蓮の落胤-創価学会、話そうか

非活動家の学会3世が創価学会、日蓮、公明党等を語ります。

原田会長の愛人疑惑について

タイトルにある通り、原田会長の愛人疑惑についてです。と言っても、大した話ではありません。私が以前、職員関係者から聞いた話を書きます。

 

正直なところ、スキャンダラスなネタ、イエロージャーナリズムに加担するような話題は余り記事にしたく無いのですが、公明党国会議員の愛人騒動が連チャンで報道された昨今無視も出来ないかなと思い書くことにしました。ネット界隈でも度々話題になりますし。

 

最初に断っておきますが、又聞きレベルです。また、北海道時代やら隠し子やらマンションやらと具体的な話が飛び出ていますが、そちらに関しては知りません。

 

話を聞いたのは2014年の夏頃だったと記憶しています。話をしてくれたのは年配の職員関係者。仮にA氏とします。

 

A氏に話を伝えたのはA氏の後輩B氏。B氏とは、私も何度か顔を合わせたことがあります。B氏は職員関係者ではないですが、組織で役職を持ちバリバリ動き回る典型的な活動家幹部でした(今も)。

 

B氏には妹がいて、B氏が妹から聞いた話をA氏に伝え、それを私が聞く形となりました。

 

私がA氏から話を聞いたのは2014年の夏頃ですが、A氏がB氏から話を聞いたのはもっと前。B氏から話を聞いたのがいつだったのか、私はA氏に尋ねなかったが、B氏とB氏の妹の年齢から考えて、2005年前後だと推測しています(A氏とB氏の年齢、B氏の妹が女子部であったことから推測しているが、大きく外れている可能性もある)。

 

B氏の妹→B氏→A氏(2005年前後)、A氏→私(2014年)、という時系列。

 

B氏の妹は当時(私の推測するところで2005年前後)、女子部員として新宿区で活動していました(非職員関係者)。

 

B氏の妹がB氏に話したのは、当時新宿区周辺で話題になっていたある目撃談と噂。新宿区で目撃されていたのは何故か変装していずこかに向かう原田会長(2005年以前だとするとまだ会長ではなく事務総長)。

 

奇妙にも変装して移動する姿が目撃されていたおかげで、キャバクラか?風俗か?それとも愛人か?と噂になっていたそうです。

 

婦人部ならともかく、女子部の間でも噂になるというのは中々厳しい事態(目撃者の中に女子部がいたのかもしれません)。普通、噂話の中心は婦人部。危険な話は男子部の特別部隊と一部壮年部に限定と相場が決まっています。ある程度話が広まっていたのでしょう。

 

幹部が変装して移動するというのは私も見たこと(聞いたことも)無いので、当時の新宿区で、原田会長の夜遊び/愛人疑惑が出てきても自然なことかと思います。

 

後ろめたさや隠し事でもない限り、学会幹部が人目を忍んで行動する理由がありません。目立ちたいとは思わないでしょうが、敢えて変装する合理的な理由がありません(それこそ変に勘繰られます)。

 

保安上の理由……というのも考えられるのですが、原田会長(事務総長)クラスになれば、警護の1、2人付けることが出来るでしょう。保安上の理由ならば単独行動こそ避けるはずです。

 

理事長や副会長クラスの人物が新幹線に一人で搭乗していたとの目撃談を何度か聞いたことがあります(地方出張かな)。勿論変装なんかしていません。やはり変装して移動するというのは不自然です。

 

その後、噂がどうなったのか私は知りませんが、原田会長の愛人疑惑は突然ネット上に登場した話ではありません。地域によっては以前から囁かれていたことです。

 

一部職員関係者(とおそらく活動家幹部)の間では普通にシェアされていたのでしょう。私がA氏から上記の話を聞いたのは、全然関係の無い話をしていた時でした。ふと、“幹部の実態”的な話題になった時、「原田会長も~」とサラリ。

 

学会員が全国にいる以上、隠し事を続けるのは困難です。私も職員関係者の風俗通いや幹部の不適切な関係を直接耳にしたことがあります。悪事は大体知られています。弓谷元男子部長なんか、表沙汰になる前から周りは実態を把握していたことでしょう。表に出るかどうかはその時々の権力者の都合によります。

  

まぁ、私の聞いた話が本当はどうだったのか、例えば何らかの後ろめたくない事情で原田会長は変装せざるを得なかったのか(考え辛いですが)、それは分かりません。変装した原会長自体が誤認かもしれません(地域で噂になるくらいですからこれも考え辛いですが……)。

 

気になる方は、新宿区周辺で活動している、活動していた人に聞いてみると良いでしょう。箝口令や苦しい釈明が既に敷かれているかもしれませんが。

 

創価学会は嘗て日顕氏のシアトル疑惑を大々的に報道し、責め立てた団体です。“末端御僧侶の実態”等も公表してきました。「日顕宗」悪僧列伝なる書籍すら発刊しています。

 

創価学会は「宗教団体トップ・幹部の破廉恥な言動」を厳しく糾弾することを是とする団体です。身内にだけ甘いというのは通じませんね。

 

 

日興の扱いについて(後編)ー宗教法人として

前回に続き、日興の扱いについてです。

 

日蓮世界宗創価学会なる計画。この実態が何なのか、明確に知っているわけではありませんが、もし「宗教法人」としての創価学会を改定する計画であるならば、日興から距離を置く必要性が法律という面から存在するのかもしれません。

 

文化庁が配布している宗教法人運営に関するハンドブックの中で、宗教法人の要件について以下の様に説明しています。

http://www.bunka.go.jp/seisaku/shukyohojin/kanri/pdf/h22_shukyohojin_unei_guidebook.pdf

 

宗教団体の要件

○ 教義をひろめる

宗教なら、当然、教義があるはずです。また、単にあればいいというのではなく、それを人々にひろめる活動をしていなければなりません。

 

○ 儀式行事を行う

宗教活動の一環として、日頃から儀式行事が行われていなければなりません。

 

○ 信者を教化育成する

教義の宣布によって信者を導くことが行われ、信者名簿等も備わっていなければなりません。

 

○ 礼拝の施設を備える

邸内施設ではなく、公開性を有する礼拝の施設がなければなりません。

 

  

2014年の教義会則変更からもうすぐ3年が経過する訳ですが、宗教団体の要件に含まれている「教義を広める」の項目は、創価学会にとって困った存在であったのかもしれません。

 

1991年に勃発した宗門との紛争以降、創価学会は徐々に「大御本尊」から距離を取ってきました。もっとも、登山停止状態だったので、物理的にも距離を置かざる得ない状況でした。

 

大御本尊から距離を取った理由は様々あったわけですが、創価学会の教義会則に大御本尊が入っていた以上、宗教法人としての創価学会は「教義を広める」つまり大御本尊を広める必要性があったと言えます。

 

2014年の教義会則変更により、宗教法人としての創価学会は大御本尊を広める必要は無くなったわけですが、教義会則の中には「日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ」という文言が残っており、「日蓮大聖人を末法の御本仏」と広める必要性は残っています。

 

日蓮大聖人を末法の御本仏」とする解釈は、日蓮系でもかなり限定された、日興門流の一部に限定された解釈です。創価学会日蓮正宗時代の名残を消すことに必死ですが、「末法の御本仏」という解釈は、宗門との紛争以降も外してこなかった(準備してこなかった)ので、恐らくしばらくは用いるつもりなのでしょう。

 

前回記事でも指摘しましたが、創価学会の生まれ育ちを大石寺と切り離すことは出来ません。その為、1991年以前は、大筋において大石寺の教義を用いてきました(実際は複雑ですが)。

 

宗教法人としてもそれで問題は起きませんでした。大石寺に存在する大御本尊を形式的には広めていたので(実態は違うと私は考えています)、宗教法人としての創価学会は「教義としての大御本尊」を広め、法人格の要件を満たしていました。

 

創価学会が名実ともに大石寺から独立した今、他教団の教義や他教団所有の本尊を広める必要性はありません。むしろ、自分達の正当性&正統性を傷つける自殺行為です。更に、「宗教法人」としての要件にも傷をつけかねません。

 

「教義は教団運営上の都合によって左右されては云々、大御本尊が根本なのだから云々」とがなりたてる人も居るでしょうが、そこに真偽問題が絡んでくるわけです。

 

大御本尊が教義の根幹にあって、日蓮から外せないものと本当に確信出来るならば、創価学会も大御本尊から離れなかったでしょう。

 

教団運営上、他宗所有の大御本尊が都合悪い存在になったとしても、争ったときに負けてしまう教義を採用しては、それこそ運営上の大障害になってしまいます。

 

創価学会は、大御本尊を外しても大丈夫そうだと、自語相違以外に責められる点はなさそうだと、結論に達したわけです(宗門所属時代から下準備はあったわけですが)。その結論は、宗教法人としての創価学会にも都合が良いと。

 

話を日興に戻します。日興が教義に直結していると、創価学会宗教法人の要件を満たすため、日興を広める必要性が生じてしまいます。

 

創価学会は仏教団体として根本的に敬うべき三宝(仏法僧)を、

 

仏宝 日蓮大聖人

法宝 南無妙法蓮華経の御本尊

僧宝 日興上人

 

としています。僧宝、敬うべき僧侶は日興であると宣言している状態です。大石寺の開祖、開山の僧侶を僧宝にしている。これは独立教団として非常に都合が悪い。生まれ育ちから仕方がないとはいえ、宗教法人の要件を満たすために縁を切りたくてたまらない大石寺を宣伝するような真似はしたくない。

 

で、僧宝の解釈に関して、創価学会は以下の様に言葉を足しています。

http://www.sokanet.jp/pr/kyougakunyuumon/sekaikoufutosoukagakkai/bukkyounoninngennshuginokeifu/09-2/

「現代日本では、男性の出家者のみを僧と呼びますが、「僧」は、僧伽の略で、〝集い〟を意味する古代インドの言葉「サンガ」に漢字を当てたものです。意味をとって「和合」と訳され、二つ合わせて「和合僧」とも言います。」「尊崇の対象となる三宝を正しく護持して伝え広める人々の集いも、広い意味での僧宝です。今日では、日蓮大聖人の御心と御振る舞いを継承し、世界広宣流布を推進している創価学会が、僧宝に当たります。」

 

創価学会三宝の解釈に、僧宝=創価学会が誕生したのがいつ頃なのか、私は把握していませんが、宗門との紛争以降(あるいは独立を見越してそれ以前から)日興を三宝から外す準備を進めてきたのではないか?なんて思っています。

 

余談ですが、日興のみが僧宝ではなく、在家信徒も僧宝に含まれるという解釈を日寛およびその他歴代法主の言葉から導き出すのは非常に馬鹿げた行為です。

 

宗教法人の要件を満たすため、僧宝=創価学会、日興だけではなく在家信徒も僧宝に含まれるという解釈を、日寛およびその他歴代法主と一緒に広めることになります。早速独立教団ではありません。

 

これまた余談ですが、宗門と一緒にいた頃は、法宝=南無妙法蓮華経の大御本尊だった可能性もありますね(宗門時代の創価学会三宝観がわりません)。

 

三宝の中に日興が入っていれば、どう解釈をつけようと、宗教法人の要件を満たすため、日興を「僧宝」として広める必要性があります。

 

もし本当に、僧宝は日興のみであると確信出来るならば、創価学会は日興から離れないでしょう。大御本尊と同じで、争ったときに負けてしまう教義を採用することはありません。ここにも、真偽の問題が絡んできます。

 

信濃町は日興の扱いを低くすることに何の抵抗もないでしょうが、団塊世代以上を中心に、日興なくして日蓮なしと捉えている人は多いだろうと私は考えています。ある意味で、大御本尊を外す以上にハードルが高いと思います。

 

様々違和感を覚えながらも大筋において信濃町に従ってきた会員は、日興の扱いを変化させても創価学会についていくのだろうか?

 

一定数の人が見切りをつける、組織からの離反者が増加するのではないかと私は推測しています。無論、気にせず追従し続ける人も多数いるでしょう(信濃町の望む模範的な会員ですね)。

 

今年の11.18に何をするつもりなのか。日蓮世界宗創価学会がどういう代物なのか。正確な予測は出来ませんが、いずれ日興の扱いを下げる蓋然性は高く、それに反発して一定会員の離反も予期されます(どうも信濃町は会員の反発を低めに見積もっている気がしますね)。

 

宗教法人日蓮世界宗創価学会」は誕生するのか?日興は消えるのか?いずれにせよ、日興の扱いを間違えれば、信濃町は想定外のトラブルを抱え込むことになるでしょう。

日興の扱いについて(前編)

5回にわたってストレートな政治ネタを記事にしました。本当はもう少し続けようかと思ったのですが、飽きました。そして疲れました。

 

だからという訳ではありませんが、今回は教義に関する話です。私が個人的に気にかけていること、創価学会における日興の扱いについて綴ります。

 

Twitterでも少し呟きましたが、創価学会の指導から日興が消える日が来るかもしれません。消えるというのは大げさな表現ですが、消えないまでも、今より扱いが低くなる蓋然性は高いと見ています。

 

創価学会はこれまで、日興を日蓮とセットで宣揚してきましたが、それは創価学会大石寺に縁のある団体として機能してきたことに由来します。

 

生まれ育ちが大石寺に由来している創価学会は、自分達の正統性&正当性を主張する上で大石寺の正統性&正当性も主張する必要性がありました(日蓮正宗所属の在家団体でしたから)。

 

創価学会はこれまで、大石寺流の解釈を採用する形で、日蓮直弟子の6老僧を日興vsその他の構図、五一相対として捉えてきました。日蓮仏法の正統継承者は日興ただ一人であり、日興につながらないことには日蓮に連なることが出来ないという理論を採用してきました。

 

日興は創価学会にとって、自団体の正統性&正当性を補填する人物でした(一応、今もです)。

 

日興が日蓮法華経講義を筆録したとされる「御義口伝」。日蓮宗(身延)からは殆どまともに相手にされない文章を、創価学会は重書として遇してきました。恐らくですが、これまで学会が引用した「御書」のなかでも「御義口伝」は最多クラスではないでしょうか。

 

以下、幾つか示します。

 

「師とは師匠授くる所の妙法子とは弟子受くる所の妙法・吼とは師弟共に唱うる所の音声なり作とはおこすと読むなり、末法にして南無妙法蓮華経を作すなり」

この部分は師弟を強調する目的もあって、第二次宗創問題の勃発後も良く用いられた印象です。

 

「経とは 一切衆生の言語音声を経と云うなり、釈に云く声仏事を為す之を名けて経と為すと」「悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり、功徳とは即身成仏なり又六根清浄なり」

二か所セットで主に「敵」を責めることの正当性を強調する指導に組み込まれてきたと思います。

 

「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり」

モーレツ学会員、火の玉活動家を育成する言葉としてよく使われてきました。

 

「我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経歓喜の中の大歓喜なり」

勢い任せな指導をする人から良く聞いた記憶が。南無妙法蓮華経はとにかく凄いんだ!みたいな。

 

日蓮→日興と血脈が相承されたという部分は、日興から下の展開と血脈の解釈は別にして、創価学会(と大石寺&その他日興門流)も是としてきました。表向きは今もそうです。

 

宗門とのバトルが開始された後、富士の清流伝説、明治以降の大石寺周辺の混乱、相承詐称・相承未達の法主等、大石寺周辺の歴史を指摘(指弾)する場合においても、日興にメスが入ることはありませんでした。

 

むしろ、大石寺の開祖である日興の言葉を盛んに用いて、当時の法主日顕(と法華講員)を責め立てました。「日興遺誡置文(遺誡置文二十六箇条)」はその代表格でしょう。

 

散々日興を持ち上げてきた手前、日興への解釈変更は、自語相違として批判される危険性を持っていました(今もです)。宗門との紛争においても、日蓮→日興の流れは前提条件として両団体の間に存在しました。

 

Twitterでは既に何度か言及しましたが、日興が残したとされる「御義口伝」には日興真蹟が存在せず、最古の写本も日興年代から随分離れた時期のものしか残っていません。日興遺誡置文に関しても同様です。

 

創価学会大石寺と縁を切って久しい今、創価学会は日興の正統性&正当性に嘗てほど拘る必要がありません。むしろ拘るのは組織の存在条件を危うくします。その上、真偽問題が信徒の間にも広がり、日興唯一人を日蓮の後継者と認定するための根拠が揺らいで久しい状態です。

 

私個人としては、日興の文章なりその他真偽未決の文章なりを「日蓮仏法」の歴史的遺産として、著者や真偽に関係なく用いるのならば、それはそれで一つの方法だと思います。

 

何度も言いましたが、歴史上の釈尊が発言したと断言できる言葉はありません。そこから後ろの人達も似たり寄ったりです。天台智顗にしろ、弟子の章安との合作なのか、章安の創作なのか研究が進んでいる状態です。

 

先師の言葉を「先行研究」と位置付けて、取捨選択、比較検討、新説提示を繰り返してきたのが宗教の歴史と言えます。

 

日興にも価値があると思うのならば、何故用いるのか、用いる際の基準と根拠を示せば、日興なり日興が残したとされる文章なりを使用しても構わないと思います。相承書の有無や自団体の出自を気にする必要は無いです。

 

ただ、これまでの日興への評価に、大石寺生まれの自団体を権威付ける目的が含まれていただけに、大石寺を「全く無関係の存在」と創価学会のオフィシャルが宣言する昨今、創価学会において日興の扱いが低下する蓋然性は高いのでは?と考えています。

 

後半ではちょっと違う観点で話します。

公明党を振り返る(後編)

前回に引き続き公明党を簡単に振り返ります。

 

1970年から現在に至るまで、公明党は国政選挙において当選議員数という意味では勝ったり負けたりを繰り返します(最近は落ち着いた状態です)。Twitterでご指摘を頂きましたが、公明党議席数の増減に関しては選挙制度に依存する部分が多そうです。

 

しかしながら、得票率という点ではこの頃からたいした進展はありません。

 

2016年に行われた第24回参議院議員選挙における公明党の比例得票率は13.5%。

 

公明党衆議院で最多議席を記録したのが1983年(58議席)。この時の得票率が10.1%。改選、非改選合計で、参議院で最多議員数を記録したのが同じく1983年(27議席)。この時の得票率(比例)が15.7%(おそらく歴代最多得票率)。

 

1962年の参議院選挙、全国区で412万票の11.5%。1968年の参議院選挙、全国区で665万票の15.4%。1969年の衆議院選挙、512万票で10.9%。

 

公明党の得票率は15%前後で頭打ちです。得票率に関しても選挙制度に依存する部分があるかもしれませんが、公明票は投票数の15%程度が限界値です。

 

公明党の凄いところは「頭打ち」がひたすら続いていることです。単一の支持団体によってのみ支えられている政党の得票率が「頭打ち」を続けられるというのは驚異と言ってよいでしょう。

 

1970年までの公明党は、破竹の勢いで拡大する創価学会に支えられ選挙戦に勝利し続けました。強烈な信徒集団に支えられたフットワークの軽い新興勢力。しがらみが少ないという新興勢力最大の利点を生かしながら急速に勢力を拡大していきました。

 

他政党をほぼフリーハンドで批判出来、支持本体母体(創価学会)は絶頂期。負ける要素がありません。公明党は日本国内において確固たる地歩を固めます。

 

1970年に発生した言論問題とは、公明党(創価学会)が名実共に日本の有力団体として認識される過程で払った通行税の様な物だったと思います。

 

言論問題は創価学会の出版妨害行動として注目されてしまいますが、言論問題が起こらずとも、いずれどこかで何らかの形で創価学会は日本社会からの「洗礼」をうけたことでしょう。

  

言論問題で幕を上げた1970年代。公明党は、支持母体である創価学会の試行錯誤に連動しながら(場合によっては振り回されながら)、1970年代を過ごします。

 

1970年代前半、創価学会員の増加ペースは鈍り、言論問題により世間の注目を悪い意味で集め、創価学会は次の一手をどうするべきか試行錯誤を重ねていきます。いわゆる昭和52年路線(1977年)もその一環です。公明党に関係するところでは1975年の創共協定締結が一大施策でした(あまり機能しませんでしたが)。

 

創価学会側の試行錯誤に干渉されるのが嫌だったのか、この時期、創価学会公明党の関係が複雑になることもありました。

 

池田会長と公明党の不一致(1975年、竹入公明党委員長の池田会長批判) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

池田会長は公明党の方向性に不満を抱いていた(1975年、創共協定に関連する外交公電より) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

 

時代の変化に対応し組織の行き詰まりを打破するため試行錯誤を重ねた創価学会でしたが、成果の乏しい結末を迎えることになります。組織改革、新たな挑戦に失敗したと言って良いでしょう。少なくとも、長期的な道筋をつけることには失敗してしまいました(池田会長(当時)が明確なストラテジーをどの程度描いていたのかは不明です)。

 

会員数の増加にブレーキがかかり、それに対応すべく、折伏大行進時代からの脱却、新しい創価学会の確立を目指した試行錯誤は池田会長の辞任という形で終焉を迎えました(昭和54年、1979年)。

 

公明党の支持母体である創価学会はグランドストラテジーの確立に失敗しましたが、公明党もまた、将来飛躍するための大戦略の確立に失敗しました。その結果、学会員の支持に支えられて一定の勢力を保ち続けますが、新規支持層の拡大には失敗しました。

 

創価学会折伏のピークが大体1970年前後、正本堂の完成(1972年)までと言われています。創価学会員以外からの幅広い支持を取り付けることに失敗した公明党は、この時既に上限に達していたのかもしれません。

 

公明党が1970年代から現在に至るまで、革新勢力と保守勢力の間で位置取りに苦労することになった理由は、有効な長期戦略(支持を広げる為の看板となる政策の選定・実行)を立案出来なかったからです。

 

最初に得票率の部分で少し触れましたが、公明党の最多議席獲得は、衆参両院とも1983年。その後議席数が伸びることはありませんでした。選挙制度や議員定数の変化による影響もありますが、得票率の増加を達成できなかったのは事実です。公明党創価学会の成功と共に発展し、創価学会の失敗と共に停滞したという評価に尽きるでしょう。

 

1980年以降の公明党の政局関与に関して、例えば、55年体制下での他政党との連携・衝突(自公民の連携、1983年)、竹下内閣と消費税の導入、細川政権成立(1993年)からの自社さ連立(1994年)、新進党時代(1994‐1997年)。四月会との闘争(1994-2001年……自公政権が1999年始動なので実質は1999年まで)。この辺を言及、考察しても良いのですが今回は扱いません。理由は二つあります。

 

一つは、単純に私が知識不足だからです。公明党が国政政党の重要ポジションを確保し、他党との駆け引きが本格的に始まった後の動向について言及するには、他政党の内情・動向についても知っている必要があります。今の私には無理です。おそらく、冷戦後期から1990年代にかけての日本政治を振り返ることになるでしょう(簡単にできることでは無いです……)

 

もう一つの理由は、細かい政局の変化、他党との駆け引きを調べてもあまり有意義ではないと考えているからです。他党との駆け引きは様々あったと思いますが、公明党の本質、公明党が抱えているシチュエーションというのは1980年以降、基本的に変化していないと考えています(政策は変化しています)。

 

他党との駆け引きはあくまで、公明党創価学会という単一の支持団体(の構成員)によって支えられているという前提条件によって誘発された表面上の変化に過ぎない。私はそう考えています。

 

公明党の政局関与は、自民党への接近と15年間の与党生活に落ち着くわけですが、公明党がその勢力をほぼ創価学会員の支援によってのみ維持しているという状況があったからこその結末と考えています。

 

公明党創価学会員以外からも幅広い支持を取り付けていれば、あるいは創価学会が末広がりで発展し続ければ、自公政権というエンディングを迎えることもなかったと思います。

 

1980年以降の公明党の際立った変化は、政権運営者になる為の第二条件をクリア、即ちアメリカ政府からの承認を得たことです。このブログでも何度か取り上げていますが、公明党は1970年代以降、定期的にアメリカ大使館とコンタクトを取り、国政政党としての経験を積んでいきます。

  

アメリカからの承認を得る上で最大の難所となったのが、日米安全保障条約在日米軍基地、自衛隊。当初公明党は、日米安全保障条約の段階的撤廃、米軍への基地供与反対、自衛隊違憲の立場でした。これはアメリカの極東政策とまるで反対で、アメリカ政府から承認されることのない主張です。

 

公文書から確認できたのは、1977年前後からの政策方針変更。1977年の時点でアメリカ側に日米安全保障条約への賛同を非公式に通達していましたが、党としての公式見解が変更されたのは1981年。安全保障政策における方針転換は結果的に自民党との距離も縮めます。

 

1977年の二枚舌(公明党安全保障政策の変遷-前編) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

池田会長の一存に非ず(公明党安全保障政策の変遷-後編) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

不明瞭な意思決定機構(公明党の安全保障政策の変遷-番外編) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

 

公明党の安全保障政策の変更が如何なる動機だったのか(自民党への接近、政権関与を目的にしただけかもしれません)、公明党サイドが望んだのか、池田会長が望んだのか、それは分かりません。

 

確かなことは、公明党の安全保障政策の変更は創価学会が試行錯誤を重ねている時期に開始されたことと、1981年に日米安全保障条約の継続と自衛隊の存続が党として決裁されたことです。

 

 

省いた部分も随分ありますが、前編と合わせて公明党の歴史を振り返ってみました。

以下、振り返った上での私個人の感想を綴ります。

 

公明党は本質的に1980年から進歩していない。政策は変化したけれども、全ては創価学会員以外からの支持獲得に失敗したのが原因。根本的な問題は長期的なグランドストラテジーの欠落にあり、それは支持母体である創価学会にも言える。

 

政策変更があったにもかかわらず学会員が公明党支援を辞めなかった理由は、公明党支援が信仰の範疇に、つまり合理的・理性的判断だけでは機能しない場所に含まれていたから。現在も同じ。

 

創価学会員の強烈な選挙活動に依存して勢力を維持し、安全保障政策をアメリカ寄りにシフトすることでアメリカ政府の承認を得る。1980年からこの状況に変化は無く、政権運営者になる為の条件をクリアし続けている。

 

創価学会の体力が大幅に低下したにも拘らず、公明党が一定勢力を保っている理由は、創価学会以外の団体が創価学会以上に衰えたから。支持者を世襲出来るのが公明党の強み。また、自社さ連立政権発足以降の投票率の低下に助けられている面もある。対立団体の衰退と投票率の低下が、極端な選挙活動を行う学会員の相対的な影響力を強めている。

 

ただ、創価学会の体力低下は著しく、長期的な大戦略も打ち立てられないのが現状。いずれタイミングを見計らって(創価学会にとって都合の良いタイミングで)、国政選挙から(衆議院、あるいは選挙区から)撤退するつもりでいるのではと推測する。

公明党を振り返る(前編)

あっさりとですが、立て続けにダイレクトな政治ネタを3件記事にしました。その中で、政権運営者にのし上がる条件と、55年体制確立以降に発足した連立政権を振り返りました。

 

政権運営者への道(前編) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

政権運営者への道(後編) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

公明党は歴代2位の与党歴(日本に誕生した連立政権を振り返る) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

 

上記記事の中で、政権運営者になる為には第一条件として国内勢力争奪戦(選挙)に勝利する必要があること、第二条件としてアメリカ政府から承認される必要があることを示しました。

 

また、与党経験のある政党で現在まともに存続している政党が公明党だけであること、公明党の与党歴が歴代2位の長さ(15年)であることを示しました。

 

今回は歴代2位の与党歴を持つ公明党について、いかにして権力の座に就くことが出来たのか、その足跡を簡単に振り返ります。

 

公明党が結党されたのは1964年ですが、創価学会の政治進出は1955年。1955年の地方選に文化部員として何名かの学会員を送り出します。

 

大きな地域としては、東京都議会議員横浜市議会議員がそれぞれ1名誕生しています。また、それ以外に全国各地で51名の学会議員が誕生します。立候補した文化部員は全部で54名だったので、1名を除いた53名が当選したことになります。計算が上手いのは昔からですかね。

 

国政選挙への参加は1956年。創価学会内では有名な「大阪の戦い」の舞台となった第4回参議院議員選挙です。6名が立候補し、その内3名が当選します(大阪選挙区で白木義一郎氏、全国区で辻武寿氏と北条雋八氏がそれぞれ当選)。

 

全く余談ですが、この時当選した北条雋八氏は第四代会長北条浩の叔父にあたります(北条雋八氏なんかも調べてみれば中々面白いことが判明しそうですが……貴族院議員経験者)

 

1961年11月には公明党の前身組織、政治結社「公明政治連盟」が発足。1962年1月の本部幹部会で正式発表。この時点で、参議院議員9名、地方議員約300名を抱える規模になっていました。

 

1962年、第6回参議院議員選挙で公明政治連盟は地方区と合計で9名が当選(候補者全員当選)、非改選と合わせて15議席を擁するまでになります。

  

1963年の全国統一地方選挙では公明政治連盟から1000名を超える地方議員が誕生します。

 

1964年には公明政治連盟から公明党に改組。国政政党としての歴史が始まります。結成当時は、参議院15名、地方議員1000名を擁する状態でした。

 

1965年、第7回参議院議員選挙では11名が当選。非改選と合わせて20名の勢力となり、参議院における第3党の地位を獲得します(自民党140議席社会党73議席民社党7議席)。

 

1967年、公明党は初めて衆議院議員選挙に候補者を立てます(第31回衆議院議員選挙)。この衆議院選挙において、公明党は一挙に25名の当選者を得ます。自民党277議席社会党140議席民社党30議席に次ぎ25議席。当時の創価学会の勢いの強さが伺えます。

 

1968年の第8回参議院議員選挙も順当に勝利し(非改選と合わせて24議席を確保)、1969年の衆議院選挙では、自民党288議席社会党90議席に次ぎ47議席を獲得。民社党31議席を押さえて第三勢力に躍り出ます。定員が多かったとはいえ、47議席(2017年10月現在35議席)。公明党(創価学会)は名実共に日本の有力集団へとのし上がりました。

 

そこで迎えた1970年、言論問題が発生します。実際には1969年12月に衆議院選挙があり、その直前に問題となった「創価学会を斬る」が出版されています。国会で民社党などの野党が「言論出版妨害事件」として取り上げたのが1970年。

 

「言論出版妨害事件」は創価学会が日本社会の“風圧”を強烈に体験する機会となり、その後の活動方針に大きく影響を与えます。末端活動家の基本行動はともかく、創価学会は少しずつ穏健化、現実的な団体になっていきます(そして公明党も)。

 

言論問題以前から少しずつ穏健化、現実化の方向性はありました。個人的には、折伏経典を絶版(昭和43年版が最後)にしたのはかなりの方針転換だったのではないかと考えています。

 

1970年5月3日に行われた第33回本部総会では、言論問題を受けて、「あらゆる批判に対して、真正面から取り組み、非は非として認め、正すべきは正して前進する」と池田会長(当時)が発言。

 

同本部総会では、公明党議員が創価学会の幹部を兼任している状態を是正する旨が表明され、創価学会公明党をそれぞれ独立した団体として機能させていくことが強調されました(実際は……)。

 

 

追記

誤字修正(2017年10月14日)

 

公明党は歴代2位の与党歴(日本に誕生した連立政権を振り返る)

前回、前々回、あっさりとですが日本の政治情勢を考察しました。今回は日本に誕生した連立政権を振り返ります。

 

1945年、大日本帝国は連合各国に無条件降伏。米軍主体の連合国占領下、戦後日本がスタートします。占領下の日本は基本的に吉田茂内閣ですが、敗戦による混乱(と戦前・戦中の影響)から、政治情勢は非常に混沌としていました(この時期、多数の連立政権が樹立されました)。

 

サンフランシスコ講和条約締結(1951年、占領の終結)を経て1955年、保守政党の合併により自由民主党(自民党)が結党されます。自民党日本社会党(社会党)の2大政党が政治の中心軸となる、いわゆる55年体制の始まりです。

 

自民党社会党が2大政党として存在しましたが、実際の議員数では自民党の方がかなり多く、自民党以外の政党が政権与党の立場になることはありませんでした(伯仲国会となり法案ごとに野党と連携することはありました)。

 

55年体制確立以降、自民党は戦後長らく、単独与党政権を運営することになります。1990年代に突入するまでは自民党だけが政権与党と言ってよい状態でした。

 

1983年に新自由クラブとの連立政権が誕生しますが、新自由クラブは元々自民党議員の集まりでした。その上、最終的に新自由クラブ自民党に合流して消滅します。

 

1989年、自民党参議院選挙で大きく議席を減らし、公明党民社党と部分的に連携する事態となりましたが、連立政権は誕生しませんでした。

 

状況が大きく動いたのは1993年、細川内閣が誕生し、非自民・非共産連立政権が打ち立てられた時です。結党以来38年間、与党の座にあった自民党が野党に下野し、政権を奪われる事態が発生します。

 

しかしながら非自民・非共産連立政権が混乱を極めた結果(8党派による合同運営は無理だろう……)、1年に満たない短期間で連立政権は崩壊。1994年、自民党社会党新党さきがけによる自社さ連立政権が誕生。自民党は政権与党にカムバックします。

 

自社さ連立政権は、自民党社会党というそれまでの主敵同士が手を組んだことで野合政権という批判を受けます(この時期に形成された既存政党への不信感が現在に至るまで尾を引いている気がします)。

 

新進党自民党以外で社会党議席を超えた戦後初の政党だった)の誕生と解党、それに伴う新党ブーム等、非自民・非共産連立政権と自社さ連立政権の時代、日本政治は混乱の渦中にありました(四月会を発端に自公が一番敵対していた時期でもあった)。

 

自社さ連立政権は1998年まで続きます。自社さ連立政権は、社会党新党さきがけの弱体化(社会党新党さきがけに所属していた議員が中心となって、民主党が結党されます)と社会民主党社会党から党名変更)の政策方針転換を主な理由に解消されます。

 

自社さ連立政権誕生から解体までの期間に新進党からの離反者が自民党に合流するなどして自民党衆議院での過半数を回復しますが、参議院での単独過半数を奪い取ることが出来ずにいました。

 

1998年7月、自社さ連立政権を解消して臨んだ参議院選挙で自民党は敗北。当事の橋本首相は責任を取って内閣総辞職。小渕内閣が誕生します。1998年7月から1999年1月までの期間、小渕内閣は数年ぶりに自民党単独与党の状態でしたが、参議院における単独過半数獲得は未達成のままでした。

 

参議院での過半数を確保し安定した政権運営を目指す意図があったのか、1999年1月、自民党小沢一郎率いる自由党連立政権を樹立。自自連立政権が発足します。

 

この自自連立政権は、1999年10月に公明党が参加して、自自公連立政権へと変化します。2000年4月に自由党が連立を離脱。連立離脱に反対した議員が自由党を割って出て保守党(後に保守新党)を結党、連立政権に参加。自自公連立政権は自公保連立政権に変わります。

 

2003年11月、保守新党(保守党)は自民党に吸収され解散。自公保連立政権は自公連立政権へと形を変えます。

 

自公連立政権は、2007年7月における参議院選挙での敗北(ねじれ国会の形成)を経て2009年7月、麻生首相(当時)が必敗のタイミングで衆議院を解散、民主党相手に惨敗し消滅します。

 

この衆議院選で自民党は結党以来守り通してきた衆議院第一党の座から転落、連立政権の相棒である公明党小選挙区全滅。自民、公明両党は歴史的な大敗北を経験します(ここでよく反省すべきだった)。

 

2009年9月、選挙に大勝利した民主党を中心に、民主党社民党国民新党による連立政権(鳩山内閣)が誕生。羽田内閣から15年ぶりに自民党が参加しない政権が発足します。

 

ところが民主党中心の連立政権は発足直後に普天間基地の問題を巡り大混乱。誕生から1年も経たずに失速。社民党は連立を離脱。2010年6月、鳩山内閣は総辞職。

 

新しく発足した菅内閣で迎えた2010年7月の参議院選挙に民主党は敗北。民主党議席数を減少させ、民主党国民新党による連立政権少数与党の立場になってしまいます(ねじれ国会の再誕生)。

 

年が明け2011年。戦後最大の大災害、東日本大震災が発生、対応に追われます。その後も民主党国民新党による連立政権は苦しい状況が続き、最終的には2012年11月、追い込まれた野田総理(当時)が民主党政権に不利な状況下で解散総選挙を行い敗北。民主党中心の連立政権は終焉を迎えます。

 

2012年12月、民主党中心の連立政権を打ち破り第二次安倍内閣が誕生。自公連立政権が復活し、現在(2017年10月)まで継続しています。

 

以上、日本に誕生した連立政権について(政権交代劇について)簡単に振り返ってみました。1955年以降、自民党以外で政権への参加(与党)を経験した政党は以下の通りです(五十音順)。

 

改革の会、公明党国民新党社会民主連合社会民主党(社民党)、自由党新自由クラブ新生党新党さきがけ日本社会党(社会党)、日本新党、保守党(保守新党)、民社党民主改革連合民主党

 

この内、現在も政党として存在しているのは公明党社会民主党(社民党)だけです。社民党は殆ど死に体なので、勢力を維持しているのは事実上公明党だけと言えます。

 

民主党自民党を下野させて連立政権の中心軸になったわけですが、2012年の選挙に敗北後は自民党と競えるほどの勢力を回復できず、民主党主軸で形成された民進党は現在解党中。民進党を飛び出て一部議員が立憲民主党を結党。更に一部議員は無所属で出馬。民主党自体は消えたと考えて良いと思います。

 

1999年10月から2009年9月までの約10年間と2012年12月から現在に至るまでの約5年間。足掛け約15年間の与党生活は、自民党に次いで歴代2位の長さです(1955年以降で計算しています)。

 

社民党社会党時代(1955年以降で、非自民・非共産連立政権時代を含む)を足して約5年5ヵ月で歴代3位。民主党が約3年2ヵ月で歴代4位です。

 

新党さきがけ社会党社民党の議員が中心になって民主党を結党したことを考慮して民主党を約8年(自社さ連立政権時代と非自民・非共産連立政権において社会党が参加した細川内閣時代を追加)の与党生活と計算しても、足掛け約15年間の与党歴は自民党に次いで堂々の2位です。

 

公明党は歴代2位の与党歴を持つ確固たる権力機構です。15年間与党を務めた公明党は日本をどう変化させたのか。責任政党として掲げてきた政策をどう実行してきたのか。

 

生活しやすい環境になったのかどうか。日本周辺の国際情勢はどうか。未来は明るいか。少なくとも安心出来るかどうか。歴代2位の与党歴を持つ公明党をよくよく検証する必要があるでしょう。

 

政権運営者への道(後編)

前編に引き続きダイレクトな政治ネタです。

希望の党を参考に、日本政治の抱えている状況を考察します。

 

前回、政権運営者になる為の第一条件を国内勢力争奪戦(選挙)における勝利、第二条件をアメリカ政府からの了承と設定しました。希望の党は既に、第二条件をクリアする人材(と政策)を備えつつあります。

 

希望の党にとっての問題は第一条件、国内勢力争奪戦(選挙)の方です。

 

前回も言及しましたが、日本政治の中心は自民党です。自民党の支援団体は多数あり、時代や場所によって変化し、一様には表現できませんが、日本利権の複合体と評価してよいかと思います。だからこそ第一条件、国内勢力争奪戦(選挙)に勝利し続けました。

 

自民党以外が国内勢力争奪戦でそれなりの戦果を挙げてきた歴史もあります。単一政党に限って話をすれば、冷戦期には社会党が野党の雄として存在しました。90年代には新進党がひと暴れし、2000年代には民主党が政権奪取に成功しました。

 

しかしながら長期的に考えれば自民党が国内勢力争奪戦(選挙)の勝者(それも圧倒的な)でした。国内勢力を大きく二つ、「組織」と「個」に分け、国内勢力争奪戦を選挙に限定して解釈すると以下を意味します。

 

自民党を支持している「組織」と「個」の合計が他政党のそれを上回っていた。

 

当たり前の話ですが、選挙で自民党を打ち破るには「組織」と「個」の合計で自民党を上回る必要があります。

 

長い年月をかけて築かれた自民党と「組織」の繋がりを壊し、自分達の支援「組織」に転向させることは容易なことではありません。自民党が支援「組織」に提示するよりも魅力的かつ実行可能なプランを提唱する必要があります。

 

「個」の方は無限の可能性があります。「組織」と違い固有利害や拘束力の少ない「個」は変動の幅が大きく、風が一吹き、スキャンダル一本で変質する可能性があります。但し、「個」を固定ファンにする為には、党の政策含め入念なブランディングが必要です。

 

「組織」と「個」の合計で自民党に打ち勝てればよいので、「組織」を取り込めない、あるいは「組織」狙いでは不利……となれば多数の「個」を取り囲む必要があります。

 

短期間で「個」を大量に獲得する方法は一つ。目立つこと。話題を作ること。「個」を劇場の観客にしてしまうこと。希望の党(かつては維新)の戦い方は非常に理にかなっています。話題を作って「個」を攫わない限り勝機はありません。

 

話題の内容は正直なんでも良く、とにかく目立つこと。「個」が靡く様に魅せること。発信源が東京でも大阪でも、全国ニュースになれば知名度は上がります。

 

政策としての実利や有効性は関係ありません。むしろ、実際に実行することを考えれば、大して重要でない課題で騒げた方が後々楽です。自民党(今なら自公)よりも目立つこと。それが「個」を確保するポイントになります。

 

確固たる成果をもって「個」を確保するならば良いのですが、それが出来るのは権限のある与党に限られがちです。新興勢力は話題作りをしないことには始まりません。

 

日本共産党(共産党については別途記事にしたいと思います)、社民党立憲民主党。「組織」を自民党から奪う力はありません。奪う気もないかもしれません。狙いは「個」です。現野党にも「個」を狙う以外に政権奪取の方法はありません。

 

ここで改めて問題になるのが政権運営者になる為の第二条件、アメリカ政府からの了承確保です。

 

言うまでも無いことですが、日本の政権がアメリカ政府からの了承を得る為には、ある程度アメリカの外交政策(と経済政策)を承認することになります。日本周辺に限定すれば、日米安全保障条約在日米軍基地の維持は必須になります。それに付随して自衛隊の維持も求められるでしょう。

 

場合によっては、アメリカの海外展開をアシストする必要も出てきます(いわゆる国際貢献・積極的平和主義)。自民党(と公明党)が“対米追従”と言われる所以になるアレです。

 

政権運営者になる為の第二条件を満たすためには、党の政策として、日米安全保障条約在日米軍基地および自衛隊の維持を最低限掲げる必要があります。情勢次第ではアメリカの都合に合わせモディファイする必要もあります。

 

第二条件を満たす時、安全保障政策に関して自民党との差は殆ど無くなります。後は国内政策絡め、国防という観点で自民党よりも“積極的”になるかどうかの違いです。分かり易い表現を使うならば、「右の自民」よりも目立つために「極右」になるかどうか。希望の党や維新の“ブランディング”や如何に。

 

第二条件を満たしながら、自民党よりも“消極的”な立場にいるのが公明党です(公明党は安全保障政策を選挙における戦い易さで決める政党ですが)。公明党の戦略は明確です。第二条件を満たしつつ、第一条件、支援組織(創価学会)の支持を取り付けること。彼等には政権第一党を奪取る気概など一切ありませんが、自公政権を支える身として政権運営者の条件を手堅く守っています。

 

野党の提案している安全保障政策の多くは、第二条件、アメリカ政府からの了承獲得を困難にしていると思います。良いか悪いかは別の話です。

 

安全保障政策に限定すると、自民党より「右」にして目立つか、第二条件を満たさない内容で自民党より大幅な「左」を狙うか。このどちらかしか「個」を獲得するような話題作りが出来ません(戦後日本が置かれた状況も関係しますが)。話題作りをしなくとも良いのは、何をやってもファンがついてくる公明党だけです(むしろ話題にしたくない内容……)。

 

希望の党立憲民主党を中心に多数の情報が飛び交かっていますが、彼等の提唱する政策の是非はともかく、選挙・政治闘争(自民党を倒して政権運営者を目指す)という意味では、非常に理にかなった(杜撰かつ稚拙な面もありますが)戦い方をしていると私は考えています(勝算は薄いですが)。

 

 

余談

私は経済の事をまともに調べたことが無いので、経済政策に関しては何とも言えません。一つ感覚で言うと、自民党よりも新自由主義的な方向に振れて目立つか(この場合、「組織」によっては自民党よりも好意的に評価してくれるかもしれません)、競争や格差を減らす方向(新自由主義的を強く否定する)にポジションを取るか(この場合も、「組織」によっては自民党よりも好意的に評価してくれるかもしれません)。

 

希望の党や維新が前者、野党は後者。自公は国内外相手にヒィヒィ言いながらバランス取り。そんなイメージを持っています(不勉強ですみません)。「組織」のしがらみが無い新興政党ほど、歴史ある既存の国内産業を無視する形でより自由主義的な政策を打ち出し、産業的に新しい「組織」の確保と競争に強い「個」の確保に向かう。あくまでイメージです。

 

アメリカも国内産業が一枚岩なわけではないので、アメリカの経済政策に従う=新自由主義的という図式が常に成り立つとは思っていません。