フェミニズムはホモフォビアの問題を取り扱うことに失敗した
その限界は、バックラッシュ派の「人間の中性化」「中性人間」という言説に対する反応の中に見ることができます。
バックラッシュ派による「男女共同参画社会は、人間の中性化を目指すものだ」「中性人間を増やして社会や子どもたちを混乱させようとしている」といった主張がマスメディアで取り上げられるようになったのは、2004年頃のことです。きっかけは、「男は男らしく、女は女らしくあるべき」という質問に対して、「そう思う」と答えた若者が他国に比べて著しく低かったという日本青少年研究所の調査結果です。
この調査結果を受け、読売新聞は社説で「(ジェンダー・フリーは)生物学的な性差に対し、社会的、文化的に形成された性意識を、すべて否定する考え方だ」「男女が異性にあこがれるのは、自分にないものを持っているからだ。子育てに母親、父親による役割の違いがあることは、つとに指摘されている。性差の行き過ぎた否定は、不健全と言わざるを得ない」と主張します。数日後の衆議院内閣委員会では、当時の男女共同参画担当大臣・福田康夫さんらから「ジェンダー・フリーという言葉は男女共同参画では使わないようにしている」「画一的な男女の違いをなくし、人間の中性化の目指すと言う意味でジェンダー・フリーという用語を使用している人がいるが、男女共同参画はそのようなものを目指すものではない」というような答弁が出されました。
これに勢いづいたバックラッシュ派は、「中性人間」というイメージを通して、異性愛の関係を基盤とした家族形成に繋がるジェンダーのあり方から外れたさまざまな人たち、例えば同性愛者、トランスジェンダー、ノンバイナリーといった人たちへのフォビアをあからさまに表明し始めます。バックラッシュ派は、「中性人間」というイメージを通して、フェミニストを含む人々が意識的・無意識的に共有していたホモフォビア、トランスフォビアをかき立て、自分たちの主張を拡大していったのではないかと私は考えています。
これに対してフェミニズムの側からは「中性人間などいない」「中性人間は、バックラッシュ派の妄想である」といった反応しかありませんでした。あえてトランスフォビア、ホモフォビアを見ないようにしたのか、それともほんとうに気づかなかったのか、どちらなのかはわかりません。いずれにせよフェミニズム側は、バックラッシュ派が依拠し、利用しているトランスフォビア、ホモフォビアの問題を軽視したのです。
厳しい言い方をすると、フェミニズムはバックラッシュとの闘いの中で「ジェンダーバイアスをなくすこと・性差別をなくすこと」を優先するあまり、中性人間に対する否定的なまなざしの強化に加担していった側面があるのではないでしょうか。つまりバックラッシュ派が、「ジェンダー・フリー、フェミニズムは、中性人間をつくろうとしている」と批判すればするほど、フェミニズム側は「私たちは性差を否定しているわけではない」「性別をなくそうとしているわけではない」という主張を強化してしまう。しかしそのことが結果的にフェミニズムの定義や目的を狭め、ホモフォビアやトランスフォビアの問題を扱い損ねた、という側面があるのではないでしょうか。
いま振り返ると、2004年というのは非常に重要な時期だったと思います。なぜなら、この後バックラッシュ派はかなり勢いづいていき、フェミニズム側はディフェンスするのに精いっぱいになっていくからです。
例えば宮崎県都城市が2004年4月に「性別又は性的指向にかかわらずすべての人の人権が尊重され」という一文の入った、当時としては画期的な条例をつくりましたが、この一文は2006年の見直しで削除されます。また2004年8月には、東京都の教育委員会が、都立高校でジェンダー・フリーという用語を使用することを禁止します。この頃には、ジェンダーという用語も攻撃対象となり、有名な先生の中でも、自分の本のタイトルにジェンダーを入れないようにする、と口にするようになっていきました。
そして2005年12月に出された第二次男女共同参画計画では、「男女を中性化するものではない」「男らしさ・女らしさを否定するものではない」と、バックラッシュ派の意見をくみ取った形の文章が明記されます。この時点で、ジェンダーの二元論的な作られ方を問題とする視点は、反性差別の文脈から完全に切り離されてしまったといえるでしょう。