読書人紙面掲載 特集
――この度、文芸批評の新著を、久しぶりに刊行されました。また、坂口安吾に関する書物としては、一九九六年に上梓された『坂口安吾と中上健次』以来、ほぼ二十年ぶりとなります。中心となるのは、第一部に収められたエッセイで、筑摩書房版『坂口安吾全集』(全十七巻・別巻一、一九九八~九九年)の月報に寄せられた文章となります。柄谷さんのお仕事を振り返ってみると、一九七五年の段階で、坂口安吾論(「『日本文化私観』論」)を発表されています(執筆は前年)。批評家としてデビュー以来、かなり早い段階で、安吾についての批評を執筆されており、その後も、定期的に坂口安吾と向き合われていることがわかります。ただ、今回の本は、文芸批評としてのみならず、近年の哲学・思想的なお仕事、たとえば『憲法の無意識』といった著作とも繋がる問題系を含んでいるのではないでしょうか。そのことは、後程おうかがいしたいと思います。まずは刊行に至った経緯について、お聞かせいただけますか。
もうひとつは、翻訳するにあたって、訳者から質問がたくさん寄せられたんですね。その都度やりとりをしながら、指摘された箇所については、誤解がないように、加筆・修正しました。書きなおしの作業をしながら、二十年ぶりに自分の書いたものに出会ったという感じです。
――二十年の時を経て、ご自身の文章に向き合われて、何か新たに思い起こすことなどはありましたか。
とにかく、安吾は中国の歴史を「河」から見ようとしたわけです。中国には長江と黄河というふたつの大河があって、それぞれ異質な文明を作りだした。それらを統一してできたのが「帝国」です。黄河の話はそれ以後も考えていました。たとえば、『帝国の構造』で「帝国」について書いたのですが、安吾から学んだことが大きいですね。そのことを、今回改めて思い出しました。
――そもそも柄谷さんが、坂口安吾を意識して読みはじめられたのは、いつ頃のことだったのでしょうか。
――太宰治と坂口安吾は、よく比較して論じられますね。
――津島さんが坂口安吾的だということは、小説を書きはじめた当初から、そうだったということでしょうか。
僕は中上の紹介で早くから彼女を知っていたのですが、親しく話すようになったのは、一九九一年の湾岸戦争のときからです。中上らと一緒に「湾岸戦争に反対する文学者声明」を出した。その次は、日韓文学者シンポジウムに出席したときです。彼女は、あの頃から外に向かっていった。僕は台湾に二度行ったことがあるんですが、現地の人に、二度とも「一週間前まで、津島さんがいらっしゃっていました」といわれた(笑)。彼女は講演に来ても、その際、通常人が行かないような所に行った。台湾の少数民族の中でも、特に少数の民族を訪ねるとか。インドでも同じです。そういう所に向かう態度は中上、というより安吾に似ていると思います。
――外国に行き、他者と出会う。安吾の場合、具体的には、柄谷さんが先程おっしゃいましたが、戦前に中国を訪れたということがあり、またそれ以前に、若い頃から、多くの「外国語」を学んでいました。関井さんとの対談(「安吾の可能性」一九九三年、『坂口安吾と中上健次』所収)の中で、この言語体験が安吾にとって非常に大きなものだったと指摘されています。

――今おっしゃられた問題は、主に第一部の14章「歴史家としての安吾」で、詳しく述べられており、次のように書かれています。「日本の歴史を知るために、史料として外国の宣教師が残した史料しか当てにならないということを安吾は発見した」。「安吾の日本史研究の発端はキリシタン研究にある」。
では、なぜ安吾は、そうした視点を持つことができたのか。昔新潟に、安吾について講演しに行ったときに気づいたことがあります。安吾は幼い頃から、何かあると海辺に行って、寝ころんで海を見ていた。そのことを回想した文章もあって、今回本の中で引用しています(「石の思い」)。この時の安吾は、寝ころびながら、寄せては引く波を眺めていただけではなかったと思います。海の向うにある朝鮮半島や大陸のことを考えていたはずです。これは新潟に限ったことではないけれど、日本海側に住んでいれば、海の向こうの朝鮮半島や大陸まで、小舟でも行けることがわかります。昔から、それが重要なルートでした。たとえば、今でも、新潟には領事館が四つあるそうです。ロシアと中国、韓国、北朝鮮。それを聞くと、多くの人が不思議に思うかもしれない。領事館は東京でなければ、横浜や神戸にあるものだと思っているからです。このことは、太平洋側に住んでいたのではわからない。「表日本」とか「裏日本」という言葉があるけれど、どちらが本当の表なのか。元々太平洋側なんて、何もなかったのであって、近代になって、表裏が逆転したわけです。しかし、それは、そのことを日常的に感じられる場所に住んでいないと気づかないと思いますね。
――なるほど。
――お話をうかがっていても感じることですが、ごく初期に書かれた「『日本文化私観』論」が切り開いた地平とはまた違った、様々な新しい視点が、今回の本で提示されている。そのことがよくわかります。実際に二十年前に執筆されていたときは、安吾を媒介にして、ご自身の思考を自由に広げていこうというような思いがあったのでしょうか。
――全巻完結した際に、一冊の本としてまとめるお考えはお持ちではなかったのでしょうか。
――少し現在のお仕事に引き付けて、お話をうかがいます。『トランスクリティーク』や『憲法の無意識』といった著作を出されたあとに、この本が刊行された。そのことを考えますと、発表当時とはまた違った受け止め方がされるのではないかと思います。たとえば、最初に申し上げたように、『憲法の無意識』に繋がる論点を、二十年前の時点で出されています。その意味では、柄谷さんの思考の軌跡が、読者にもよくわかる本になっているのではないでしょうか。
そこで述べたことは、安吾全集を編集し論文を書いていた時期に出てきたと思います。つまり、「カントとフロイト」という論文を書いた時期です。それはフロイトがいった「死の欲動」という問題ですね。安吾はフロイトをよく読んでいたのですが、基本的に、前期フロイトの理論ですね。ところが、それではうまくいかないと考えるようになった。たとえば、安吾は、鬱病で東大病院に入院していたとき、小林秀雄が見舞いにきた話を書いています。そのとき、安吾はフロイトを否定している。自分の病気には、フロイトの方法は役に立たないと、考えていたようです。しかし、このとき、安吾が否定していたのは、実は前期フロイトです。そして、それが一般的に知られているフロイトです。それは、一口でいえば、エディプス・コンプレクスに代表されます。それは、母親に固着する「快感原則」と、父親や世間の規範を内面化した「現実原則」の葛藤です。しかし、安吾にはそのような問題がない。安吾は父に反抗したり、母に固執したりしているのではない。そして、それはまさに安吾が「無頼」であるということとつながっています。
つまり、フロイトのエディプス・コンプレクスの観点では、安吾を、また、安吾の鬱病を理解できない。安吾はそう考えた。しかし、そのような安吾を理解するためには、やっぱりフロイトが必要なのです。必要なのは後期フロイトが提起した観点、つまり、「快感原則と現実原則」の彼岸を見ることです。人間には無機質の状態に回帰しようとする欲動があり、これをフロイトは「死の欲動」と名付けた。安吾を動かしているのは、この死の欲動です。そこが太宰治と違うところです。太宰は、拗ねたり、不貞腐れたり反抗したり、エディプス型ですね。これが安吾には一切ない。安吾は、さっきいったように、子どもの頃から、浜辺で海を見るのが好きだった。波が繰り返しやってくる、そういう無機質な風景が、彼にとっては好ましかった。それが安吾の「ふるさと」であった。このような安吾の感受性も、死の欲動という面から見ないと理解できないでしょう。
僕が『憲法の無意識』で書いたことも、同じく死の欲動の問題についてです。死の欲動は外に向けられると、攻撃欲動になります。たとえば、憲法九条は、アメリカ(父)の強制によって外から来たように見えるが、そうではない。この超自我は、外部ではなく内部から、つまり、外に向かった日本人自身の「死の欲動」が内部に向けられたときに成立した。その点で、安吾を理解することと「憲法の無意識」を理解することは繋がっています。
――話は変りますが、第三部の「合理への「非合理」な意志」の中に、アメリカで出版された安吾論の中で、コロンビア大学の講義で、英訳の「日本文化私観」をテクストに使っていたときのことを振り返って、次のように書かれています。
《日本文学専攻ではない大学院生たちが口を揃えていうのは、この奇妙なエッセイが、哲学から小説に及ぶすべての文献の中で、圧倒的に印象的だったということであった。彼らは、ここに、日本人がいる、日本文化がある、というよりも、「個」の人間がいるということを感じたのである》。そして今回中国で、柄谷さんの「序文」が付された坂口安吾の選集が翻訳出版される。こうやって言語の壁を越えて読まれていくことによって、坂口安吾の文学が「普遍性」を持ち得るようになる。そう考えてもよろしいのでしょうか。
もうひとつ、翻訳についていっておくと、僕の主要な本は、最近の『哲学の起源』まで含めて六冊、英語版が出ています。その中で、日本文学関係の本は『日本近代文学の起源』だけです。七冊目の英訳本となる『マルクスその可能性の中心』も、来年出版されますが、これは第一部のマルクスの部分だけで、漱石や武田泰淳の章は入っていない。だから、僕の日本文学に関する評論は、ほとんど英語に翻訳されていません。それはやむをえない。僕が論じているテクストがほとんど訳されていないし、読まれていないのだから。東アジアでは、多少事情が違います。しかし、たとえば、韓国でも、僕の著作は一〇数冊のコレクションとして出ているのに、日本文学に関する評論は少ししか訳されていない。だから、中国で僕の「坂口安吾論」が出版されるのは、驚くべきことです。また、中国では『NAM原理』を翻訳するとともに、実際に「新連合主義運動」(中国語訳)を広げる活動家が大勢出てきています。自分の周辺に限ったことかもしれないけれど、中国で「無頼」の人たちが増えているのがよくわかりますね。
――本の内容について、もう一点おうかがいします。今回、天皇制に関する論点を出しつつ、柄谷さんは次のように書かれています。「安吾の「分析」への動機は、戦争期に猖獗を極め、戦後においても存続した或る歴史的な「カラクリ」を明らかにすることにある。それはいうまでもなく天皇制である」。「注目すべきことは、安吾が天皇制を、天皇、天皇を利用する権力、それに従う民衆との相互依存関係において見たことである」。「天皇制とは、天皇、諸権力、民衆がそれぞれ暗黙にもたれ合い、無責任になるようなシステムである。それがどう有効に機能しようと、このようなシステムがあるかぎり、日本人は「幼年期を出る」(カント『啓蒙とはなにか』)ことができない」(第一部15章「歴史の探偵=精神分析」より)。『堕落論』(新潮文庫、二〇〇〇年)の解説「安吾とフロイト」を一段進めた議論になっているのではないでしょうか。
――天皇制について坂口安吾から学んだということについて、もう少しお聞かせください。
ただ、僕は『捕物帖』については、本格的な推理小説としても評価したい。コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』シリーズの中に、ホームズの兄貴が出てくる話があるんですよ。頭脳明晰、ずばぬけて推理能力のある男で、弟のシャーロックもそれを認めている。ところが、その兄マイクロフトに欠けているものがある。歩き回る能力です(笑)。ある事件が起こったとき、たまたま兄貴が活躍する機会があった。彼はあっという間に謎を解いた。一見して、すばらしい推理です。ところが実際に調べてみると、マイクロフトの推理は外れている。それに対して、歩き回って事件を解明したのが、弟のホームズです。そうすると、ホームズは安楽椅子の探偵のように見えて、実はハードボイルド型の探偵だということがわかります。実際、彼は武術もできるし、街を歩き回るわけだから。『安吾捕物帖』も、それと似た構造になっています。ホームズの兄貴みたいな存在として登場するのが、隠居した勝海舟です。主人公の探偵は別にいます。物語は、まず隠居した勝海舟が警察から事件を聞いて推理する。これが見事な推理なんですね。ところが、本当の探偵・結城新十郎が調べてみると、全部外れている(笑)。毎回そんな流れなんです。しかし、今でも感心するのは、ある事件を完璧に論証しておいて、さらにそのことを見事に否定できるような論証を提示する能力です。一つの謎解きを示すだけでも大変なのに、さらにそれをひっくり返すような謎解きがなされる。一話ごとに二つの謎解きを提示するのだから、探偵小説家としての安吾の能力はすごいというほかない。実際、日本の推理小説の歴史を通観するとき、安吾を欠かすことはできないと思います。が、そのような話は聞き及びません。安吾がいろんなことをやったから、目立たないのでしょうね。歴史論に関して同様に。ただ、安吾のそのような「探偵」の能力は、他のジャンルの仕事においても活かされていたと思います。
――最後にもう一度、憲法九条の問題に戻って、おうかがいします。第一部の最後を、柄谷さんは次の文章で結ばれています。「日本人は占領下において強制された憲法九条を、独立以後も廃棄しようとしなかった。もし意識的反省によって憲法を作ったのであれば、とうに改定していただろう。そうしないのは、これが意識のレベルではなく、無意識のレベルの問題だということを示している。この無意識の問題を早く察知していたのは、坂口安吾一人であった」。
僕は数か月前にアメリカの大学に滞在していたのですが、そこで憲法九条について講演したことがある。その際、憲法九条の英文を配布したのですが、アメリカ人の活動家がそれを読んで驚嘆し、仲間に知らせた。そこで、彼らが僕の所にやって来た。彼らによれば、日本の非戦憲法のことは聞いていたけど、今まで読んだことがなかった。実際に読んでみて、こんなものすごいものだと思わなかった、といっていました。それはそうでしょう。実際にものすごい内容ですから。そして、これがアメリカから来た、と聞いたから、なおさらです。これを是非アメリカでも実現したい。しかし、「アメリカでこのような憲法を作るにはどうすればいいでしょうか。どこかの国が外から迫ってくれるでしょうか」という。アメリカ以外にそんなことをする国はないよ、と僕は答えた(笑)。
その一方で、憲法九条はまさに日本の「文化」だといえます。それはフロイト的な意味で、超自我(文化)ですが、別の観点からいえば、徳川鎖国体制の文化の回帰なのです。そのような九条を、説得、宣伝、教育などで変えられるか。やってみたらいいんですよ。国会の選挙は、論点が不明で、且つ投票率が低い。そんなもので三分の二の議席を得たところで、憲法改正はできません。憲法改定は最終的に国民投票によるのだから。これは通常の選挙とはまるで違います。論点が一つで、投票率が高い。そうなると、「無意識」が発動します。現在のところ、改憲ではなく「加憲」だといって、ごまかそうとしていますが、国民投票となると、ごまかしはきかないでしょう。「無意識」を説得することはできません。
ただ、憲法九条もすごいが、日本の状態がもっとすごいのは、この憲法を実行していない、ということです。現に巨大な米軍基地があり、自衛隊がある。だから、もし憲法九条を護れというなら、真に九条を実行することを提唱すべきなんです。そのことをいわずに、たかだか現状維持を「護憲」とかいうのはおかしい。僕はこう書いたことがあります。護憲派が憲法九条を護ってきたのではない。憲法九条が護憲派を護ってきたのだ、と。では、どうすればよいのか。必要なのはいわば、「無頼」であること、すなわち、安吾的な精神に拠って立つことです。今度、安吾を読み返して、安吾が憲法に関しても、占領軍に関しても、実に明瞭に述べていることを確認しました。ここにこそ、戦後の「無頼派」がいる。そういう意味で、僕も安吾と同様に無頼派です。 (おわり)
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2017年10月26日
柄谷行人氏ロングインタビュー
<すべては坂口安吾から学んだ>
天皇制・憲法・古代政治・歴史…「無頼」ということ
思想家の柄谷行人氏が『坂口安吾論』を、十月十四日上梓した。
これまで柄谷氏は、安吾論として、『坂口安吾と中上健次』(太田出版、講談社文芸文庫)を著わしてきたが、著者初の単独の安吾論集となる。
七割が単行本初収録論文であり、天皇制や「死の欲動」(フロイト)の問題と絡めて、斬新な切り口を提示している。古代政治や憲法、歴史学についても、すべて安吾から学んだと、柄谷氏は語る。真の意味での「無頼」とはなにか。今まさに坂口安吾が必要とされている――。
刊行を機に、柄谷氏にお話をうかがった。
(編集部)
これまで柄谷氏は、安吾論として、『坂口安吾と中上健次』(太田出版、講談社文芸文庫)を著わしてきたが、著者初の単独の安吾論集となる。
七割が単行本初収録論文であり、天皇制や「死の欲動」(フロイト)の問題と絡めて、斬新な切り口を提示している。古代政治や憲法、歴史学についても、すべて安吾から学んだと、柄谷氏は語る。真の意味での「無頼」とはなにか。今まさに坂口安吾が必要とされている――。
刊行を機に、柄谷氏にお話をうかがった。
(編集部)
二十年ぶりの再会
――この度、文芸批評の新著を、久しぶりに刊行されました。また、坂口安吾に関する書物としては、一九九六年に上梓された『坂口安吾と中上健次』以来、ほぼ二十年ぶりとなります。中心となるのは、第一部に収められたエッセイで、筑摩書房版『坂口安吾全集』(全十七巻・別巻一、一九九八~九九年)の月報に寄せられた文章となります。柄谷さんのお仕事を振り返ってみると、一九七五年の段階で、坂口安吾論(「『日本文化私観』論」)を発表されています(執筆は前年)。批評家としてデビュー以来、かなり早い段階で、安吾についての批評を執筆されており、その後も、定期的に坂口安吾と向き合われていることがわかります。ただ、今回の本は、文芸批評としてのみならず、近年の哲学・思想的なお仕事、たとえば『憲法の無意識』といった著作とも繋がる問題系を含んでいるのではないでしょうか。そのことは、後程おうかがいしたいと思います。まずは刊行に至った経緯について、お聞かせいただけますか。
柄谷
今いわれたように、僕はかなり早い段階から坂口安吾について書いていますね。対談や講演も、随分やっています。ただ、全集の編集に関しては、亡くなった関井光男さんから頼まれて引き受けたものです。意外だと思われるかもしれないけれど、僕の場合、自分から率先してはじめたことは少ない。この本も同様です。「あとがき」にちょっと書きましたが、中国の人民文学社から、二十年前に書いたエッセイをまとめて翻訳したいという依頼がありました。『坂口安吾選集』を中国で出版する、その序文として、僕の文章を載せたいといってきたわけです。話を最初に聞いたときは、その意図がよくわからなかった。日本で本になっているものであるならば、まだわかるけど、そうではない。また、それは毎巻寄せたエッセイですから、合わせると原稿用紙にして二百枚はあるでしょう。そんなに長い文章を、序文として載せることは、普通は考えられませんね。もし安吾の著作集を出すのであれば、その解説として付ける。これならば、わかりますが、確かめてみると、そうではなく、全部で一巻だということでした。とはいえ、やりとりの中で編集者と翻訳者が優秀な人たちだということがわかったので、とりあえず自分の書いたものを読みなおしてみたんですね。発表してから二十年も経っていますから、いったい自分は何を書いたのか確認する必要があった。そういう形で安吾に再会したわけです。その意味で、自分から進んで向き合ったのではなく、外から再会、再発見を迫られた面があります。もうひとつは、翻訳するにあたって、訳者から質問がたくさん寄せられたんですね。その都度やりとりをしながら、指摘された箇所については、誤解がないように、加筆・修正しました。書きなおしの作業をしながら、二十年ぶりに自分の書いたものに出会ったという感じです。
――二十年の時を経て、ご自身の文章に向き合われて、何か新たに思い起こすことなどはありましたか。
柄谷
今回読み直して、いくつか思い出したことがあります。かつて全集のために、安吾を読み直していたとき、黄河と中国文明について考えたことがある。安吾は戦争中に映画の仕事をしていました。それは中国についてのドキュメンタリー映画を作ることで、そのために黄河について調査をしていたわけです。そのとき、彼が知ったのは、そもそも黄河がどこにあるかわからないという事実です。むろん、それは古代から存在しているのですが、実は、これまで、河口がどこにあったか、あるいは川筋がどうであったかがわからないのです。洪水があって、しばしば移動するからです。地図にも書けない。今あるような川が昔からあったと考えてはいけない。要するに、中国はそれほど広大なのだ、そして「自然」の問題が大きい、ということを、安吾は書いていたんですね。なるほどと思ったのですが、一九九八年に僕が初めて中国に行ったとき、つぎのような話を聞きました。黄河は下流では何百キロにわたって、河が消滅してしまった。それは上流の方で、農業用水などで水が全部利用しつくされてしまうからです。上流における農業の発展の結果、下流では川そのものが消滅している。こういう砂漠化が今後にどんな事態をもたらすか、あるいはすでにもたらしているか。黄河が消えても、ある意味で、それが問題として残っているといえます。とにかく、安吾は中国の歴史を「河」から見ようとしたわけです。中国には長江と黄河というふたつの大河があって、それぞれ異質な文明を作りだした。それらを統一してできたのが「帝国」です。黄河の話はそれ以後も考えていました。たとえば、『帝国の構造』で「帝国」について書いたのですが、安吾から学んだことが大きいですね。そのことを、今回改めて思い出しました。
――そもそも柄谷さんが、坂口安吾を意識して読みはじめられたのは、いつ頃のことだったのでしょうか。
柄谷
大学生になってからですね。中学のころから、ロシア文学、特にドストエフスキーをよく読んでいましたが、日本の文学で読んでいたのは、芥川龍之介・夏目漱石、谷崎潤一郎ぐらいです。高校では現代フランス文学を読みましたが、同時代の日本文学は大江健三郎をのぞいて読まなかった。とにかく、現代の日本文学を読むようになったのは、一九六〇年に大学に入学した後です。戦後の文学では、太宰治を先に読み、そのあとに坂口安吾を読んだと思います。この二人と織田作之助がかつて「無頼派」と呼ばれていたのですが、僕にとって、真に無頼派の名にふさわしいのは安吾ですね。この本の冒頭に書きましたが、「無頼」という言葉は、一般に考えられているようなものではなく、「頼るべきところのないこと」(『広辞苑』)です。つまり、それは他人に頼らないことです。その意味では、いわゆるヤクザは無頼とはほど遠い。組織に依存し親分に従い、他人にたかるのだから。その意味で、安吾はヤクザではなく、まさに「無頼」だった。太宰はそうではない。「無頼」であれば、そもそも共産党に入党しないし、転向もしない。彼は頼りっぱなしの人だった。自殺するときまで、他人に頼っている。そういうものを「無頼」とはいいません。言語の本来の意味では、「無頼派」は安吾だけだったと思います。最初に読んだときから、自分には安吾が性に合っていた。中上健次と津島佑子
――太宰治と坂口安吾は、よく比較して論じられますね。
柄谷
昨年本屋に行ってふと見つけたのですが、僕は随分昔に『斜陽』(新潮文庫)の解説を書いていたんですね。まったく忘れていたから、びっくりしました(笑)。太宰は今でも人気がありますね。太宰治論も書かれている。それに引きかえ、安吾の本は読まれていないし、そのこと自体、不当なことだとずっと思っていました。それに関していっておきたいのは、「あとがき」で書いたように、太宰の娘であった津島佑子が、太宰よりも坂口安吾的だということです。彼女の小説を読むと、晩年になるにしたがって、その傾向がますます強くなった。キリシタンの話についてもそうだし、安吾の仕事を受け継いでいると思います。たとえば太宰も、キリスト教をテーマに小説を書いていますが、『駆込み訴え』にしても、屈折した、いじましい話ですね。『トカトントン』もそうです。この音が聞こえると、世界が突然ネガティブに変化し、何もかもやる気が失せてしまう。そんな小説になっている。けれども、津島佑子の『黄金の夢の歌』は、まったく逆の構造です。「トット、トット、タン、ト」という音によって、世界をポジティブに転換させる。こうやって比較してみると、太宰治と津島佑子は対照的な親子であり、津島はむしろ安吾に似ている。実際に熱心なファンだったことも、自ら語っていますしね。――津島さんが坂口安吾的だということは、小説を書きはじめた当初から、そうだったということでしょうか。
柄谷
いや、それは、中上健次が亡くなったあとからでしょうね。たとえば、中上が生きていた頃の津島佑子は、自身の家族問題についてずっと書いていたと思います。太宰を含めて、死んでしまった「家族」と向き合いながら小説を書いた。その辺が、中上の死後変わったと思います。外に向かうようになった。中上は晩年、外国に行こうとしていました。主にアジアだけれど、外に向かう気持ちが強くなっていた。作品的にいえば、『異族』という小説に、そのことがあらわれていました。単に日本の被差別部落を舞台にして書いているのではない。「路地」というのは、どこに行っても存在する。晩年の中上はそういう世界を引き受けて、小説を書こうとしていた。その矢先にガンで死んでしまったわけです。その意味で、津島佑子は、中上健次も引き継いでいるといえます。僕は中上の紹介で早くから彼女を知っていたのですが、親しく話すようになったのは、一九九一年の湾岸戦争のときからです。中上らと一緒に「湾岸戦争に反対する文学者声明」を出した。その次は、日韓文学者シンポジウムに出席したときです。彼女は、あの頃から外に向かっていった。僕は台湾に二度行ったことがあるんですが、現地の人に、二度とも「一週間前まで、津島さんがいらっしゃっていました」といわれた(笑)。彼女は講演に来ても、その際、通常人が行かないような所に行った。台湾の少数民族の中でも、特に少数の民族を訪ねるとか。インドでも同じです。そういう所に向かう態度は中上、というより安吾に似ていると思います。
――外国に行き、他者と出会う。安吾の場合、具体的には、柄谷さんが先程おっしゃいましたが、戦前に中国を訪れたということがあり、またそれ以前に、若い頃から、多くの「外国語」を学んでいました。関井さんとの対談(「安吾の可能性」一九九三年、『坂口安吾と中上健次』所収)の中で、この言語体験が安吾にとって非常に大きなものだったと指摘されています。
柄谷
そうですね。安吾は東洋大学在学中には、サンスクリット語とパーリ語を懸命に学んで、非常によくできた。将来の学者として嘱望されたのですが、その方向を一方的に断念して退学し、日仏学院に通ってフランス語とラテン語を学んだ。文学というよりも言語を一所懸命やったといえます。この点では、日本の外国文学者と違う。肩書きはどうであれ、安吾の外国語は本格的なものでした。たとえば、残されたキリシタンの文献資料はラテン語なのですが、おそらく戦前の日本の歴史学者はそんな資料を読んでいなかったと思います。しかし近世の歴史、特に十六世紀に関しては、キリシタンの残した文献を読まないとわかりません。日本人の資料には、紋切り型の言葉しかない。当たり前のことが書かれていない。たとえば、信長や秀吉がどんな顔をしていて、どんな話し方をしたのかというようなことが書かれていない。西洋の宣教師らの文章では、すべて細かく記述されている。リアルに人の姿が見えてくるんですね。安吾はフロイスなどを読み、歴史というのはこういうふうに書くべきだと考えたんだと思います。それが安吾の大きな発見のひとつです。同時代の日本の歴史学者は、キリシタンの書いた史料から日本史を読むなんていうことは、考えもしなかった。それに対して安吾は、日本史を知る上で、キリシタンの文献が絶対に必要だと思った。誰に教わったわけでもないのに、そういう考えに至った。歴史学における発見
柄谷 行人氏
柄谷
歴史学者は、かつて安吾がやっていたことを知らなかったし、今も知らないと思います。多少なりとも安吾の認識を理解していたのは、小説家だった。司馬遼太郎がそうですね。なぜ彼が信長のことを書いたのか。安吾を読んだからですよ。勝海舟などについてもそうです。そして、そのことを、司馬は隠してはいない。というのも、それはある時期は、むしろ常識だったからです。遠藤周作の『沈黙』にしても、安吾がやったことを真似ているだけです。なおかつ、歴史的にはほとんどインチキな内容です。安吾は、もっとキリシタンについてきちんと考えていたと思いますね。――今おっしゃられた問題は、主に第一部の14章「歴史家としての安吾」で、詳しく述べられており、次のように書かれています。「日本の歴史を知るために、史料として外国の宣教師が残した史料しか当てにならないということを安吾は発見した」。「安吾の日本史研究の発端はキリシタン研究にある」。
柄谷
歴史研究に関する安吾の大きな発見は、もうひとつあります。古代の日本の歴史を、朝鮮半島から見るという視点をもちこんだ。このことは、金達寿が『日本の中の朝鮮文化』で指摘していますけれども、彼も着想は安吾から得たと、きちんと書いている。その後、金達寿はそうした文章を書かなくなりますが、それは日本の歴史学者が、同じような視点で考えるようになったからです。最初にやったのは誰か。坂口安吾です。にもかかわらず、そのことが知られていない。安吾は、古代の日本を考える上で、朝鮮半島との関係について、当時の歴史学とは違った視点を出した。普通は奈良・京都から瀬戸内海を経て、九州から半島へ、あるいはその逆というコースで考えられていた。今もそうでしょう。それに対して安吾は、日本海を経て、半島や大陸に行くコースを重視した。近年では、網野善彦が亡くなる前に提唱していたようなことです。でも、それは安吾が既にいっていたことなんですよ。では、なぜ安吾は、そうした視点を持つことができたのか。昔新潟に、安吾について講演しに行ったときに気づいたことがあります。安吾は幼い頃から、何かあると海辺に行って、寝ころんで海を見ていた。そのことを回想した文章もあって、今回本の中で引用しています(「石の思い」)。この時の安吾は、寝ころびながら、寄せては引く波を眺めていただけではなかったと思います。海の向うにある朝鮮半島や大陸のことを考えていたはずです。これは新潟に限ったことではないけれど、日本海側に住んでいれば、海の向こうの朝鮮半島や大陸まで、小舟でも行けることがわかります。昔から、それが重要なルートでした。たとえば、今でも、新潟には領事館が四つあるそうです。ロシアと中国、韓国、北朝鮮。それを聞くと、多くの人が不思議に思うかもしれない。領事館は東京でなければ、横浜や神戸にあるものだと思っているからです。このことは、太平洋側に住んでいたのではわからない。「表日本」とか「裏日本」という言葉があるけれど、どちらが本当の表なのか。元々太平洋側なんて、何もなかったのであって、近代になって、表裏が逆転したわけです。しかし、それは、そのことを日常的に感じられる場所に住んでいないと気づかないと思いますね。
――なるほど。
柄谷
仏教に注目したのも、安吾です。彼が注目した仏教は、京都学派や和辻哲郎がいうような哲学的な仏教ではない。彼らが見出した仏教は近代の産物であり、西洋に対抗するための原理です。一方、安吾の関心はもっと実践的です。実際、彼は僧侶になろうとして、東洋大学に入ったのです。彼は専攻学科で、親が僧侶でない、唯一の学生でした。彼はサンスクリット語、パーリ語を習得した上で、原典を読もうとした。日本の仏教学者は近年までろくに言語をやっていなかった。例外は中村元ですね。だから、誰も彼に敵わなかった。しかし、安吾のことはまったく知られていません。「死の欲動」から見る
――お話をうかがっていても感じることですが、ごく初期に書かれた「『日本文化私観』論」が切り開いた地平とはまた違った、様々な新しい視点が、今回の本で提示されている。そのことがよくわかります。実際に二十年前に執筆されていたときは、安吾を媒介にして、ご自身の思考を自由に広げていこうというような思いがあったのでしょうか。
柄谷
ええ。ただし、何かきちんとした見通しや全体の構成があったのではないと思います。今から考えると、かなり危なっかしいことをやっていた。とにかく、十八巻分の連載エッセイを書かねばならない。関井さんに頼まれたことだけれど、えらいことを引き受けてしまったなと感じていました。普通の連載ならば休載もできますが、僕はできない。自分自身が編集者として関わっていますしね。だから、これらはたぶん一九九八年頃に、前もってまとめて書いておいたものです。――全巻完結した際に、一冊の本としてまとめるお考えはお持ちではなかったのでしょうか。
柄谷
「いつかはまとめよう」とは考えていたと思います。筑摩書房の担当者にも、何回か単行本化を打診されました。「今はまだやる気が起こらないから」「そのうち機会があれば」とグズグズしているうちに、二十年経ってしまった(笑)。だから、この間ずっと安吾について考えていたわけではない。何を書いたのかも忘れていました。最初にいったように、中国の出版社から翻訳の申し出があって、思い出させられたわけです。――少し現在のお仕事に引き付けて、お話をうかがいます。『トランスクリティーク』や『憲法の無意識』といった著作を出されたあとに、この本が刊行された。そのことを考えますと、発表当時とはまた違った受け止め方がされるのではないかと思います。たとえば、最初に申し上げたように、『憲法の無意識』に繋がる論点を、二十年前の時点で出されています。その意味では、柄谷さんの思考の軌跡が、読者にもよくわかる本になっているのではないでしょうか。
柄谷
当時、『憲法の無意識』とは違うけれども、それにつながることを考えていたことは確かです。憲法のことを最初に考えたのは、九一年の湾岸戦争に際して、日本の派兵をめぐる議論があったころです。そのころ、戦後の憲法は外から強制されたものだ、それを自主的に作り直すべきという議論があった。むろん、昔からあったものです。そして、その時点で、僕はこう考えた。自主的に作ったものが正しくて、且つ長く残るものだろうか、と。そのとき、ぼくは内村鑑三の例を持ちだした。内村は上級生たちからキリスト教に入信するように迫られたが、それに抵抗した。最終的には入信したのですが、彼にそれを迫った上級生たちはキリスト教をやめてしまったのに、内村は生涯それを貫いた。自分から望んで積極的にやったことが、本人にとって重要な決定になるわけでもないし、人から強制されたものだからといって、それが駄目だというわけでもない。憲法に関して、そんな話をしていた。この問題をもうちょっと考えようと思って書いたのが、『憲法の無意識』です。そこで述べたことは、安吾全集を編集し論文を書いていた時期に出てきたと思います。つまり、「カントとフロイト」という論文を書いた時期です。それはフロイトがいった「死の欲動」という問題ですね。安吾はフロイトをよく読んでいたのですが、基本的に、前期フロイトの理論ですね。ところが、それではうまくいかないと考えるようになった。たとえば、安吾は、鬱病で東大病院に入院していたとき、小林秀雄が見舞いにきた話を書いています。そのとき、安吾はフロイトを否定している。自分の病気には、フロイトの方法は役に立たないと、考えていたようです。しかし、このとき、安吾が否定していたのは、実は前期フロイトです。そして、それが一般的に知られているフロイトです。それは、一口でいえば、エディプス・コンプレクスに代表されます。それは、母親に固着する「快感原則」と、父親や世間の規範を内面化した「現実原則」の葛藤です。しかし、安吾にはそのような問題がない。安吾は父に反抗したり、母に固執したりしているのではない。そして、それはまさに安吾が「無頼」であるということとつながっています。
つまり、フロイトのエディプス・コンプレクスの観点では、安吾を、また、安吾の鬱病を理解できない。安吾はそう考えた。しかし、そのような安吾を理解するためには、やっぱりフロイトが必要なのです。必要なのは後期フロイトが提起した観点、つまり、「快感原則と現実原則」の彼岸を見ることです。人間には無機質の状態に回帰しようとする欲動があり、これをフロイトは「死の欲動」と名付けた。安吾を動かしているのは、この死の欲動です。そこが太宰治と違うところです。太宰は、拗ねたり、不貞腐れたり反抗したり、エディプス型ですね。これが安吾には一切ない。安吾は、さっきいったように、子どもの頃から、浜辺で海を見るのが好きだった。波が繰り返しやってくる、そういう無機質な風景が、彼にとっては好ましかった。それが安吾の「ふるさと」であった。このような安吾の感受性も、死の欲動という面から見ないと理解できないでしょう。
僕が『憲法の無意識』で書いたことも、同じく死の欲動の問題についてです。死の欲動は外に向けられると、攻撃欲動になります。たとえば、憲法九条は、アメリカ(父)の強制によって外から来たように見えるが、そうではない。この超自我は、外部ではなく内部から、つまり、外に向かった日本人自身の「死の欲動」が内部に向けられたときに成立した。その点で、安吾を理解することと「憲法の無意識」を理解することは繋がっています。
『安吾捕物帖』の画期
――話は変りますが、第三部の「合理への「非合理」な意志」の中に、アメリカで出版された安吾論の中で、コロンビア大学の講義で、英訳の「日本文化私観」をテクストに使っていたときのことを振り返って、次のように書かれています。
《日本文学専攻ではない大学院生たちが口を揃えていうのは、この奇妙なエッセイが、哲学から小説に及ぶすべての文献の中で、圧倒的に印象的だったということであった。彼らは、ここに、日本人がいる、日本文化がある、というよりも、「個」の人間がいるということを感じたのである》。そして今回中国で、柄谷さんの「序文」が付された坂口安吾の選集が翻訳出版される。こうやって言語の壁を越えて読まれていくことによって、坂口安吾の文学が「普遍性」を持ち得るようになる。そう考えてもよろしいのでしょうか。
柄谷
ただ、そのためには、もっと多くの著作が翻訳されないといけないでしょうね。もちろん、こういう形で紹介されるのは、安吾にとってはいいことだと思います。中国から、こうした翻訳の話がくること自体が意外だったし、僕が書き散らしたものをきちんと読める人間がいるのかと思って、びっくりしました。彼らは北京大学を出ても官僚や学者にならずに、文学本の編集者・翻訳者になり、こんなことをやっている。まさに「無頼派」ではないか(笑)。もうひとつ、翻訳についていっておくと、僕の主要な本は、最近の『哲学の起源』まで含めて六冊、英語版が出ています。その中で、日本文学関係の本は『日本近代文学の起源』だけです。七冊目の英訳本となる『マルクスその可能性の中心』も、来年出版されますが、これは第一部のマルクスの部分だけで、漱石や武田泰淳の章は入っていない。だから、僕の日本文学に関する評論は、ほとんど英語に翻訳されていません。それはやむをえない。僕が論じているテクストがほとんど訳されていないし、読まれていないのだから。東アジアでは、多少事情が違います。しかし、たとえば、韓国でも、僕の著作は一〇数冊のコレクションとして出ているのに、日本文学に関する評論は少ししか訳されていない。だから、中国で僕の「坂口安吾論」が出版されるのは、驚くべきことです。また、中国では『NAM原理』を翻訳するとともに、実際に「新連合主義運動」(中国語訳)を広げる活動家が大勢出てきています。自分の周辺に限ったことかもしれないけれど、中国で「無頼」の人たちが増えているのがよくわかりますね。
――本の内容について、もう一点おうかがいします。今回、天皇制に関する論点を出しつつ、柄谷さんは次のように書かれています。「安吾の「分析」への動機は、戦争期に猖獗を極め、戦後においても存続した或る歴史的な「カラクリ」を明らかにすることにある。それはいうまでもなく天皇制である」。「注目すべきことは、安吾が天皇制を、天皇、天皇を利用する権力、それに従う民衆との相互依存関係において見たことである」。「天皇制とは、天皇、諸権力、民衆がそれぞれ暗黙にもたれ合い、無責任になるようなシステムである。それがどう有効に機能しようと、このようなシステムがあるかぎり、日本人は「幼年期を出る」(カント『啓蒙とはなにか』)ことができない」(第一部15章「歴史の探偵=精神分析」より)。『堕落論』(新潮文庫、二〇〇〇年)の解説「安吾とフロイト」を一段進めた議論になっているのではないでしょうか。
柄谷
僕の天皇制に対するそうした考え方も、やはり安吾から学んだことだと思います。結局天皇制というのは、日本に存在してきた歴代の権力が、現在まで使ってきたものです。日本では、天皇を握った者が権力を得る。といっても、天皇自身は何もしないし、できない。そういう権力の在り方が天皇制です。戦後日本では「象徴天皇」制というようになりましたが、もともと天皇は象徴的な存在でした。安吾はそのことを洞察していたと思います。――天皇制について坂口安吾から学んだということについて、もう少しお聞かせください。
柄谷
天皇制に関する議論としては、安吾以前は講座派が中心で、それを批判した丸山眞男もむしろその中に入ります。その中で、斬新なことをズバズバいっていたのは、安吾だけです。僕は古代政治に関しても安吾から学んだし、戦国大名、明治のことも安吾から学んだ。安吾が最も優れていると思いました。にもかかわらず、安吾はつねに無視されていたのです。その中で、花田清輝だけが安吾を絶賛していました。たとえば、花田は『安吾捕物帖』のシリーズを、明治十年代の歴史を考える上で重要な文献であるというのです。花田の考えでは、この小説では、探偵役の勝海舟をふくめて、明治一〇年代の歴史的状況がしっかりと書き込まれている、という。ただ、僕は『捕物帖』については、本格的な推理小説としても評価したい。コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』シリーズの中に、ホームズの兄貴が出てくる話があるんですよ。頭脳明晰、ずばぬけて推理能力のある男で、弟のシャーロックもそれを認めている。ところが、その兄マイクロフトに欠けているものがある。歩き回る能力です(笑)。ある事件が起こったとき、たまたま兄貴が活躍する機会があった。彼はあっという間に謎を解いた。一見して、すばらしい推理です。ところが実際に調べてみると、マイクロフトの推理は外れている。それに対して、歩き回って事件を解明したのが、弟のホームズです。そうすると、ホームズは安楽椅子の探偵のように見えて、実はハードボイルド型の探偵だということがわかります。実際、彼は武術もできるし、街を歩き回るわけだから。『安吾捕物帖』も、それと似た構造になっています。ホームズの兄貴みたいな存在として登場するのが、隠居した勝海舟です。主人公の探偵は別にいます。物語は、まず隠居した勝海舟が警察から事件を聞いて推理する。これが見事な推理なんですね。ところが、本当の探偵・結城新十郎が調べてみると、全部外れている(笑)。毎回そんな流れなんです。しかし、今でも感心するのは、ある事件を完璧に論証しておいて、さらにそのことを見事に否定できるような論証を提示する能力です。一つの謎解きを示すだけでも大変なのに、さらにそれをひっくり返すような謎解きがなされる。一話ごとに二つの謎解きを提示するのだから、探偵小説家としての安吾の能力はすごいというほかない。実際、日本の推理小説の歴史を通観するとき、安吾を欠かすことはできないと思います。が、そのような話は聞き及びません。安吾がいろんなことをやったから、目立たないのでしょうね。歴史論に関して同様に。ただ、安吾のそのような「探偵」の能力は、他のジャンルの仕事においても活かされていたと思います。
「無頼」であること
――最後にもう一度、憲法九条の問題に戻って、おうかがいします。第一部の最後を、柄谷さんは次の文章で結ばれています。「日本人は占領下において強制された憲法九条を、独立以後も廃棄しようとしなかった。もし意識的反省によって憲法を作ったのであれば、とうに改定していただろう。そうしないのは、これが意識のレベルではなく、無意識のレベルの問題だということを示している。この無意識の問題を早く察知していたのは、坂口安吾一人であった」。
柄谷
それは、先ほど述べたように、フロイトのいう「死の欲動」と関連することです。その場合、超自我は外ではなく内から来るのですが、ある意味では、やはり「外」なしにはありえないのです。たとえば、憲法九条にある「無意識」は、日本人の攻撃欲動が内向することによって生じたものですが、実際に、アメリカという他者が最初にそれを強制しないと成立しなかったでしょう。とはいえ、その後は、アメリカとは無関係な事柄です。だから、憲法九条の成立というのは、実に不可思議なケースです。安吾は、九条にかぎっては、これは「世界一の憲法」だといっていますが、実際、憲法九条の根底には、アウグスティヌスやカント以来の理念があるのです。しかし、たんにその崇高な理念が広がって憲法九条が成立したわけではない。それは、日本の侵略戦争、そして、アメリカの占領という過程を通してのみ実現されたのです。誰か人が仕組んでも、こんなことはできません。「理性の狡知」とでもいうほかない。僕は数か月前にアメリカの大学に滞在していたのですが、そこで憲法九条について講演したことがある。その際、憲法九条の英文を配布したのですが、アメリカ人の活動家がそれを読んで驚嘆し、仲間に知らせた。そこで、彼らが僕の所にやって来た。彼らによれば、日本の非戦憲法のことは聞いていたけど、今まで読んだことがなかった。実際に読んでみて、こんなものすごいものだと思わなかった、といっていました。それはそうでしょう。実際にものすごい内容ですから。そして、これがアメリカから来た、と聞いたから、なおさらです。これを是非アメリカでも実現したい。しかし、「アメリカでこのような憲法を作るにはどうすればいいでしょうか。どこかの国が外から迫ってくれるでしょうか」という。アメリカ以外にそんなことをする国はないよ、と僕は答えた(笑)。
その一方で、憲法九条はまさに日本の「文化」だといえます。それはフロイト的な意味で、超自我(文化)ですが、別の観点からいえば、徳川鎖国体制の文化の回帰なのです。そのような九条を、説得、宣伝、教育などで変えられるか。やってみたらいいんですよ。国会の選挙は、論点が不明で、且つ投票率が低い。そんなもので三分の二の議席を得たところで、憲法改正はできません。憲法改定は最終的に国民投票によるのだから。これは通常の選挙とはまるで違います。論点が一つで、投票率が高い。そうなると、「無意識」が発動します。現在のところ、改憲ではなく「加憲」だといって、ごまかそうとしていますが、国民投票となると、ごまかしはきかないでしょう。「無意識」を説得することはできません。
ただ、憲法九条もすごいが、日本の状態がもっとすごいのは、この憲法を実行していない、ということです。現に巨大な米軍基地があり、自衛隊がある。だから、もし憲法九条を護れというなら、真に九条を実行することを提唱すべきなんです。そのことをいわずに、たかだか現状維持を「護憲」とかいうのはおかしい。僕はこう書いたことがあります。護憲派が憲法九条を護ってきたのではない。憲法九条が護憲派を護ってきたのだ、と。では、どうすればよいのか。必要なのはいわば、「無頼」であること、すなわち、安吾的な精神に拠って立つことです。今度、安吾を読み返して、安吾が憲法に関しても、占領軍に関しても、実に明瞭に述べていることを確認しました。ここにこそ、戦後の「無頼派」がいる。そういう意味で、僕も安吾と同様に無頼派です。 (おわり)
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2017年10月20日 新聞掲載(第3211号)
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