編集部ブログ

2017年10月29日 13:00

大塚英志インタビュー 工学知と人文知:新著『日本がバカだから戦争に負けた』&『まんがでわかるまんがの歴史』をめぐって(4/4)

【聞き手】 碇本学
【提供・制作】 大塚八坂堂

・アヴァンギャルドを受け継いでいった作家たち

---- アヴァンギャルド芸術から戦前、戦中、戦後のものが手塚少年の元に集まるというか結集されて彼のまんが表現になっていきました。そこから戦後のまんが史が始まっていきます。

大塚 しかし、それは手塚の身の上だけの話しではなかったんだよね。彼はちょうど思春期の真っ最中だったけど、少し年上だけど三島由紀夫がいる。彼はレニー・リーフェンシュタールの『オリンピア』(『民族の祭典』『美の祭典』の二部作を指す)というナチスドイツの映画を観てこれが機械芸術なんだっていうね、直接的な言い方ではないけど機械芸術論を知っていないとわからないような作文を学習院時代に書いている。一方ではミッキーマウスについては大量に観ていたってエッセイの中でなんども書いている。
 三島の中にある身体の問題、彼は生涯身体にこだわっているけど、まんが『クウデタア』の中でも描いていることだけど自分はオブジェになりたいって言ったでしょ。身体的なものを逆に非肉体的なものに転換したいというのが三島の欲望だった。手塚とは真逆にね。そういったもの背景にあるのはアヴァンギャルドの思想だよね。生身の人間の身体を機械化する。同時に機械を身体化する。互換性、入れ替え可能な、置き換えるっていう考え方だった。そもそも高見沢のパンツ一枚で変な踊りをするっていうのは身体の機械化だったわけ。

---- なるほど、手塚と三島は身体の問題に関しては真逆な立ち位置だったんですね。

大塚 今度はキャラクターという非身体的なものに身体を与えるっていう互換性がある中で、三島は言わば身体の機械化みたいことをやっていって最後死んでいくと思った方が整合性がつく。『からっ風野郎』という映画の中で監督に操られるような機械のような俳優になりたいって言ったりとか、ナチスドイツ的に言うとボディビルって身体の機械化なわけだしね。

---- それは自分をキャラクター化したいっていう欲望なんですか?

大塚 そうそう。それが三島にあったわけだよね。手塚は逆にキャラクターを人間化したいっていうのはそのコインの裏表で、戦時下の同じような機械芸術論の影響でしょう。
 一方で戦時下の科学啓蒙主義も戦後に持ち越され、三島の最近映画化された『美しい星』でUFOの話を書いた小説とか、あるいは手塚と同時期にまんが家になったモリミノルっていう人がのちの小松左京だったり。SFの起源というのもそこにあるんだよね。

---- 戦時下の表現がやはり元になっているわけですね。

大塚 水木しげるさんは関西で画工時代を過ごすわけでしょ。職人さんとして印刷に関わるようなことを戦争に取られるまではするわけ。さっき言ったように関西にはモダニズム文化があって一方ではボンボンの文化でしょ、もう一方は印刷とか出版の中にそれが降りてくる。ポスターを作ったりデザインしている若い職人みたいなデザイナーや印刷技術者の人たちもこのモダニズムやアヴァンギャルドも受容していったわけ。
 水木さんのまんがの中の陰影を含んだ画面とかどう見ても表現主義なわけよ。アヴァンギャルドなんだけど水木さんの作品は妖怪論みたいなものとしてしか論じられないでしょ。水木さんも言わば戦時下のアヴァンギャルドに触れた大衆の一人だったと考えていかないと、楳図かずおもそうなんだけどね。
 小説の世界では、さっきの、三島もいるし小松左京もいるし安部公房もそうだった。終戦後、東大の仏分科出て今村太平の『漫画映画論』読んで、アニメーターになっちゃう高畑勲がいたりする。戦争が終わった時にちびっこだったんだけど、にいちゃんがいて航空科学的思想みたいなものをどっぷり浴びた子供だった宮崎駿や、戦闘機の三面図が書ける戦時下のこどもだった大塚康生さんと出会う。高畑と今村理論を実践するアニメーターとしての宮崎駿との師弟関係ができあがるわけでしょ。

---- ちゃんとすべて繋がっているんですね。

大塚 だから戦時下を解きほぐした時にきちんと説明できるのが紛れもない事実なんだよね。そこの部分が中核だよね。そのあとは戦後の展開みたいなことになっている。


・大正アヴァンギャルドはまんがに行くっていう運命だった

---- 戦後の『アトム大使』の大使とはなんだったのかっていう話についても聞かせてください。

大塚 それはさっきの対話の問題にも繋がっていくんだけど。なんで対話できないかっていう問題にね。戦後においてアトムはサンフランシスコ条約、つまり日本がもう一度独立するときに戦争やってたすべての国と全面講和していくのか、日米安保体制に組み込まれていくのかの選択を求められたわけなんだよね。そこでアメリカが押し付けた憲法と、日本がアメリカから選択させられそうになっている体制の矛盾が出てきた。
 9条の平和主義みたいなものは戦争放棄じゃなくてきちんと読んでいけば、戦争を放棄しますっていう先に、国際社会の中で名誉ある地位を占めるためにはどうすればいいのかって言ったら、国際社会の中でネゴシエーター的なことをしていくっていうのが暗に含まれていた。ただアトムは武装するんじゃなくてネゴシエーターする、交渉するという「大使」になった。アメリカのもとで戦う戦闘ロボットっていう案もあったんだよ。その二つのプロットの中から手塚先生は選択したわけ。それは手塚の中でもだんだん変質していってしまうんだけど。

---- 手塚さんは本にも書かれていますが、「大きな物語とそれに翻弄される個人の関係」を描きたいと言われてました。

大塚 それはある意味で田河水泡が発見したものというか、僕のとこにいた大学で写真をやっていたやつがある日、まんがの見開きが面白いと言い出して、彼からすると面白いんだっていうのね。だから彼に見開きの研究をしばらくやるっていうからやってもらっていて、『のらくろ』の見開きの中に当初は中世なんかの源平合戦を描いたような絵巻的な構図があったりするんだけど、その見開きの中が変わっていく。
 戦場の風景のパースペクティブみたいなものを吸収していくのは日中戦争が境なのね。『のらくろ』っていうのは戦場の中にいる個人になっている、モブシーンだよね。つまり大きな物語の中にいる個人ってこと。それをポロっと彼は論文の中に書いていたんだけどそういうことだよね。手塚が見出したものっていうのもクライマックスでモブシーンが絶対に入っている。『罪と罰』が典型的だけどモブシーンの中で「僕は人を殺したんだ!」って最後にカミングアウトするのに、そこでロシア革命が起きてしまってその喧騒の中で彼の必死の内面の告白が掻き消えていく。

---- 個人が大衆の中に、歴史の中に飲み込まれていくっていうシーンですよね。

大塚 そう、飲み込まれて翻弄されていくっていう。

---- それが手塚さんの描きたかった主題でもありますよね。

大塚 『火の鳥』に至るまで永遠とね。彼が持ってきたものだし、ある種トキワ荘グループの主題でもあるよね。僕の中国の教え子の女性が博士論文で石森章太郎の『マンガ日本の歴史』を扱うっていう無茶なことをしたんだけど、あの作品はまんが研究の中ではまったく評価されていないんだけどね。彼女は石森が例えば平清盛みたいな歴史の教科書に出てくるような人物が出てきた後で今度は一転して大きな風景のショットに持っていくって気付いた。必ず個人を大きな風景や戦場の風景のモブシーンで相対化するモンタージュをしている。そういう意味で、手塚の個人と大衆みたいな関係性みたいもので歴史を描く手法を『マンガ日本の歴史』の中で再構築したっていう論文を書いた。途中までこっちは指導していたけど衝撃的だったよね。ああ、そういう見方をしなきゃいけなかったのになまじ脇で石森さんが晩年に『日本の歴史』の原稿を描くのを見ていたから、飛ばし仕事をやってるんだなっていう見方しか、ぼくにはできなかった。それを中国の留学生に書かれて結構ショックだった。ぼくがバカでした。

---- そういうものが次世代に引き継がれていったんですね。

大塚 それがおそらく大友の『AKIRA』なんかの大きな見開きなんかの問題だとかに繋がっていると思うよ。

---- その後に手塚から引き継いだ「内面」をいかに表現するかっていうことでトキワ荘グループと劇画グループが出てきます。

大塚 まあ、対立軸としての「COM」対『ガロ』みたいな構図があってわかりやすいんだけどみんな手塚チルドレンだったんだよねっていう。本人たちがそう自負しているんだからね。
 劇画みたいなものがアンダーグランドで反権力的で手塚は体制的みたいな作られた構図みたいなものがあって、確かに関西組は手塚さんのファンで周りに集まったのになんで僕たちを置いて東京に行くんですかっていう恨みはあったとは思うけどね。

---- わかりやすい愛憎関係ですよね。

大塚 それで東京で集まってきたあいつらが弟子みたいな顔しやがってみたいな。

---- しかも売れっ子になっていきますしね。

大塚 そういうことがきっとあったんだと思うけどね。でもそれを含めて手塚のディズニー的なものを引き継いでいったのがトキワ荘グループで、それを踏襲しないで絵的な部分でアメリカンコミックやリアリズムなんかを追求していこうとしたのが劇画グループだったんだよね。でも両方とも「映画的なまんが」をつくろうとしていたわけです。

---- 手塚治虫から影響を受けて「映画的なまんが」を描こうとしたコインの裏表のような関係だったんですね。

大塚 丸顔なのに極めて風景はリアルとかさ、内面性を掘り下げるっていうつげ義春が劇画のとこに出てきてもなんも不思議ではないわけで、つげさんはトキワ荘にはいなかったけど赤塚さん経由でその周辺にいた人だしね。だからその辺は対立軸で考えていくと歴史の全体像みたいなものが見えなくなっていく。

---- あとがきのところで歴史は一本筋ではなくていろいろなものが複雑に絡み合っているというようなことも書かれています。

大塚 そう「まんが史」って書いた瞬間にダメになるし、「まんが史」を「まんが史」と「劇画史」に分けてもダメになって見えなくなるわけでしょ。

---- 混在していて入り混ざっているというのが実際のところですもんね。

大塚 ジャンル単独の歴史はない。みんな友達だったし同じ場所にいた。わかりやすい例を出せば田河水泡が高見沢路直で、田河水泡になる時、結婚した嫁が小林秀雄の妹だった。

---- 本にも義理の兄弟って出てました。どういう関係性だったんでしょうか?

大塚 田河水泡は隣に可愛い子がいたから結婚しちゃったってなにかに書いてるけどさ、そんな理由で小林秀雄が自分の大事な妹を嫁に出すわけがないんだよね。やっぱり小林秀雄と田河水泡の間にも思想的な盟友関係があって、そのことは戦後に小林秀雄がぽろっとエッセイの中に田河水泡についてはっきりと書いている。
 田河水泡はまんが家になった瞬間に楽隠居してるおっさんみたいなパブリックイメージを作り続けたからね。作家が作ったキャラクターに翻弄されて批評や研究がついていく。現代美術の側は田河水泡といえば可愛い女の子と結婚しちゃってアートやめちゃったんだよねっていう自分たちの都合のいい歴史の中でアヴァンギャルド芸術家の田河水泡の歴史が見えなくなっている。

---- そのあともアヴァンギャルドにあったものをまんがに繋げていったことが見えなくなっていますね。

大塚 少なくとも大正アヴァンギャルドの理論やテーゼを真っ当に引き継いだのは田河じゃんっていう。

---- そうですね。

大塚 大正アヴァンギャルドはまんがに行くっていう運命だったんだよ。だから村山知義も『三匹の子熊さん』っていうアニメーション作ってるし柳瀬正夢もまんがを描いてる。

---- 村山知義ってイヤミのモデルになったと言われる人でしたよね。

大塚 そう。大正アヴァンギャルドを<機械化された芸術><機械そのものを表現の対象とする><アメリカニズムの賛美><幾何学模様の組み合わせによる表現><綜合芸術への志向>だって言った人で、だったら彼らが目指したものから、まんがとかアニメーションが出てくるのは当然のことなんだよ。

---- その五つのことはまんがやアニメの基礎になっている部分ですからね。

大塚 まんがやアニメーションの方法や美学を理論的に言ったらそういうことになっちゃうでしょ。だから、みんなアヴァンギャルドの生き残り達がまんがやアニメ、あるいは絵本の方に行くわけ。

---- ただアヴァンギャルドっていう歴史で見てしまうとそこで切れてしまうわけですね。

大塚 まんがとの接岸点が見えなくなってしまう。アヴァンギャルド、田河水泡、手塚治虫っていうことに繋がっているということが見えないんだよね。だから今になってアートって言われても困るんだよね、村上隆にそんなことを言われても。

---- 知っていて言ってるんですかね、知らないんでしょうか。

大塚 知ってたら、確信犯だよね。わかんないけどね。

---- 村上さんの訴訟問題にも最初に書かれていて、「ミッキーの書式」の組み合わせのことが問題になっていました。一個だけ勝訴できなかったのはそっちのイラストの方が可愛いっていうことがありますよね。

大塚 それは模倣からしれないけど可愛いっていう一点でオリジナルを凌駕している。絶対に小さい子にどっちが欲しいって言ったら村上隆のやつじゃないほうじゃん。答えは明らかでグッズを作ったらこっちの方が売れる。少なくとも優劣は置いといても拮抗しうるぐらいのものにはなりえているでしょう。

---- 組み合わせによるオリジナルなんてないと言いますが、その中にあるものっていうか。

大塚 そこを否定しちゃうとまんが家とかいらないじゃん。この前コミケに萌えキャラを自動生成するっていうプログラムが出たんだけど、どこまでが工学的なものでその先に工学的なものがあるのかないのかっていうことが一番大事な問題だと思う。
 物語なんて構造とかすべて還元できるよって言うけど、僕は最終的に作者の固有性はあるんですよっていう立場は崩していないわけでさ。みんなそこを誤読していてすべてああいうものは還元できるって言っているんだと怒るんだけど、そうじゃなくて小説家が書く九割九分ぐらいはシステマティックな方法論に還元できるんだけど、そこの先になにが残るものがあってそれを文学と呼ぶのであるならば私はそれを全然否定しませんってちゃんと日本語で書いているわけ。読めって。
 さっきの工学的なものと人文学的なものの関係ってそうでしょ。順列の組みわせによって表現ができてしまうというのは東浩紀のデータベース論、物語消費論的に作れてしまうのは確かなんだけどそれをこっちが想定している以上のことをAIがやっちゃう「「りんな」」みたいなね、腐女子になりきるって誰も思わなかったけど今目の前にある。ただその先になにがあるのかないのかっていうことが問題でしょ。
 少なくとも村上隆に関しては順列組み合わせ可能な先に自分のキャラがあって、それをオリジナルティと呼びたいのならば、同じく順列組み合わせの果てに生まれた彼が訴えたパチモノの固有性も彼は認めないといけないんだよね。矛盾している。

---- 村上隆自体が何かを連想されるものでしかないのに。本当に矛盾してます。

大塚 それが通用するのは村上隆に世間が与えてしまった権威でしょ。あと芸術だっていうこと。

---- 昔からあったんだよって芸術関係だと誰もツッコめないんでしょうね。

大塚 うん、だからツッコむのがぼくの役目。


・まんがについての教科書を作ろうと思った理由について

---- 最後の方には「24年組」のことや「少女まんが」「少年まんが」についての話が出てきます。

大塚 それに関してはさらっとだけどね。本当は戦争中で終わってもよかったけど、とりあえず70年代ぐらいまでやっておかないとね。この本自体が一番振り出しに戻るとまんがの歴史を書くっていうのは、もともと教科書を作ろうと思っていたわけ。だからこれの元になったのはちっちゃな手製の文庫本で、神戸の大学で教えている時にテキスト用にほぼこの内容のコンパクトなものを自分で作って教科書として使ってたんだよね。
 そのあと、中国とか外国に行ったときに日本文化論を学生に教えていたんだけど、彼らは当然日本語がわかるのでそれをバージョンアップしたものを使ってまんがの授業をやっていたら、こういうものがもっと欲しいと散々向こうから言われたのね。文庫をブラッシュアップするとか、翻訳本を出すとかいう話もあったんだけどもう少し広がったものの方がいいよねって思ってさ。それに、アメリカ人だかが書いたもので、まんがでわかるまんがの歴史みたいな本が実はあるわけ。

---- そういうものが出ているんですね。

大塚 日本でなんでこういうのないのって、いろんな国の人から言われていて、ないよねって言っていたら大塚作れよって言われたので、じゃあ作るよって言ったのが発端。アメリカでも日本でもそうなんだけど、まんがやアニメーションの研究って、扱うのは80年代以降なんだよ。つまり今の研究者達はだいたい自分たちが生まれたちょっと前ぐらいから始めようとするわけよ。自分たちが生きている時代が歴史的な転換期にいると思う。それは若い時の僕も正直に言ったらそうだったよね。

---- やはりどの世代でもそう思いたがるんですね。

大塚 思いたがる。だから結局、学術化されたものは80年代から始まっていて、日本の研究がそうなんでアメリカなんかの研究もそれを踏まえるので70年代以前のことがかなり空白になってしまっている。
 手塚治虫のまともな研究でさえここ数年の中で始まったような感じで、いきなり萌えとか初音ミクとかキャラっていう言葉から入ってしまう。東浩紀の『動物化するポストモダン』と『物語消費論』がセットになったところから始まってしまう。マーク・スタインバーグはアトムまでは遡った。でも、その先が見えない。知識として多少あっても、問題系として結びつかないわけよ。

---- アヴァンギャルドとまんがという本来は繋がっているはずのものがそこでは結びついていないわけですね。各カテゴリーで分断されてしまってるという感じでしょうか?

大塚 そうだね。例えばカナダ人のトーマス・ラマールの『アニメ・マシーン グローバル・メディアとしての日本アニメーション』というのが海外で一番日本アニメ論として影響力があるんだけど、言っていることは簡単です。
 遠近法によってパースペクティブを表現する美学が西欧にある一方で、それに対して日本のアニメーションはマルチプレーンでレイヤーを重ねていくという美学なんだってことに過ぎない。すごくめんどくさい書き方をしているだけで。そのマルチプレーン的美学についてトーマス・ラマールが書いているのは、やっぱり80年代以降のアニメーションについてなんだ。僕なんかの本には必ず書いてあるけどマルチプレーンは戦時下にできあがった美学っていうことでしょ。

---- エイゼンシュタインのモンタージュ論のことに絡めて『桃太郎 海の神兵』の飛行機のシーンのところに書かれていましたね。

大塚 そうそうそう。結局モンタージュの美学っていうカットとカットの結びつきではなくて、レイヤー感のモンタージュっていうのが戦時下にできた日本のアニメの美学っていうことをエイゼンシュタインのレイヤー化しているマルチプレーンによって表現しようという手法を『桃太郎 海の神兵』は取り込んだってことだよね。

---- そういうところから始めないとまんがの流れが繋がらないよってことですね。

大塚 そうしないと、なんとなく80年代以降のものだけを見るとなにか日本文化の本質的なものなんだっていうような気がしてくる。トーマス・ラマールが1、2行だけ私は決してそういうつもりはないと言いながら、80年代以降の話しかしてなくて、戦時下とか戦前のアヴァンギャルドの関係とかについて踏み込めていないで、結果として日本文化の表層的な部分がモンタージュなんだ、レイヤー論なんだって誤解が広がることになっている。だから80年代以前を書くっていうことが教科書を作るときには絶対的に必要だった。

---- これは海外でも出すんですか?

大塚 あとはアメリカ人たちがどうするかなんだよね。韓国・中国だと速攻で翻訳が出ると思う。


・全体像を正面から見て自分の歴史観を作っていくこと

---- この『まんがでわかるまんがの歴史』の表紙ってどんな感じになるんですか?

大塚 寄藤文平がやってくれて、それこそ構成主義と戦時下の関係を彼がデザインとして表現してくれている。

---- 『黒鷺死体宅配便』みたいなデザインなのでしょうか?

大塚 いや、それよりは『アトムの命題』に近いかな。もともと寄藤文平はR-25とかをやっていたデザイナーだから。彼が装丁を始めた直後から付き合っているんだけど、彼はいい意味で広告の人だから商品の中身をきちんと理解して表紙をデザインしてくれる。今回は構成主義やアヴァンギャルドの問題と戦時下の問題なんだよねって彼自身が言わなくてもわかっていて、それをどう表現するかってことに苦慮してくれているというところがあるのでありがたい。

---- あとがきでもアヴァンギャルドとか機械化とかについても書かれていますが。

大塚 あとがきに行く前に寄藤くんには渡しちゃっているから。でも、ちゃんとわかってくれる。『アトムの命題』のときにも大塚さんの言っていることは構成主義のことですよねって構成主義的な感じでアトムの絵を最初に描いて作ってきたからね。
 彼には憲法の本だったり、黒鷺だとか頼んでるけど、黒鷺だったら人が生き返るけどコミカルな作品だからこれはリアリズムじゃないんだよねって。ある意味では劇画っぽい絵だけども紙で書かれたようなチョキって切っても死なないようなアトムの肉体、手塚的な肉体とは逆のことをやってるんだよっていうことがわかったから、表紙がペーパークラフトぽくなってる。そういう風にちゃんと論理的に説明できるようにデザインをやってくるのが寄藤文平のすごいところ。

---- そうなんですね、そう言われると大塚さんの本の装丁を多く手がけられている鈴木成一さんとは違うタイプの装丁デザインをされているわけですね。

大塚 うん、鈴木成一はまた別の意味で本を「読む」。なにか文系的にざっくりと本質を見抜く。江藤淳論の本の装丁、頼んだら、読んだら黄色の気がするって言って。黄色とかね、意味わかんないんだけど。でも、出来たら、ああ、これしかないって思うよ。

---- 鈴木さんは直感なんですね。

大塚 それが鈴木成一っていうデザイナー。寄藤くんは工学的なデザイナーなんだろうけどその理詰めのところで出した結論が非常にこちらとコミュニケーションできる工学系。鈴木成一は逆に説明してもわかんないけど、正しいからいいやっていう文系。気に入らない絵は絶対デザインしないとかね。

---- 表紙も楽しみですね。最後にこの『まんがでわかるまんがの歴史』について言いたいことってありますか?

大塚 なんという型通りの質問だ。
 これは、一つの歴史観の提示だってこと。それで気に入らないんだったら自分の見通しみたいなものを作るべきだよねってことでもある。
 例えば、この中にそれこそ自分も杜撰だからケアレスミスがネット版の時にはあったから校閲を入れてかなり直したけどまだ、ケアレスミスがあるかもしれないし、あったら申し訳ない。ただ、そういった小さな一部分のミスを指摘しても、提示した歴史像そのものを論破できたと思わないことだ。つまり歴史っていうものは数学の方程式みたいな証明ではないわけ。理論物理学の方程式とかだと一個計算ミスがあったら一個前提の違いがあったら全部崩壊する。
 歴史っていうのはもっとグニャグニャした不定形なもの、川の流れのようなものだから一箇所が塞きとめられても川の流れは変わらないのが大半であって、一箇所を批判するんじゃなくて全体を批判した上でこれに変わる違うみたいなものを提示するべきだよね。それが歴史観っていうものだから。

---- そういうところが『日本がバカだから戦争に負けた』で出てきた工学化との話と繋がってるんですね。

大塚 そう、細やかな事実の検証や立証サイトとかいって細かいことをネチネチ検証していくでしょ、問題はそのことによって大きな枠組が果たして組み換えられるのかどうかってこと。みんな検証して、誰かを否定してお終いでしょ。でもね、神の宿る細部と神の宿らない細部もあってね。

---- 確かに自分が言ってることが正しいってことを言いたいだけですもんね。全体像を把握しているわけではなくて、細部について検証しても大きな枠組が変わるかどうかまで考えが及んでいない人が多い印象があります。

大塚 だから慰安婦や南京虐殺の問題って、いくつかの歴史資料を否定すると全体を否定しうるっていう理系的な論理構成になってるでしょ。でも、文化っていうのは理系的な文化構成ではないわけで、こっちに否定する資料があって、あっちに肯定する資料があった場合に全体としてどう見ていくかっていう問題だとかね。
 ここは書いてほしんだけど、慰安婦問題で軍の関与を証明する資料が見つからないっていうでしょ。一つはまずいから消しちゃったという単純な言い方ができる。もう一つはそもそも軍の関与が残らないような資料の作り方を最初からしているわけよ。あの時点で軍部っていうのは官僚だからね、さっき言ったように映画の話の時に、あくまでも民間の皆さんが望むから民間の皆さまがやることに対して軍はできる限り協力をしますよっていう記録が残る。慰安所っていうのも基本的にその文脈なわけ。あくまで民間の皆さんがやることに軍がお手伝いするっていう形式論の作文が残る。それは、日文研にいて官僚とつきあってると、なるほどってリアルにわかるよ。絶対自分にというか、責任主体がない文書をつくるもん。

---- 軍はお手伝いするけどやれとは言ってませんよって感じで証拠は残さない。

大塚 中曽根なんかは、自分が慰安所を作るの手伝ったって、平気で回想録で言ってるけどね。だからそうやって残っている資料そのものを含む大きな文脈がいかに評価していくのかっていうことが歴史学であって、見つからないからその事実はないっていうのは理系的なロジックなんだよ。

---- そういう意味でこの二冊の内容が繋がっているがわかりますね。情報論的な社会に対してのカウンターカルチャーになるための人文知になるってことを大塚さんは言われています。

大塚 だから、映画史の中で言った必ずアリバイ証明的なことを軍部がやって、民間の要請に従ったっていう形を取る。映画史の研究の中では資料を探っていったら大前提として共有されているわけよ。でも、今度はそれが歴史一般を見ていく知識として一般の人たちにシェアされているかと言えばされていない。さっき言った学問の人文科学が社会と関わっていない発信できていないっていうのは例えばそういうことでしょ。彼らは映画のテキストを解釈するっていう枠の中でそれを留めてしまっていて、そういう風な枠組で物事を見ていく、言わば歴史の見方みたいなものを普遍できていない。普遍化する努力をしていないっていうことが問題なのであって、それをちゃんとやることがカウンターカルチャーとしての人文知なんだよってことにもなっていく。

---- それは大塚さんが言われている互いにコミュニケーションできるっていうことですね。

大塚 最終的には歴史の見通しみたいなものをそれぞれが一人で作れるように歴史観を持つところにいかないと。柳田國男が歴史の史に心って書いて「史心」っていうことを言っていた。自分の史心をいかに作るか、歴史を見る心。まあ、歴史観だよね。
 自前の歴史観をどう作るかっていうのはネット上のコピーアンドペーストやバイアスがかかった資料だけじゃダメなんだよ、断片的なものではなく全体像を正面から自分の歴史観から作っていくことなんです。そのとき、「全体像」というなかにジャンルや国境を否応なく超える視点が出て来る。
 そういうことです。

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【了】

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