文字書き絵描きコラボ企画。長岩宵さんに頂いたお題で先攻、文字書きまつりかのつるいちをお送りします。やっぱりちょっと寂しがりやな鶴丸さん。
文字書き絵描きコラボ企画
つるいち x お題「星月夜」
文:まつりか 絵:長岩宵さん
りーりー、ちち…ちち…
りりりりり…りりりりり…ーー
鶴丸国永は自室の外廊下に腰掛け、切なげに輪唱を繰り返す虫の声をひとり聞いていた。
少し古い木の柱にもたれ、冷酒をちびりと。ふうっと鼻を抜けるアルコールの香りは楽しめるが、どうにも酔えそうもない。最近の癖で無意識に支度をし、自分で厨から頂いてきたものだが、この酒を呑むには、今夜は少しばかり冷えるな、と思った。
そよそよと穏やかな風が頬をかすめる。極僅かなそれが葉を揺らす音と、絶えず奏でられる虫の声だけが聴こえている。秋の入り口のそれは大合唱とまではいかない。静かだ。
見上げれば朔の空に星々が瞬いていた。月のない夜は星々がいっとう冴え渡る。真南を向いた鶴丸の部屋から臨むのは、南西方向の地平から世界をぐるりと包み込むように天の川。空の高い位置に見えるのは犬飼星【アルタイル】だろうか。しかし、天鵞絨を敷いた滑らかな宙空に、こうも惜しげも無く宝石を散りばめられては、書物で得た程度の付け焼き刃の知識ではとうてい太刀打ち出来ないなあと苦笑いする。今宵は星渡りは諦めて、ただその瞬きを愉しむことにしようか。
この空から、毎日のように灼熱の太陽が燦々と降り注いでいたのはいつからだったか。夏の光はその命の入れ替えをぐんぐんと加速して容赦なく生き物を育み、慈しみ、いとも簡単に殺めていった。
ぽたりとしずくを落とす自身の肌に驚いた。息をするたび、肺まで焼け付くような湿気と熱気を孕んだ空気に、内腑から体力を刮ぎ落とされているような心持ちだった。だがどうだろう。夜でも寝苦しかった日はいつの間にか去り、こうして虫の声を聞いている。
季節の移ろいを肌で感じる妙を、鶴丸はくすりと笑った。思えば、雪の日に舞い降りてから、この本丸にも、人間の体にも、ずいぶん馴染んでしまったものだ。初めは食べることすら赤子のように満足にはゆかず、戸惑ったものだが、今ではこうして一人星見酒を愉しんでいる。ほんの、半年の間の出来事だというのに。
夜風に冷えた自身の白い手の甲を、ぴたりと唇に押し付けてみると、今度はまだ肌寒かった春の日のことを思い出す。皆でまだ冷えるなと笑いながら、本丸の広間の襖を全て開け放って、広い庭に笑いさざめく桜花を肴に花見酒を味わった。あの花の宴は、季節の移ろうちょうど境目だったのだなと今ならわかる。ああ、酒がうまいと思ったのはたしか、あのときが最初だった。夜桜を浮き上がらせた春霞と、上気した朋輩の赤い顔。酒精の香り以上に、花霞に酔ったんだ。三日月の幽玄の舞いに誰しもが言葉を失っていたっけ。
切子細工の施された濃縹の玻璃の猪口をくいと傾ける。
耳の奥をさんざめく春の日の思い出と、瞳に映るどこまでも広がったしじまの秋空の対比は、ふと底知れぬ侘しさを鶴丸に味合わせた。冷たすぎる酒を飲み干した勢いで、ころんとそのまま仰向けに倒れる。視界の殆どを降るような星月夜が支配した。
両の手を伸ばすと、くらり、と天地を失うような感覚に酔う。重力を見失い、広大な宇宙に揺蕩った。
(ーーーっあ)
どろりと意識を失いそうだった。その白濁した視界に、満月が映った。
(ーーーおや、朔のそらに、ふたごの琥珀の月)
伸ばした手に触れた肌の感触と、ふわりと鼻腔を掠めた柑橘の香りに、にこりと微笑んだ。
「鶴丸さま」
「いち」
背筋をぞわりと支配した侘しさが、その骨のひとつひとつから瓦解してゆくのを感じた。
「このようなところで眠っては、お風邪を召されます」
「つれないな。きみが来てくれるのを待って、こうしてひとり星見酒に興じていたというのに」
確かめるように恋人の頬をひと撫ぜする。秋の夜風に晒された頬は、冷たい鶴丸の指先と同じ体温だった。明るい宝石を散りばめた紺碧の空を背負い、自身は陰になろうとも、いっとう輝く双眸の金色。
「ああ、おれだけの琥珀の月。星月夜の天鵞絨の空に満月を掲げるなんて、贅沢だなあ」
くいと両の手で引き寄せた怜悧な顔は、少し困ったような表情をしていたが、素直にその誘導に従った。冷たい唇同士が触れ合う。二度、三度、優しくついばむと、満月がとろんと欠けた。触れ合って紅潮した肌が、ひやりと薙いでゆく夜風に心地良い。
「酔っておられるのですか」
「ふふ、悠久の宇宙に想いを馳せて、自身の境界線がわからなくなりそうだったのさ」
触れ合った体温で、まだここに形作られている自身の存在を確かめる。その言葉と、先日までの熱帯夜が嘘のように冷たく冷えきった鶴丸の肌に一期一振はぞっとした。
「…お部屋に参りましょう。今宵は冷えますよ」
「ふむ、もう少しここで星を愉しみたかったのだが」
「ーー…朔の夜の双子月だけでは御不足ですか」
名残惜しくなって、幼子のような我儘を口の端に乗せたが、絞り出すような一期一振の声ではっとした。合わない視線に、どうしようもない愛しさが、ぞわりと肌を粟立てた。
「まさか。それこそ贅沢ではないか」
ホッとしたように微笑む顔には上弦の月。紺碧の空に溶け込むような星の光の髪をくしゃりと撫でて、また引き寄せた。
ああこの熱があれば、おれは何度だって還ってこられるんだろう、ここにーーー。
おわり。
ーーー
星月夜【ほしづくよ】
月が昇っていない星明りだけの夜。星の光が月のように明るい夜。