こんにちは。凡子です。
前回、コラムニストでフリライターの堀井憲一郎氏の実践文章読本『いますぐ書け、の文章法』(ちくま新書)について書きました。
「諸君、異論はあるか。あればことごとく却下だ」のコピーは、相当インパクトがありました。
今回も引き続き『いますぐ書け、の文章法』の中の言葉、「文章の自走性」ということについて、書きます。
引っ張るね~。
文章の書き方的な本で、こういうことを言及しているのを見たことがなかったので、…単に読んでないだけかもしれませんが、この「文章の自走性」という言葉が、すごく気になりました。
自走の意味は、「他の動力によらず、自身の動力で走る」ってことらしいです。
『いますぐ書け、の文章法』からちょっと引用すると
文章は自走する。ときに暴走する。頭の制御がおいつかない。
文章を書く醍醐味は、文章の自走に任せるところにある。そういう文章は「書き手であったはずの自分」さえも「読み手として驚かせる」ことができるのだ。
それが文章の持っているもっとも強い力のひとつだとおもう。
書くというのは、そういう憑依したものを出してくることだと思っている。憑くというと、シャーマニズムな、何だか怪しげな行為のようにおもえるかもしれないが、これは無意識から何か汲み出してくること、とも考えられる。
(だから)
書く前に考えていたことだけを書いた文章は、失敗である。
(『いますぐ書け、の文章法』より引用)
これって、マンガで言えば、キャラが動くとか、そういうことじゃないかと思います。
小説で言えば、設定だけ考えて結末を決めずに書き始めて、それが作者の意図を超えて、動いていく、みたいな。
人智を超えて何かが降りてくるというか、何か人ならぬものに突き動かされて書かされるというか。
そういう作品は、一種のジェットコースターに乗っているような、どこに連れていかれるかわからないワクワク感があります。突っ込みどころ満載で、ときに破たんしてたりすることもあるかもしれないけれど、そこも含めて予想できないスケール感が魅力的で。
そういうのは、マンガや小説の中だけの話かと思っていましたが、堀井氏はコラムニストなので、雑誌の記事でも、それが起こっていることがわかります。多分、ブログでも。
寄り坐しというか神憑きというかチャネリングというか、そういう書き手がいると思うと、楽しい。
もちろん理路整然と書かれた、着地点がきちんと決まった、よく制御された文章も素晴らしいと思っていて、そういう文章は、安心して読めたり、説得力があってわかりやすかったり。作者の掌の上で遊ばせてもらえたりするわけです。失敗とか全然思ってなくて、すげえなって思っています。
これはマンガ『バクマン。』で言えば、
自分の描きたい事を思いっきり書いてヒットを出す新妻エイジ型か、計算しているのが計算しているように見えないように計算して描く「亜城木夢叶」型か、的なことだと思っています。
新妻エイジは、自走、シャーマン型。エイジが、『バクマン。』の終盤辺りで、もっとマンガを面白くする為に、読者の視点を考えていたのも感動でした。
『ガラスの仮面』でいえば、シャーマン型の北島マヤに対して、技巧型、努力型、計算型の姫川亜弓。
ブログを書くみなさんが、どっちのタイプなのか、はたまた混合型か、それとも全く別のタイプなのか、気になります。
で、この自走型の代表じゃないかと思っているのが、最近お邪魔しているブログ『まゆちゃんです!』です。
4コママンガメインなので、「文章の自走性」ってとこからは離れるかもしれなけど、作品とかブログって考えてくださいませ。
4コマに収まりきらないスケール感。←ときに11コマとか12コマとか。
ウンコ型のコロネが、主人公スコちゃんの頭に載っていたり、宇宙にぶっ飛んでいったり、どこまで自走するのか、空恐ろし楽しくなるのでした。
まゆちゃん自身は、「リミッターを外す」と、表現されていました。「君、頭おかしいね」と褒めていただいたことがきっかけだとか。
『自由ネコ』ブログのネコ師匠も、褒めていらっしゃいましたね。
師匠が、スコちゃんとまゆちゃんがどれくらい同一人物なのか、そののシンクロ率を気にされていて、「まあまあシンクロしてみゃす!!」とまゆちゃんが答えてました。ウンいやっコロネ、載っているからね、そこシンクロしてたら、ヤバいよっっっ!!
こんなことを書いて、ものすごく計算づくで描いていたら、本当にごめんなさいなんだけど。(勝手に言及しちゃいましたこと、お許しください)
ファンです。これからも楽しみにしています。