​小学生はなぜごんぎつねの気持ちを考えさせられるのか

不道徳なお母さんライターが、日本の「育児幻想」のタブーに踏み込み、軽やかに、完膚なきまでに解体する新連載スタート!
おそらく、日本で教育を受けた私たちが、国語の教材として一番読んでいる『ごんぎつね』。現在の小学生は、授業で延々とあの「ごん」の気持ちを考えさせられているようで……!?

日本人に最も読まれている『ごんぎつね』

「栗の置き方なんてどうでもいいよ~」

夏休み明け、小学4年生の長女が早くも国語の授業にうんざりしていた。『ごんぎつね』をしつこくやりすぎているせいである。

「ごんぎつね、やりこみ要素半端ないよ。ごんぎつねの栗の置き方が変わってるところまで追求してるからね?」

現在50歳以下の日本人で、『ごんぎつね』(新美南吉)を読んだことがない人はほとんどいないだろう。『ごんぎつね』は1980年以降、すべての小学校国語教科書で採用され続けている定番中の定番教材だ。ここまで長きにわたり全教科書に掲載される教材は、ほかに類をみない。日本人に最も読まれているという点でいえば、『こころ』や『人間失格』を超えた国民的文学作品だ。

はじめに言っておくと、現代の小学生が受ける国語の授業は、我々親世代の頃よりだいぶ進化している。ディベートにポスターセッション、新聞づくりにガイドブック作成と、発信力を重視した幅広い取り組みがなされている。それでも『ごんぎつね』となると、今も昔と変わらず、長い時間をかけて心情を読み解いているようだ。とある小学校の『ごんぎつね』学習指導案では、授業時間11時間のうち半分以上の6時間が、「いたずらをするごんの気持ちを読み取る」「ごんを撃った兵十とその時のごんの気持ちを読み取る」といった「気持ちの読み取り」に充てられている。いきおい、きつねの栗の置き方を追求するようなマニアックな授業展開とならざるをえない。なぜこんなことになっているのか。

ごんぎつねの授業がマニアックになる理由

理由の一つは、文科省の小学校学習指導要領にある。3・4年生の国語では、「場面の移り変わりに注意しながら,登場人物の性格や気持ちの変化、情景などについて、叙述を基に想像して読むこと」という項目がある。なるほど『ごんぎつね』は、ここで指定されている「気持ちの変化」を「想像」するのにうってつけの短編だ。5分程度で読める物語の中に、ごんぎつねの気持ちの起承転結がしっかりある。しかし、しつこくきつねの気持ちを考えさせられる子供たちは大変である。

「いわしをぶんなげた時の気持ちとか栗をぎゅっとおいた時の気持ちとか聞かれるけど、そんなのその日の気分で変わる人もいるじゃん。急いでたら投げるし、完璧主義だったらいつもぎゅっと固めるでしょ」

他人とコミュニケーションをとるうえで、一定水準以上の心情読み取り能力が必要なのはわかる。「ごんが栗やマツタケを運んだのはなぜですか」と問われて、「性器のメタファーだから」などと答えたら、小説読解以前に社会生活が危い。しかし栗の置き方からきつねの心情を察するのは、やりすぎに思える。がさつな人間としては、「大きな音を立てて食器を洗ってるから、怒ってるに違いない」などといちいち忖度されてはたまらない。異文化コミュケーションが加速している現代では、「ハートの絵文字を使ってるから気があるに違いない」などの思い込みによる悲劇も多発している。子供たちが将来社会生活を円滑に営むためにも、「気持ちを勝手に察するのはやめよう。きちんと言葉でコミュニケーションをとろう」と教えたほうがよいのでは?

日本の国語の授業が心情の読み取りに時間を割きすぎていることは、識者からもしばしば指摘されるところである。国立教育政策研究所で21年間国語教育を研究してきた有元秀文氏は、「欧米の学校では、一つの教材を日本のように異常にゆっくりした読み方で扱うことはない」とし、「心情や人物像」ばかりを読み取らせようとする日本の国語教育を批判している(『まともな日本語を教えない勘違いだらけの国語教育』)。一般的な大人にとって必要な読解能力とは、大量のビジネス書類や時事ニュース、メール・社内チャットツール・グループウェアのやりとり、マニュアル、煩雑なお役所文書、書籍・雑誌・パンフレット等の多種多様な文章を手早く読んで、必要な情報を抽出する能力である。学校の授業でそんな能力を身に着けておきたかった……と苦労している大人も多いのではないだろうか。私だって、国語のテストがTOEICのようだったら、こんなに学校のプリントやら役所の通知やら仕事の資料やらでわやくちゃになることはなかっただろうと信じている。栗の置き方? どうでもいいです! しかし、気持ちの読み取りは、栗の置き方にとどまらないのである。

「兵十を覗き見ていたときのごんぎつねの気持ちを考えろって言われても!ただのストーカーじゃん!……って思ってもそう答えるわけにはいかないし」

ごんぎつねストーカー説はいかにも小学生らしい冗談だが、あながちとんちんかんな読みともいえない。『ごんぎつね』は新見南吉が18歳の時の作品だが、その背景を同級生との成就しなかった恋に見出す研究者もいるくらいだ。名作はさまざまな読みの可能性を秘めている。とはいえ国語的には、「ごんは人間に恋したフレンズなんだね」などの生々しい読解はNGである。「ごんぎつねに手紙を書く」課題を与えられて「死んでるきつねに手紙届かなくね……?」とぼやいていたという長女の級友も、授業中にそんなことをはきはき発言したりはしないだろう。子どもが感じた疑問点をそのまま発言させて、「亡くなった人に手紙を書く意義」について子ども同士で討論させれば、クリティカル・シンキングやディスカッションのいいお勉強になりそうだが、そんな国語の授業は聞いたことがない。教室の中の子供たちは、いじらしいごんぎつねの気持ちを想像して共感し、その死を憐れむことを、暗黙の裡に期待されている。それを一番よく知っているのは、当の子供たちである。

国語は道徳教育?

なぜ国語では長時間かけて気持ちを読み取らなければならないのか。なぜその読み取りは決まった方向性でしか許されないのか。小学校の国語教科書を網羅的に分析した石原千秋氏は、その理由を端的に述べている。「現在の国語という教科の目的は、広い意味での道徳教育なのである」(『国語教科書の思想』)。石原氏によれば、国語で育むべきとされる読解力とは、「道徳的な枠組から読む技術」にすぎない。したがって道徳的に「正しい」心の動き以外の読解は、すべて不正解とされてしまう。この道徳は、〈母=自然/父=文明〉という図式に結び付いた「田舎はよくて、都会は悪い」思想を隠していると石原氏は喝破する。昔話や動物キャラクターが多いのも、「昔へ帰ろう」「自然に帰ろう」といったメッセージが込められているからだという。

本当に? もう一度学習指導要領の国語の項目を見てみよう。教材の選択にあたって留意すべきとされる10項目のうち、目を引くのは次の5項目だ。

オ 生活を明るくし,強く正しく生きる意志を育てるのに役立つこと。

カ 生命を尊重し,他人を思いやる心を育てるのに役立つこと。

キ 自然を愛し,美しいものに感動する心を育てるのに役立つこと。

ク 我が国の文化と伝統に対する理解と愛情を育てるのに役立つこと。

ケ 日本人としての自覚をもって国を愛し,国家,社会の発展を願う態度を育てるのに役立つこと。

確かにこれは、「道徳教育」の範疇だ。こうした国語教育において模範的とされる子供の発言は、たとえば次のようなものである。

「人と人がつながり合わない社会って、一組と反対だね。暗いし、さびしいし…。やっぱり話し合ったり、助け合ったりしていく方がずっといい。ごんと兵十のこの話がそれを表してるよ」(文芸研第二七回山口大会(一九九二年八月)実践報告資料より)。

ごんぎつねで作られた疑似家族共同体

高度成長期に小学校教諭として教えていた経験を持つ国語教育の研究者は、当時の教育現場での『ごんぎつね』の扱いを次のように述懐している。

たとえ「ごんぎつね」が「感傷的な詠嘆」を感じさせるものであったとしても、そのことによって教室のなかの学習者の心が一つになるならば、それはそれで意味のあることだと考えられていたようにも思う。集団主義のなかに一人ひとりの個我を隠し、滅私奉公することこそが重要だという方向と、「ごんぎつね」の作品世界とは背反するものではなかった。学級集団は、疑似家族共同体でもあったのだ。(『「ごんぎつね」をめぐる謎』府川源一郎)

府川氏によれば、かつてはクラス全体が「感動のるつぼ」となり、子どもたちがすすり泣くような授業も存在したという。その後、感動中心授業への反省から、〈今日の論題は「『ごん、お前だったのか。いつもくりをくれたのは…』と兵十に言われたとき、ごんは幸せだった。」です。肯定側立論をしてください〉で始まるようなディベート授業を行う教師が現れたり、〈兵十のお念仏についていったごんは、行きと帰りではどちらが近づいていますか〉と分析批評を取り入れた授業が行われたりもしたようだが、どれも定着しなかった。「せっかくの泣ける話でなんでそんな殺伐としたことをやらなきゃいけないんだ」というのが一般的な感想だろう。

読書推進に秘められた思想

こうした読みの推奨は、国語の教科書にとどまらない。教育者や親が子どもに向かって「本を読みなさい」というとき、ゲームの攻略本やポケモン図鑑、都市伝説ムックなどは含まれないはずだ(もちろん読み聞かせでこれらの本が選ばれることもない)。文章から情報を読み取る能力ならこれらの本でも十分身に着きそうなものだが、求められているのはたいてい、道徳的な教訓を含んだ児童向けの感動物語である。「本を読みなさい」とは、学校の外でも道徳を学んでほしいというメッセージなのだ。そもそも文科省が「子どもの読書活動推進に関する法律」(2001年)を制定したのも、「子どもが、言葉を学び、感性を磨き、表現力を高め、想像力を豊かなものにし、人生を深く生きる力を身に付けていく上で欠くことのできないもの」(第2条)と読書を位置付けているからである。脳科学的にはゲームと大して変わらないはずの「読み聞かせ」が、保守的な教育者に重視される理由はここにあるのだろう。身もふたもない言い方をすれば、読み聞かせは読書をしない子どもにも、道徳を注入できる手段なのだ。

それでも、読書が道徳や集団主義と結び付けられることに、違和感をおぼえる人も多いのではないだろうか。子供時代の私にとって、読書とはときおり親に殴られるような不道徳で孤独な愉しみだった。作家の林芙美子も、女学生だった大正時代に小説の害を説かれた実体験を記している。

ある日、昼の休みに講堂の裏で鈴木三重吉の『瓦』と云う本を読んでいた。校長がぶらりとやって来て、此様な社会の暗黒面を知るような本を読んではいけないと云った。私は大変いい本だと思いますと云うと、そのあくる日の朝礼の時間に、校長がひとくさり、小説の害を説いて降壇すると、その後に若い国語の大井先生が「小説を読むふとどきな生徒がいることは困ったことです」と登壇された。(林芙美子「私の先生」)

小説はかつて、テレビゲームどころか出会い系サイトレベルの有害コンテンツとみなされていたのだ。次回以降は、有害扱いされていた小説がいかにして道徳教材となっていったのかを詳しく見ていきたい。

参考文献文部科学省 学習指導要領「生きる力」http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou...『「ごんぎつね」をめぐる謎』府川源一郎「児童文学が教科書教材に変わるということ : 「ごんぎつね」はなぜ国民的教材になったのか 」鶴田清司『国語教科書の思想』石原千秋林芙美子「私の先生」http://www.aozora.gr.jp/cards/000291/files/47785_30101.html有元秀文『まともな日本語を教えない勘違いだらけの国語教育』

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不道徳お母さん講座

堀越英美

核家族化で家庭教育はダメになった? 読み聞かせで学力アップって……本当に? 日本で盲信されてしまっている育児&教育神話の数々。そのすべてを、あの現代女児カルチャー論の名著『女の子は本当にピンクが好きなのか』でセンセーショナルを起こした...もっと読む

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コメント

Neishan48 面白い! 確かに確かに。  29分前 replyretweetfavorite

pulsemod 小学生はなぜごんぎつねの気持ちを考えさせられるのか https://t.co/5bbpaFhCBu 約1時間前 replyretweetfavorite

fmfm_nknk cakesの連載が更新されてます。よろしくお願いします>小学生はなぜごんぎつねの気持ちを考えさせられるのか 約2時間前 replyretweetfavorite

syoujinkankyo 小学生はなぜごんぎつねの気持ちを考えさせられるのか|堀越英美 @fmfm_nknk | 読書と教育と道徳について。 約2時間前 replyretweetfavorite