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【群馬】

<風船爆弾の記憶>(5)体験者として 「語り部を続けたい」

手作りの教材をつくり、風船爆弾の体験を語り継ぐ小岩さん=東京都練馬区で

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 「あしたからは学校にこなくていい」。私立の女学校に通っていた小岩昌子さん(88)=東京都練馬区=は二年生の時、教師からそう言い渡された。都内の陸軍造兵廠(しょう)に動員された。

 風船爆弾の気球用原紙を和紙で貼り合わせて作った。四人一組で長方形のブリキの机にはりつき、立ちっぱなしで作業した。机には番号が振られ、その日何枚作ったか分かるように棒グラフが作られていた。枚数が少ないと、集められて注意された。

 学校と違って造兵廠は厳しかった。軍人が作業を見回り、軍隊式の号令で整列や行進をした。休憩中に読書していると、「そんな暇があるなら一枚でも作れ」と言われた。引率の担任は、控室に詰めているだけだった。

 和紙を貼り付けるこんにゃく糊(のり)で服はすぐに傷んだ。母親から「なけなしの布で仕立てたのに」と小言を言われ「何をしているのか」ときつく問いただされたが、沈黙を通した。「家族にも絶対に話すな」と念を押されていたからだ。何を作っているのか知らなかった。疑問は持たず、聞きもしなかった。

 戦後は小学校で約三十年間、教壇に立った。「あの戦争は何だったのか」。そんな疑問も持ちつつも、風船爆弾に関わったうしろめたさもあり、子どもの前で話すことは嫌だった。米国で風船爆弾で六人が亡くなっていたことを知った。「私は戦争の被害者とばかり思っていた。加害者だったかもしれないなんて」と震えたという。

 退職後、風船爆弾について本格的に調べ始めた。登戸研究所(第九陸軍技術研究所)で行われた秘密戦の研究者、自動装置の部品開発に関わった技術者…。探しては、足を運んで耳を傾けた。

 それから戦争体験を進んで話すようになった。小学校などに招かれて三十年以上、風船爆弾の「語り部」を続けている。分かりやすく説明するための手作りの教材も好評だ。子どもたちから寄せられた感想文はかなりの分量となり、大事に保管している。中学二年の生徒からは「私と同じ年ごろの子が加害者だったかもしれない。そう思わせてしまう戦争は絶対にいけない」と手紙が届いたこともあった。

 「小岩さんはなぜ、嫌だと言えなかったの?」。小学生から、そう質問をされたこともある。

 その答えは、小岩さんが風船爆弾の「語り部」を命ある限り続けようと決心した理由にも重なる。

 「戦争だから言えなかった。何を作っているのか知らなかった。だから仕方ない、ですませてしまっていいのか。命を落として何も語れなかった人もいる。知っている人はその人たちの分まで語らなくて、だれが語るのかと」 =おわり

 (この連載は大沢令が担当しました)

 

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