読書人紙面掲載 書評
プロトコル 脱中心化以後のコントロールはいかに作動するのか
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2017年10月28日
現代社会の技術仕様書
いかに自由の新たな空間を創出できるか
プロトコル 脱中心化以後のコントロールはいかに作動するのか著 者:アレクサンダー・R・ギャロウェイ
出版社:人文書院
評者:吉川 浩満(文筆業)
現代社会の技術仕様書というべき労作である。二〇世紀の終盤にミシェル・フーコーとジル・ドゥルーズが青写真を描き、今世紀初頭にアントニオ・ネグリとマイケル・ハートがグローバルに展開した現代社会論を、それを可能としているテクノロジーの側面から補完する。
フーコーとドゥルーズは近代社会を総体的に見通すための貴重な着想を残した。一八世紀以降のヨーロッパ社会は、そこで働く権力の作動形式という観点から、君主=主権型社会の古典期、規律=訓練型社会の近代期、管理=制御型社会のポストモダン期の三つに区分することができる。古典期は権力の中心化された社会である。権力は王という唯一の中心から、命令というかたちで外側から臣民を囲い込む。しかし一八世紀半ば以降、監獄や学校といった多数の諸装置によって市民を内側から馴致する社会へと移行が進んだ。近代の脱中心化された規律=訓練型社会である。フーコーが『監獄の誕生』などの著作で描いたそうした移行に加えて、ドゥルーズは論考「追伸 管理=制御社会について」において、二〇世紀半ばに起こったさらなる移行を素描した。それが管理=制御型社会の誕生である。命令によってでもなく馴致によってでもなく、テクノロジーによって人間を物理的にコントロールする脱中心化以後の新しい社会形態である。そして、ドゥルーズが見出した管理=制御のシステムがいまや資本主義の拡大によってグローバルに作動していることを論じて大きな話題となったのが、ネグリとハートの『〈帝国〉――グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』である。今日の〈帝国〉的権力は、かつての帝国主義国家のように国民国家を中心に拡張するのではなく、管理=制御のネットワークをとおしてわれわれの生活に浸透していくものなのである。
では、脱中心化以後の管理=制御はいかにして作動するのか。これを明らかにするのが本書の仕事である。それはプロトコルによって作動する。プロトコルとは、コンピュータ同士が通信をするために必要な標準的な技術の要点を述べた、ひとまとまりの勧告と規則のことだ。ネットワーク上のあらゆるコンピュータが話している共通言語といってもいい。それはコンピュータネットワークによる情報マネジメントに必須の要件である。そのようにして運営されるネットワークの代表例がインターネットである。
それがどうした、と思われるかもしれないが、その帰結は重大である。プロトコルとはコンピュータの共通言語と述べたが、これが意味するのは、分散型ネットワークとはプロトコルに従うかぎりどんな情報も流通できるという意味で民主的である一方で、それに従わなければそもそも流通の可能性はゼロという意味で専制的なものでもあるということだ。インターネットが自由を体現するメディアなどではなく、分散化と集中化、多様性と一様性、民主性と専制性の両極をそなえたものであることは、いまや周知のとおりである。
ここから、管理=制御型社会における抵抗の困難さも浮かびあがってくる。それは〈帝国〉におけるマルチチュードの困難と同型だ。プロトコルの性質上、ネットワークに参加する者だけが接続できるのであって、プロトコルそのものにたいする抵抗というものは定義上ありえない。本書のもうひとつの仕事は、そこに伏在するありうべき別の抵抗の可能性を、各種メディアやハッカー、アーティストたちの活動からフックアップしていくことだ。あくまでプロトコルの論理にもとづきながら、いかにして自由の新たな空間を創出できるか。二〇〇四年の原著刊行から十三年が経過し、言及された事例の一部は過去のものとなりつつあるが、提示された課題はいまなお新しいままである。
フーコーとドゥルーズは近代社会を総体的に見通すための貴重な着想を残した。一八世紀以降のヨーロッパ社会は、そこで働く権力の作動形式という観点から、君主=主権型社会の古典期、規律=訓練型社会の近代期、管理=制御型社会のポストモダン期の三つに区分することができる。古典期は権力の中心化された社会である。権力は王という唯一の中心から、命令というかたちで外側から臣民を囲い込む。しかし一八世紀半ば以降、監獄や学校といった多数の諸装置によって市民を内側から馴致する社会へと移行が進んだ。近代の脱中心化された規律=訓練型社会である。フーコーが『監獄の誕生』などの著作で描いたそうした移行に加えて、ドゥルーズは論考「追伸 管理=制御社会について」において、二〇世紀半ばに起こったさらなる移行を素描した。それが管理=制御型社会の誕生である。命令によってでもなく馴致によってでもなく、テクノロジーによって人間を物理的にコントロールする脱中心化以後の新しい社会形態である。そして、ドゥルーズが見出した管理=制御のシステムがいまや資本主義の拡大によってグローバルに作動していることを論じて大きな話題となったのが、ネグリとハートの『〈帝国〉――グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』である。今日の〈帝国〉的権力は、かつての帝国主義国家のように国民国家を中心に拡張するのではなく、管理=制御のネットワークをとおしてわれわれの生活に浸透していくものなのである。
では、脱中心化以後の管理=制御はいかにして作動するのか。これを明らかにするのが本書の仕事である。それはプロトコルによって作動する。プロトコルとは、コンピュータ同士が通信をするために必要な標準的な技術の要点を述べた、ひとまとまりの勧告と規則のことだ。ネットワーク上のあらゆるコンピュータが話している共通言語といってもいい。それはコンピュータネットワークによる情報マネジメントに必須の要件である。そのようにして運営されるネットワークの代表例がインターネットである。
それがどうした、と思われるかもしれないが、その帰結は重大である。プロトコルとはコンピュータの共通言語と述べたが、これが意味するのは、分散型ネットワークとはプロトコルに従うかぎりどんな情報も流通できるという意味で民主的である一方で、それに従わなければそもそも流通の可能性はゼロという意味で専制的なものでもあるということだ。インターネットが自由を体現するメディアなどではなく、分散化と集中化、多様性と一様性、民主性と専制性の両極をそなえたものであることは、いまや周知のとおりである。
ここから、管理=制御型社会における抵抗の困難さも浮かびあがってくる。それは〈帝国〉におけるマルチチュードの困難と同型だ。プロトコルの性質上、ネットワークに参加する者だけが接続できるのであって、プロトコルそのものにたいする抵抗というものは定義上ありえない。本書のもうひとつの仕事は、そこに伏在するありうべき別の抵抗の可能性を、各種メディアやハッカー、アーティストたちの活動からフックアップしていくことだ。あくまでプロトコルの論理にもとづきながら、いかにして自由の新たな空間を創出できるか。二〇〇四年の原著刊行から十三年が経過し、言及された事例の一部は過去のものとなりつつあるが、提示された課題はいまなお新しいままである。
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2017年10月27日 新聞掲載(第3212号)
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