(※強調色分けなくしました、強調色分け版はこちら☞http://blog.livedoor.jp/souda321/archives/8981453.html読みやすい方で)
※ここに書かれた内容はもしかしたら学問的には違う定義や分類で書かれているかもしれませんが、一旦頭の中をクリアにして最後まで読んで下されば幸いです。もしこちらの考えの方が一貫していて使えそうだと思われたなら、嬉しく思われます。


1-積極/秩序・寛容の基準、それぞれの古層の基準について
2-保守リベラル図、共産党について
3-排他に堕ちて行く右派・左派と、映画「シン・ゴジラ」について
4-現在の天皇制、迷う古層秩序を失った日本、映画「君の名は。」について
5-識者配置図
6-憲法9条について
7-寄付・企業団体再配分・再配分について
8-現在の政党配置、理想の党配置、必要な現在の日本の古層

1-積極/秩序・寛容の基準、それぞれの古層の基準について


今回の2017年10月22日投開票の衆議院総選挙に際して、保守やリベラルの定義やそれぞれの図の配置が様々なメディアや識者から示されましたが、どうも個人的にはどれもあまり選挙に役立たないな(スミマセン‥)と思われたので、個人的に考える保守・リベラルの配置図を作ってみました。

もちろん、分類の為には基準となるものが必要なので、私的に2つの基準を考えました。
(この2つの基準は今回に限らずあらゆる場面で一貫して使えるとは考えています)

1つは積極/秩序があるかないか、もう1つは寛容/多様性があるかないかです。

リベラル保守分類図 図1
横軸の積極/秩序は、積極的に秩序に向かう前向きな態度とも言えます。
あと横軸の積極/秩序の逆は離脱/解放で、秩序から離れる、逃げるイメージで構いません。

縦軸の寛容は何事も自身と違う意見や場面を受け入れる態度の事です。必然的に多様性を帯びることになると思われます。
そして縦軸の寛容/多様性の逆は排他です。
排他とは自身の考えにこだわり、他者を受け入れられず、攻撃的になるイメージです。

そして、横軸の積極/秩序は<父型>的で、縦軸の寛容/多様性は<母型>的で、それぞれの度合いが大きくなればそれぞれ(横軸の右)積極/秩序、(縦軸の上)寛容/多様性が増し、小さくなればそれぞれ(横軸の左)離脱/解放、(縦軸の下)排他に向かうということになります。


ところで、この2つの基準は時代や場所ごとに変化するものなので、現在に生きる私達は古い時代の積極/秩序と寛容も影響を受けています。

この古い積極/秩序と、古い寛容を、それぞれ(横軸)古層の積極/秩序(その左側の古層の離脱)、(縦軸)古層の寛容(その下側の古層の排他)とします。

リベラル保守分類図 図1-2



2-保守リベラル図、共産党について


この(横軸)積極/秩序と、(縦軸)寛容/多様性の2つの基準に従って、保守とリベラルを私的に分類したのが以下の図2になります。
リベラル保守分類図 図2

現在の日本は自由民主主義なので、この図では、(横軸)積極/秩序<父型大>に自由主義、(縦軸)寛容/多様性<母型大>に民主主義を当てはめています。
(※民主主義も秩序の1つですが、その趣旨の多様意見を聞く事に重きを置いて寛容/多様性の変異と捉えました。(もちろん、現在の民主主義が本来の寛容/多様性に叶っているかは議論はあるでしょうけれど))

ところで「自由」の言葉ですが、自由主義の場所では、積極/秩序的に自由主義の【自由】の秩序に従う意味でも、秩序などで強制されたその場所から離脱/解放的に逃れる<自由>の意味でも、どちらの場合でも同じ「自由」の言葉を使っています。
この事が、自由主義下での「自由」主義(リベラル)の定義の混乱に繋がっていると考えます。

であるので、ここでは自由主義に従う積極/秩序と、その秩序から離脱/解放とに分け、混乱を生む「自由」という言葉はなるべく使わないようにします。


よって上の図2では、リベラリズムを、左上の寛容/多様性かつ離脱/解放のカテゴリーに配置しています。
このリベラリズムは、再分配に重きを置いたリベラリズムに近いイメージが当てはまるかと思われます。

そして図2では、コンサバティズム(保守主義)を、右上の寛容/多様性かつ積極/秩序のカテゴリーに配置しています。
(※本来の保守主義はこの位置にないのではとの疑問もあるかもですが、自由主義下で保守すべきは自由であり、かつ保守主義と言われている考えや人から寛容な印象を数多く受けたので、個人的にこの位置に配置しました。)


ところで、共産主義が、排他側ではありながら離脱/解放の側にあるのはイメージと違う、と思われる人も少なくないかもしれません。
ただ、上の図2は自由民主主義での配置図になるので、場面が社会主義になれば下の図3のように、共産主義は社会主義下での積極/秩序の側になります。

リベラル保守分類図 図3

















共産主義に多くの人が拒否反応があるのは、その先に共産主義が社会主義下で排他的な積極/秩序にガラリと姿を変えることを多くの人が見ている為だと思われます。
カンボジアでのポル・ポト派の大虐殺ソ連のスターリンの大粛清など、共産主義はそれら虐殺や粛清が共産主義の考えとどのような関係にあったのか(なかったのか)、明確にして寛容さを取り戻すことが出来るのか、今も問われていると、私的には考えています。



3-排他に堕ちて行く右派・左派と、映画「シン・ゴジラ」について

最近、右派・保守派の凋落が酷いなとは個人的にも思っています。
かつての保守派のイメージは、言ってる事が産業界側や国家主義的で私的には受け付けがたかったですが、懐が深く相手を受け入れる度量があり、そういう意味では考えは積極/秩序的でしたが、人間としては寛容な人が多かった印象です。

ところが最近の右派・保守派は排他的で攻撃的で、考えの違う相手を全く受け付けない印象を持っています。

そこまで酷くはないのかもですが、最近の青山繁晴氏もそんな排他的な場所に陥ってる感じがしています。
青山氏は以前、もちろんスタンスは右派・保守派の立場からではありましたが、関西テレビのスーパーニュースアンカーでコーナーを持っている時は今ほど排他的な感じはしておらず、自身と違う考えも含めて、各方面に取材した内容を多角的に紹介していたと思われます。

事実、2013年に左派の水道橋博士さんと仲良くラジオに出演している写真が残っています。
これなどは青山氏が、自身と考えの違う人にも受け入れられる寛容/多様性をかつては持っていた証拠だと思われます。

リベラル保守分類図 図4
ところで、この排他/攻撃への転落は右派・保守派にだけ起こっている訳ではありません。(上の図4参考)

事実、水道橋博士さん津田大介さんのツィートを見ればわかるように、左派の考えである自身と違う考え(右派・保守派)に対して、批判のツィートやRTが連綿と続いていることが分かると思われます。

津田さんはゼゼヒヒというサイトまで作っているのに、ほとんど少しも是々非々でなく、時に右派・保守派側に立ったり、左派に対して厳しい批判を言うなどほとんど全くと言ってありません。

そして、あれだけ映画評論では多角的な深い考察を展開している町山智浩さんも、こと政治のツィートになると、左派の思い込み排他に満ちた攻撃的なツィートを繰り返しています。


この問題は、恐らく左派の人達に関しては、(広く一般の人々に広がっている)積極/秩序と対峙したり格闘したりせず、自身と近い考えの周りから抜け出さず、その他の一般の多くの人々に届く広い自身の具体的な考えを構築できてないからだと、個人的には考えています。

津田さんは最近、東浩紀さんに対し「ツッコミ役がいない」との他からの指摘に対して、「これでもそれなりに突っ込んでるんですよ……!」とツィートしていましたが、何のことはない、東さんとのゲンロンでの対談番組を見ていても自身の具体的考えをほとんど披露出来ていません。
当然、広い的確な自身の見識がなければ出来ないツッコミの役割を、東さんに対してもほぼ全く出来ていません。

三浦瑠麗さんとゲンロンに出演した時も、三浦さんに意見を聞かれた際に、ほぼ全く具体的に自身の考えをその場で考えて披露出来ず、暗に「誠意」がない旨の指摘をされていました


もちろん、広く多くの人に通じる具体的自身考えが構築されて無ければ、感情的に排他的に自身と違う考えを攻撃するほかありません
冷静に是々非々に広く寛容/多様性に議論を進める為には、積極/秩序と対決した後に現われる、それに対する個々具体の同意や違和感、それに代わる具対案など、自身の考えが必要だと思われます。

そしてこれは重要な事ですが、積極/秩序の中には、歴史を経た様々な人々の関係性が織り込まれていて、この中でもがき対峙し格闘することで、自らだけでは行くことの出来なかった寛容/多様性の場所に進む方法論を、論理的をも含めて体得することが出来ると考えられます。

即ち、積極/秩序と対峙し格闘することで、寛容/多様性の場所に出て行くことが出来るのです。


ところで、映画「シン・ゴジラ」は、そんな積極/秩序と対峙し格闘したことで生まれた傑作だったと、個人的には考えています。
リベラル保守分類図 図5
映画「シン・ゴジラ」のメインスタッフは、町山さんが脚本に参加した実写版「進撃の巨人」とほとんど同じです。

しかし両作品を見た観客はおそらく、その2つの作品の出来の違いに驚いたと思われます。

これは、「シン・ゴジラ」の方にしか参加していない庵野秀明総監督が、例えば公開されていない総理官邸執務室など、各政府要人や自衛隊の動きから法律関係や美術まで、驚く程の分量の現実(積極/秩序)と対峙し格闘し周りのスタッフにもそれを促し、脚本を含めた物語世界を構築して行ったからだと思われます。
そして、当たり前ですが、その物語の中に積極/秩序に対する様々な対応・距離・感情を持った人々が立ち現れます

映画「シン・ゴジラ」で人気が出た尾頭ヒロミ(市川実日子さん)らがいた、いわゆる巨災対(巨大不明生物特設災害対策本部)は、そんな政府秩序の中にいながら政府秩序に対峙し、そことはまた別の自身の考えで自立している人達が集まった組織でした。

‥‥‥

もちろん運命的に排他の世界にはまり込んでいる一般の人々を、私達は身近や経験で数多く知っていて、その存在を認め、友人であれば救わなければ、とは思われてもいます。

また、お前だって排他の世界の住人だろう?とあたかも問いかけているような、排他の側からエセ寛容/多様性の欺瞞を暴く作品もあったりします。

それはまた重要な存在や作品で、私的には決して退けてはならない存在や作品だと思われています。


しかし、識者でありながら、自身の排他・攻撃性を自覚することなく、(排除の存在がエセ寛容/多様性を暴くのとは真逆の)自身は正しい(相手が間違っている)と言い聞かせ、一般の人々を自己慰安の為に逆切れ的攻撃するなどあってはならないと、強く思われてなりません。

個人的には、「単なる服従を「大人になる」と勘違いしている」と言い放ち、排他の世界にはまり込んでいることを自ら告白しているのに自身は無自覚な人の言説とは、距離を置く必要があると思われます


世界は、秩序に従うか、逆らうか、の二者択一では決してありません

様々湧き上がる人々の重層多層な感情、決して均一でないグラデーションの世界を理解する為にも、寛容/多様性を取り戻す為にも、排他/攻撃に陥った左派識者の人達が、積極/秩序と今一度、対峙格闘することを、強く願っています


ここで問われているのは、寛容かそうでないかか、です。



4-現在の天皇制、迷う古層秩序を失った日本、映画「君の名は。」について


3-では左派の一部の人達が、積極/秩序との対峙と格闘を通した具体的な広く通じる自身の考えの構築を避け、自己の好みに陥ることで排他/攻撃的になることを見ました。

ではなぜ積極/秩序を大事にすると思われる右派の一部の人達が、同じように排他/攻撃的な場所に陥っているのでしょうか


その理由は、右派が考える積極/秩序を、彼ら自身もしっかりと信じきれていないからだと思われます。

もしその積極/秩序が信じるに足る強固な物であれば、たとえそこに違和感を持つ人々がいたとしても、適切に距離を取ったり、寛容に冷静に論理的に説明出来たり、するはずです。

そうではなく、彼ら自身の考える積極/秩序が不安定だからこそ、排他/攻撃に陥ってるのだと思われます。


右派が考える積極/秩序を、彼ら自身もしっかりと信じきれていない理由は以下だと考えます。


日本には、西洋的な積極/秩序(自由主義)と、古層の積極/秩序が時に混じり合い並行して存在していると考えていますが、この大きく言うと2層の積極/秩序の存在の為に、例えば西洋的な自由主義・積極/秩序を自信をもって打ち出すことが出来ていません

まず第1にこの事が、右派の彼らが自身の積極/秩序を信じきれず、その不安によって最近の右派の一部も排他/攻撃に堕ちて行ってる、理由と思われます。

残念ながら積極/秩序は、その国や地域の歴史と無関係に存在することは出来ず、古層の積極/秩序を全くなくすことは絶対に出来ないので、この不安はずっと続くことになります。


そして右派の人達にとって第2にもっと厄介なのが、日本の古層の積極/秩序の信奉者(古層右派)です。
彼らは、その積極/秩序が古層であるが故に、更に不安定な秩序を抱える
ことになっているはずです。

しかも、その多くは立憲君主制の復活、即ち王政復古的な天皇制を望んでいます
つまり、秩序の中心に天皇陛下を迎えてその不安を払拭しようという考えだと思われます。

リベラル保守分類図 図6






ところが現在の今上陛下、つまり戦後の天皇陛下はもう古層の積極/秩序の座を降りてしまっています
上の図6にそのことを配置しました
つまり、このことが更に古層右派の不安を増大させていると思われます。


最近の今上陛下のお言葉を左派の人達が重要視し、右派の人達が余り重要視していないのはその為だと思われます。
個人的には上の図6のように、左派の人達の考えに近い場所にも現在の今上陛下はいて、逆に古層右派の人達の望む場所からは遠い場所にいる、と考えています。

ただ、今、お言葉を重要視している左派は、自身の近い場所に今上陛下がいるから利用しているだけと個人的にはずっと感じていて、左派の彼らは、天皇陛下の考えが自身の考えとズレればすぐに軽視するだろうと思え、天皇陛下を利用しているのはこれらの左派の人達も古層右派の人達と同じだとは個人的には思っています。


そう考えると、右派でありながら今上陛下のお言葉を重要視している小林よしのり氏は、大変誠実な存在であると私的にも思われます。


個人的には、古層右派は天皇陛下に頼らずに、自身達で古層の積極/秩序を構築した方がいいと思ってはいます。
もちろんそれは勝手に構築することは出来ず、古層というからには人々の深層にある所から取り出してくる必要があります。


日本の(今は不安定になっている)古層の積極/秩序は、仏教・儒教・神道の考えが混じり合って形成されていて、その中心は単純に言ってしまえば〔無心に没頭する〕だと思ってはいます。

ただ、儒教に色濃く影響された年功序列一箇所だけの〔無心に没頭〕は、(もちろん高度経済成長の時代には非常に役立った、という利点もあったのですが)例えば戦中の悲惨な玉砕や、最近での過労死やブラック企業問題など、あるいは高度情報化による価値観多様性によって、現在は害悪の部分も色濃く指摘され、最近ではそのままでは採用することは出来ません


よって個人的には、≪移動可能な没頭≫を、現代的な古層の積極/秩序にしてはどうかと、提案します。

具体的には、例えばきちんとある一定期間の約束された雇用を作る代わりに、解雇の制限を今よりかは幾分緩和する。
非正規雇用の人にも社会保険を適用し、正規雇用と非正規雇用との落差を少なくする

こうすれば、無心の没頭と移動可能を両立することが出来ると考えます。


いずれにしても、天皇制に頼らない、人々の深層にある広く共感性のある、無心に没頭しながら緩やか柔軟な移動が出来る、現代的な古層の積極/秩序の構築が、望まれていると思われます。

この現代的な古層の積極/秩序の形成こそ、排他/攻撃に陥っている一部の右派が(そして排他/攻撃に陥ってる一部の左派も)、寛容/多様性に開かれる重要な鍵だと思われています。


補足に昨年の映画「君の名は。」についても書いてみます。

リベラル保守分類図 図7
映画「君の名は。」は、三葉の住む糸守町と、瀧が住む東京が舞台です。

それぞれ楽しく生活をしているようで、糸守町では神職を捨て町長になった三葉の父や親友の父の建設業者の存在や、東京では瀧が父子家庭であるといった、目立たないですが現在での小さな崩壊を感じさせます。


やがて糸守町は破局(カタストロフ)の危機に直面します。

その時に瀧と三葉はそれぞれの名前を忘れそうになり、君の名は?をずっと問いかけます。
その連続の問い掛けは、私達観客の、それぞれの深層にある大切な人への問い掛けとリンクして行きます。

そして糸守町を救う為に重要になったのが宮水神社のご神体です。
瀧はそこで過去(古層)にさかのぼるような体験をします。


上の図7図6に描いたように、現在の今上陛下の位置と、「君の名は。」で観客の私達が到達したそれぞれの深層の大切な人が、近い場所にある印象を個人的には持っています。

でもこれは私達が今上陛下に近づいたのではなく、今上陛下が私達のそれぞれの深層に近づいたのだと考えています。
そういう意味で、今上陛下は偉大な思想家でもあると、私個人は思っています。

古層右派の人達はここも追求した方がいいとも思われます。


ただ、私達は2011年3月11日に似た経験をしかも現実で通過したにもかかわらず、現在も右派や左派の排他/攻撃の応酬の場面に数多く出会っています


積極/秩序に対峙しないで寛容になる道はやはり困難で、ここでは現代的な古層の積極/秩序の構築の必要性を書きました。



5-識者配置図

2-の図2に従って、識者の人達の配置図を書いてみました。

リベラル保守分類図 図8
もちろん3-で書いた通り、一般の人々が重層多層な感情、決して均一でないグラデーションの世界を生きているように、識者の人達も1点で特徴を書き記すことは出来ないとは思われてはいます。
その意味で、ここに書かれた配置はその背後の重層多層性も込みの話です。
それを踏まえた上で、個人的に何度も強調されるイメージから配置してみました。

この中で、図の右上の(横軸)積極/秩序に重きを置きながらかつ(縦軸)寛容/多様性を失わない(私が考える)右派の三浦瑠麗さんや佐々木俊尚さん、図の左上の(横軸)離脱/解放に重きを置きながらかつ(縦軸)寛容/多様性を失わない(私が考える)左派の堀潤さんは、現在の、そしてこれから超少子高齢化が進み益々排他/攻撃が進むだろう日本で、寛容/多様性を両派で共に踏ん張って維持している、大変貴重な存在だと個人的には思っています。

しかし彼らに対しても排他/攻撃の魔の手が迫っていて、いつ落っこちても不思議でないくらい、識者の人達の多くは排他/攻撃の最下層に堕ちて行く傾向が見られます。(元から排他/攻撃の場所にいた人も中にはいるとは思われますが)

※ちなみに吉田豪さんは特異な存在で、寛容/多様性な人々に対してより排他/攻撃的な人々に関心があるのに、自身は決して排他/攻撃の場所に落ちて行かない自己客体視の徹底した人だと個人的には思っています。(時に個人的には批判もしていますが)
ロマン優光さんが著書の中で「一人勝ち」と書いたゆえんだとも思われます。


6-憲法9条について


憲法9条に関しては、改憲派が、護憲派に対して言っている批判を強引にまとめると以下かと思われます。

・改憲派の護憲派への批判
1. 護憲派は憲法9条によって平和が守られてきたと言うが、現実は日米安保をはじめアメリカの核や軍事力の傘に守られて来たから平和だった
2. 自衛隊が「戦力」でないというのはさすがに欺瞞
3. 国際社会での専制圧政の除去や治安維持など、国際紛争での治安維持活動から逃げることは正義に反する
4 . 北朝鮮の脅威、中国の軍事力の増大に対し、きちんと日本も軍隊として備えなければならない
5. 自衛隊を軍隊と認めないと軍事法廷で裁くことが出来ず、仮に自衛隊員がその活動の中で人を殺めた場合に民間人の殺人犯として裁かれてしまう


特に3.の国際紛争での現地で苦しんでいる人々を見捨てることになるのではないか?それは正義に反する、の問い掛けに対して、護憲派が真摯に受け止めているとは思えません
これらの問いに護憲派はしっかりと耳を傾ける必要があるとは思われます。


ところで私も(消極的とはいえ)憲法9条の改憲には反対なので護憲派に入るかと思うのですが、改憲派にも以下の疑念があります。

・(消極)護憲派である私の改憲派への疑問
① 憲法9条改憲派の中には、改憲でアメリカから自立出来るような主張もあるが、沖縄の米軍基地、日米地位協定横田空域などに関してまずアメリカと対等に話せるところを見せず9条を改憲したら自立可能の主張は欺瞞なのでは?9条を改憲しても、かえってアメリカに利用される懸念がある
軍は必ず司令と前線に分かれ司令の命令に前線が従う上意下達の組織であるが、そこから隊員がいつも自由意思で抜けられないのはリベラルの正義に反するのではないか
国際紛争の治安維持の為に自衛隊(あるいは改憲されて日本軍)の隊員(軍人)が、仮に海外での戦闘で命の危機にあった時に、日本国民を直接守る立場からは遠く、日本国民から日本国家を守る立場に意識が変わるが、その問題は精査されているのか


です。

①に関しては、憲法9条改憲でアメリカからの自立問題は全て解決出来る、という考えは、私個人は思考停止型の改憲だと思われています。

②に関しては国家主義的な改憲派は、軍の上意下達など当然、との反応でしょうけれど、リベラル(自由主義)の立場に立つ改憲派の人達は、この軍の上意下達の問題の根本から目を背ければ、「自由」の問題に自身は外野から逃げたことになる、と個人的には感じています。
前線の個人の隊員が、これおかしいよね?と感じたら、いつでもどこでも個人で離脱することは可能になるか?の問題です。

③に関しては、海外のその国地域での治安維持活動で、日本国土や国民を守るという意識から、国家の為にへの、意識の変化をどう考えるかという問題です。


今年5月のNHKスペシャルで、南スーダンPKO活動に派遣された陸上自衛隊の宿営地の周りや中で、銃撃や砲撃があり、他国の部隊には死者が出たことがレポートされました。
その時に派遣された自衛隊員が当時を振り返りインタビューに答えています。

積極的にほかの国のために血を流す必要はあるのかなあ‥うーん‥(中略)南スーダンを守ってあげることが自衛権の範囲内なの?(と自分は思います)」
「命がけで警備任務をするのかというと、それが我々に求められているものではないんじゃないかと思います。日本という国を防衛するのが、専守防衛が我々の任務であるので、それを越えてまでやるべきなのかというとそれは違いますよね」


この時に遺書まで書く必要に迫られた、彼ら前線での感情を軽視、無視してしまう行為は、インパール作戦に限らず先の大戦で大本営(司令)が前線の実態を無視し続けた愚行と陸続きになってしまう、と個人的には感じています。

リベラル保守分類図 図9



上の図9に書いたように、自由主義の観点からは、軍の派兵をする時には、必ずそれが(積極/秩序、そこから離れる離脱/解放、の両方の意味での)「自由」に合致しているか問われなければならない図9:①自由の為の派兵、②自由に反した為に撤退‥)と考えます。

この点に関して、自由主義立場の改憲派である井上達夫さんや三浦瑠麗さんなどは、派兵に関して国会での事前承認の憲法明記を主張されるなど、不断に民主主義での問い掛け、シビリアンコントロールの本来の意味を厳しく説いています

自由主義には(積極/秩序、そこから離れる離脱/解放、の両方の意味での)「自由」に対する人々による不断の問い掛けが必須であると思われますが、井上達夫さんや三浦瑠麗さんは、一方で誠実に自由民主主義下での世界平和やそこでの日本の役割を、しっかりと法や民主主義でコントロールされた寛容/多様性に開かれた思考で、考えているとは思われます。

そういう意味でもお二人のような存在は、個人的にも貴重な存在だと感じています。


ただ、私個人は上の①~③に箇条書きした疑念が解消されない限り、現状での憲法9条改憲には(消極的ですが)反対です。
また、派兵でなく、外交を重視した役割をもっと考えられないかとも考えます。


韓国軍はベトナム戦争で4968人の戦死者を出しました。
イギリス軍はアフガニスタン戦争のISAF派遣で455人の死者イラク戦争の有志連合軍派遣で179人の死者、を出したとの報告もあります。(韓国軍はそれぞれ1人の死者)

私達が、集団自衛権行使を認めたり、憲法9条改憲で何がリアルに変わるのか、議論は真摯に具体的に考えた上で成されないといけないと、個人的にも考えています。


一方、上の改憲派からの1.~5.ような批判をほぼ全く受け止められていない、と思える、憲法9条さえあれば全て問題ない、かのような人達は、私的には思考停止型の護憲だと思われます。

そういう意味で、憲法9条を、改憲すれば全て解決、護憲すれば全て問題ない、かのような、両派のコインの裏表の思考停止型同士の、しかも排他/攻撃的なやり合いは、一般の人々になんら有益なものをもたらさないと思っています。

ここでも寛容/多様性に開かれた議論が望まれていると思われます。


7-寄付・企業団体再配分・再配分について


私が考える、再配分、企業団体再配分、寄付、の違いについてを書いておきます。

リベラル保守分類図 図10
再配分は、現状は国家や地方自治体によって集められた税(や国債、地方債)の中から、全ての人(あるいは上限などの条件に合った全ての人に)に平等に、逆に配分されるお金(それに類する物)です。

これは、積極/秩序に従えず、そこから離脱してしまった(せざるをえなかった)人々に配分されるという意味で、左派的な行為だと考えています。


企業団体再配分は、業界や団体ごとに再配分される仕組みで、共同体主義的な再配分だと思われます。


寄付は、寄付する側が恣意的に資金を渡す先を、その規模も含めて決めることが出来る仕組みです。
これは(自身の考える)積極/秩序に従っている、または従おうとしている人を引っ張り上げる(もしくは押し上げる)行為で、右派的な行為だと考えています。

現状は左派的平等な再分配も(条件闘争的問題も残ってはいますが)まずまず行き届いているので、寄付に対する左派側のアレルギーも全くない(むしろ推奨されている)とは思われますが、左派的な再分配を減らす代わりに寄付で、となると、徐々に寄付に対する反発が左派の方から出てくるのではないかと考えています。



8-現在の政党配置、理想の党配置、必要な現在の日本の古層


(選挙に際して初めに書くべきだったかもだったですが)
最後に今回総選挙に際しての政党配置を書いておきます。

リベラル保守分類図 図11

この図11は私の理解する分布図ですが、個人的には、自民党と希望の党は非常に似ていると感じています。
両党トップの安倍総理と小池代表は共に排他かつ積極/秩序の近くにその発言や過去の行動からいると思われます。
しかし自民党希望の党のそれぞれの候補者達を見れば、右派から中道左派まで、寛容/多様性から排他的な場所まで広く覆い安倍総理や小池代表がその位置だからと言って、党全体がトップと同じ価値観で染まっていないことが分かるかと思います。

いずれにしても党全体で見ても自民党も希望の党もよく似ていて、だからこそ新しく出来た希望の党の存在意義は揺らいでいるように感じています。


上の図11を見れば分かるように、立憲民主党が出来たのでまだ幾分マシになったとはいえ、個人的には近年まれに見るまともな選択肢が示されていない選挙だと思われています。

そういう意味で、東浩紀さんが(立憲民主党が出来る前に書かれたものですが)「2017年秋の総選挙は民主主義を破壊している。「積極的棄権」の声を集め、民主主義を問い直したい。」で書かれた「この選択肢は国民の民意を反映しているでしょうか。」の意見には大変同意しました。

それに対して、「棄権」の言葉に反射的に反応した排他/攻撃的な左派の人達が一斉に東さんを攻撃したのには驚かされました。
彼らは本当に今回の選択肢が国民の望む最低ラインに達してると本気で考えているのでしょうか

もし本気でそう考えているなら、彼らも10月22日の投開票日に出る今回の選挙結果を真摯に受け止める必要があると思われます。
(もちろん、これを書いている時点で選挙結果がどうなるかは分かりませんが)


私個人は、今回とてもまともな選択肢が示されたとは思えません
普通の感覚であるなら、選択肢は示されて無いですよね同感です、ただ(投票したとしてもきちんとした民意反映は期待薄だけれども)棄権は留保したい、がまともな反応だったと強く思われています。


ここでも寛容さをなくした排他/攻撃性が、まともな議論の機会を奪っていると強く思われます。


上の図11を見れば分かるように、特に左派の寛容/多様性の多くの領域が今回の選択肢で欠けていると個人的には思われます。

残念ながら、立憲民主党も、代表の枝野幸男氏は大変リベラリズム溢れる人だと個人的にも感じていますが、政党としての寛容/多様性の打ち出しは弱く、候補者の顔ぶれもほとんど考えが社民党の議員と変わらない、と個人的には感じています。


一番最後に個人的に考える理想の左派政党と理想の右派政党を配置した図を描いておきます。
(日本共産党はさすがにこのままだろうと理想の左派政党には含めませんでした)


リベラル保守分類図 図12





日本の識者
は今、どんどんと寛容さをなくして排他/攻撃的になっています。

それは、(一部の人を除き)彼らがこの国の(古層を含めた)積極/秩序に対峙していないのが原因だ、と思われています。


そして、その解決の為に古層の積極/秩序に、人々の中から見つけ構築した≪移動可能な没頭≫を据えることを「4-現在の天皇制、迷う古層秩序を失った日本、「君の名は。」について」で提案しました。


私達一般の人々は(2014年の総選挙直前にも書きましたが)超少子高齢化や産業構造中央集権の硬直化にさらされ、排他/攻撃的な環境に徐々に取り囲まれて来ています
それは厳しい環境に身を任せる他ない、一般の人々の残念ながら自然な流れとも言えます。

しかしそこから一般の人々を救う、せめて立ち止まらせる、ことを期待されている識者の人達が、(一部の例外を除き)自分達も状況に身を任せ、排他/攻撃の場所に堕ちて行く、しかも逆切れ的に一般人々を非難する、とは、個人的には決して許されない行為だと思われてなりません。

識者の役割はその真逆の、人々の中に実はある多様性を、見つけ出し言語化して、人々を寛容の場所に連れて行くことのはずです。


問題は右か左かでなく、寛容かそうでない(排他/攻撃)か、なのです。


識者の皆さんが、(何かに頼らず)現在の人々に広く受け入れられる古層の積極/秩序を掘り起ししっかりと構築し、現在の西洋的な積極/秩序をそこに並列に並べ、それに同意する/あるいは違和感を感じ、不断に対峙格闘しつつ変更を加え、重層多層で均一でないグラデーションの一般の人々を感じながら、歴史的な積極/秩序や人々の中に多様性を見いだし、寛容な場所に続く道筋を探り当て人々を寛容/多様性に連れて行く、思考志向と言動を獲得し広げることを、深く強く個人的にも願っております。



参考文献
会田弘継 『〈増幅改訂版〉追跡・アメリカの思想家たち』 (中公文庫)
佐々木俊尚 『21世紀の自由論 「優しいリアリズム」の時代へ』 (NHK出版新書)
三浦瑠麗 猪瀬直樹 『国民国家のリアリズム』 (角川新書) 
礫川全次 『日本人はいつから働きすぎになったのか 〈勤勉〉の誕生』 (平凡社新書)
阿満利麿 『日本人はなぜ無宗教なのか』 (ちくま新書)
歴史の謎を探る会 『常識として知っておきたい日本の三大宗教-神道・儒教・日本仏教』 (KAWADE夢文庫)