つまり、中学生の社会で私がいまいち納得がいかず、また私が塾講師として彼らに教える時に苦戦している概念、「公共の福祉」や「公共の利益」だ。
公共の福祉というのはまず日本の憲法では第13条にて言及されている。
全て国民は、個人として尊重される。
生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限の尊重を必要とする。
なぜ「基本的人権」と「公共の福祉」がこのような関係で列挙されているのか。
言い換えれば、なぜ「公共の福祉に反しない限り」という文面が必要なのか。
これを説明するために例を挙げてみよう。「猫を殺すのが趣味です」という人間がいたとする。この人が猫を殺すのは当然その人の自由だから、思想としても法律としても、全く許されるはずである、というのが、論理である。
しかし、自分の飼い猫を殺された人間にとっては、たまらなく理不尽で苦痛であろう。立場を変えて見てみると、決して論理では解決できない問題が発生する。それが「公共の福祉」である。
「どこの誰だかはわからんが、どこの誰だかが著しい害を被る」というのが、「公共の福祉に反する」ということである(正しい定義ではないので要注意)。
放火が趣味の人間が放火を認められていないのは、そこの家に住む誰か、またはその家を所有する誰かが著しい害を被るからであり、飲酒運転が認められていないのは、どこかの誰かをひいてしまう(可能性がある)からである。
こういうものがない、タガが外れたような社会こそ、世紀末であり、人類滅亡寸前の社会(=法律が機能していない社会)であり、「究極に寛容な社会」であろう。
我々のような、現代的な法律にどっぷりと浸かった人達が「究極的に寛容な社会」というのを見て、「絶対うまくいかねえわ」と考えるのは、つまり「寛容な社会に、公共の福祉という概念がなさそうだから」だといえる。
そこに法律が現れた。法律は「罰則あれ」と言い、様々な事柄に対して罰則を設けた。
しかし法律は一方で、「個人的人権」を最大限尊重するようにも、つくられている。
それがさっき言った、「殺人を犯してはならない」と「殺人を犯したらこういう罰則があるよ」の違いだろう。
前者はもう、思想として、考えとして、殺人を禁止しているのに対して、後者はその思想自体を禁止しているものではない。あくまで「殺人したらこういう重い処罰が待ってますよ」と言うだけである。
ただし殺害予告に関しては、法律は、思想自体は禁止していない(知事を暗殺したい!と思うこと)が、それを表現すること(知事を暗殺します、と文章として公共の場のどこかに書くこと)で誰か(知事や警察、地方自治体など)が害を被るから、罰則を設けている。
この両者の違いは抑えておこう。
今の法律は究極的には、「どこかの誰かが著しい迷惑をこうむる可能性があるから」という理由で決められているといってよいと思う。
先ほど言った「何らかのトゲ」とはつまり、公共の福祉を考慮していない、ということである。
結論として
究極的に寛容な社会には、「公共の福祉」という概念がなく、そのためうまくいかない(と、現代人は考える)。
法律は寛容さを保ちつつ、一方で秩序も保ち、人々が迷惑を起こしたり、被ったりしないような社会をつくるためにあるのだ。
そういう理由から、世の中には法律が必要なのである。
ということで、「法律なんて破るためにあるんだよ!」という中二病真っ盛りの青竹野郎が現れたときには、このようにして説明してほしい。
※なお、本来の「寛容な社会のパラドックス」とは、「寛容を認め過ぎたせいで、却って社会が不寛容になる」という内容であるが、ここでは少々変えているので、これと混同しないように注意されたし。