テナントビルに入っている事務所は9階にある。出勤時に事務所近くの駐車場に車を停めて、8時半頃そのビルのエントランスでエレベーターを待つ。階数を示すランプをボーっと眺めながら当日の予定を考えていると「おはようございます」といつも声を掛けてくる女性がいる。同じビルのテナントに入っている会社の経理の女性。「おはようございます」と返すも、特に話す事は無いのでまた目線を階数のランプに目を戻す。私は無関係の人間なら沈黙は恐くない。ジッと階数の表示を見つめたまま、いつもやり過ごす。長くその事務所にいると、そんな事が何回もある。しかしながら私から話しかける事は無い。ジッと黙って彼女が先に降りてその後私がエレベーターを降りる。ただそれだけである。ある日、その彼女の会社の社長と乗り合わせた。社長が大好物の私は愛想よく話しかける。自分の会社が何をやっているのか、どういう方向を向いて活動しているのか。話していると、御社に合う案件があるから今度手伝ってくれという事だった。図面でも見積りでも手伝いますよと言って別れた。ラッキーだ。その後その会社の営業を紹介してもらい、打ち合わせに入った。が、その営業はポカが多い。話が一向に進まない。業を煮やした私はどうすれば良いかと社長に電話した。そうすると担当を変えるという話だったので、後日打ち合わせをする為商談室で待っていた。壁に向かって立っていると新しい担当者がノックをして入ってきた。朝いつも顔を合わせるあの女性が立っていた。あれ?経理と言ってなかったかな?と思いながらも名刺交換をしながら挨拶を早々に済ませて打ち合わせに入った。その後社長に聞くと「彼女しっかりしてるだろう。俺もしょっちゅう怒られるんだよ。ハッハッハー。」との事だった。よく分からんが案件が進むなら私は担当者など誰でも良い。何回か打ち合わせを重ねた結果、弊社の価格に十分メリットがあるという事で受注した。ホッとしたのか、私は最後の打ち合わせでその女性と仕事と関係ない話をした。何歳なんですか?私と同年代くらいだろうと思っていたが私より10歳も年上だった。ふぇー!若いですねー!すげえ!なんて言いながら結婚はしていない事、ちょっと変わった趣味を持っているとの事だった。その趣味は秘密だそうだ。まぁ良い。次回は契約書を作って持ってきますと伝えてエレベーターの前で私は階数表示を見つめる。私を見送る彼女は隣にいたが、距離が近い。「近いな..」と思いながらも扉の空いたエレベーターにサッと乗り込む。ありがとうございましたと頭を下げてエレベーターの扉が閉まるのを地面を見ながら待つ。扉が閉まる瞬間顔を上げると扉の隙間から見える彼女と目が合う。何なんだ一体。それからも同じビルにいるからエレベーターホールで二人になる事が多いわけだが、その度、距離が近い。一度あまりに近いので「どうかされましたか?」と聞いた。目が合ったまま「別に」と彼女は言った。多分「こういうの」なんだろうなと漠然と思っていた。面白いのは双方が仕掛けない。ややこしいのが好きではない私は彼女から掛かってきた携帯も出なくなった。案件はもう終わっている。不在着信の画面を見ているとすぐに必ず「むかつく」とメッセージが入る。私は「(笑)」と返す。「どうしました?」「別に」「むかつく」「(笑)」このやり取りは結構長く続いた。多分、あの時の扉は開いていた。私は理性で扉を閉めた。あの時扉をくぐっていたら何かが変わっていただろう。こんな出会いは誰も幸せにならないと思いながら、私は階数表示をまた見つめながらエレベーターを待っていた。
フィクションです。