【大仁田厚ヒストリー〈27〉】「またぐなよ」から長州戦が実現…馬場スタイルでぶつかった
2000年春。大仁田厚に吉報が飛び込んできた。長州力がついに現役復帰と自らの対戦を受諾したのだ。
「代理人のところに永島さんから連絡があった。永島さんと長州は、大仁田を上げるなという猪木派に気を使っていたから、そこを調整し、何とかしたんだと思う」
当時、新日本マットはアントニオ猪木派と長州・永島派に分かれ権力闘争を繰り広げていた。猪木派が推進する橋本真也と小川直也の抗争がビッグマッチの軸となり、長州・永島派が推進する大仁田参戦は、宙に浮いていた。4月7日、東京ドームで「橋本真也34歳。負けたら引退スペシャル」と題しテレビ朝日がゴールデンタイムで中継。結果、橋本が敗れ、進退が息詰まった。こうした混乱を突いて一気に大仁田と長州の一戦を永島勝司がマッチメイクした。
長州は5月22日に会見を開き、正式に復帰を発表した。試合は7月30日、横浜アリーナに決まった。
「長州自身もあのころ、新日本の中でいづらくなっていたと思う。橋本と三銃士は、長州に対して面白くないところがあった。内部で新日本は混乱していたね。そんな中で永島さんと長州にとって大仁田厚はちょうどいい金もうけの道具だったんじゃないかな」
両者が遭遇する時が来る。6月30日、新日本の海老名大会。試合前、電流爆破マッチの実現を要望する大仁田が嘆願書を持って長州を訪問した。リングで練習する長州へ向かって大仁田が歩を進めると、フェンスの手前で足を止めた。そして、長州は言った。
「またぐなよ」
同じ言葉を長州は10回繰り返した。この緊迫感が試合への期待をさらにあおった。
「あれも別に打ち合わせしたわけじゃなくて、ただ、オレは試合前に嘆願書を持って行くって伝えただけで全部、出たとこ勝負だった。長州は、またぐなよって言ってたけど、リングの中に健介とか越中とか10人ぐらいの選手がいたから、またげるわけねぇじゃんって思ったよ(笑)。だって、またいだら、ボコボコにされるのが目に見えてたからまたげねぇよな。またがなかったのは、ただそれだけの理由だよ」
大仁田の要求通り試合は、ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチに決定。1年8か月をかけて実現した一騎打ちは、、CS放送のスカイパーフェクTVが史上初のPPV(有料放送)で独占生中継することが決まった。テレビ朝日の真鍋由アナウンサーとの「大仁田劇場」も佳境を迎えた。涙ながらに「真鍋!お前が実況しろ」と訴える大仁田に「誰にも渡しません」と応じる真鍋アナ。大仁田は、当日、「このスーツを着てこい」と茶色のスーツを渡した。
「改めて、この試合が決まった裏側には、真鍋の存在は、大きかった。あのスーツは紳士服の青山で3万円で買った。ディレクターに真鍋のサイズを聞いてね。オレからの感謝の印だった」
放送席も真鍋アナが実況の大仁田サイドと辻よしなりアナが話す長州サイドの2つが用意される異例のセッティングとなった。テレビ中継も両者の電流爆破マッチへ破格の対応を行った。
「辻さんは、オレのことを良く言わない。中立に実況して欲しいから2つ用意してくれって頼んだ。ただ、テレ朝は、この試合をゴールデンで中継する勇気はなかったね。電流爆破イコール血が流れるっていうことで自粛したんだと思う」
迎えた決戦当日。1万8000人の超満員札止めの観客でアリーナは膨れあがった。
「チケットは全部プレイガイド実売して完売。オークションで1万円のチケットが47万円に跳ね上がった」
異常な人気の中、2年7か月ぶりに「パワーホール」が鳴り響いた。長州は4月に試合中のケガで亡くなった福田雅一の遺影を手に入場した。Tシャツもトレーナーもガウンも身につけず裸のままでリングに上がった。すさまじい長州コールが大仁田は心地よかったという。
「この試合は、勝ち負けじゃなかった。引退していた長州力という存在をリングに上げることが勝負だった。彼がリングに上がった時点でオレの勝ちだと思っていた」
ゴングが鳴るとタンクトップを引き裂かれ、有刺鉄線に投げられた。4度の爆破に遭い、最後はサソリ固めを決められ、ロープブレイクの形で有刺鉄線を握りしめ5度目の被爆となった。対する長州は一度も爆破せず無傷だった。最後は7分26秒、サソリ固めによるレフェリーストップで大仁田が負けた。
「試合の勝敗がすべてという人もいる。でも、オレはプロレスはそれだけじゃないと思っている。オレは一人で新日本に乗り込み、長州戦にたどり着いた。そして、試合では長州の技を全部、受けた。対する長州は一度も電流爆破に当たらなかった。そこがオレと長州の違いかな。もしかしたら、長州力は、チキンなのかもしれない。またぐなよも人を脅して虚勢から出る言葉だしね。ジャイアント馬場さんから教え込まれた“プロレスは受け身だ”っていうスタイルをオレは貫いた」
この興行は、長州の団体内での微妙な立場を表すように、他の試合は、いわゆる長州の息がかかった選手だけでマッチメイクされた。目玉は大仁田対長州戦のみ。たった1試合で横浜アリーナを札止めにしたそんな長州に対して試合後、こう思ったという。
「復帰するまで内部に対してもファンに対しても不安があったと思う。でも、あの興行の成功で長州自身、まだまだオレは人気がある、やれるって思ったんじゃないかな。それが、後に新日本を退団して自ら旗揚げしたWJにつながったと思うよ」
そして、この試合を最後に新日本マットから邪道は、姿を消した。
「もう山の頂上にたどり着いたんだから、それ以上、新日本に上がる意味はなかった。特に向こうからもオファーはないし、こっちからも何もアクションはしなかった」
たった一人でメジャーに挑んだ1年8か月に及んだ闘争。あの戦いを今、こう振り返る。
「新日本をのみこんだと思った。なぜなら、新日本のイデオロギーに電流爆破はないからね。それをたった一人で乗り込んで引退していた長州戦を実現させたことは、オレの意地だったかもしれない」
新日本プロレス、長州力という山を極めた大仁田に新たなオファーが届く。政界からだった。(敬称略)