サッカーを続けてよかった……燃え尽きた水沼貴史はいかにして這い上がったのか

有名サッカー関係者にさまざまなエピソードを伺うこのインタビューシリーズ。今回は水沼さんに登場をしていただきました。90年代からサッカー解説者のパイオニア的存在として、お茶の間に親しまれている方ですが、横浜マリノスや日本代表での活躍をご記憶の方も多いと思います。今回は水沼さんにユース代表時代や大学時代のエピソードを振り返っていただきました。 (たまプラーザ・あざみ野のグルメランチ

サッカーを続けてよかった……燃え尽きた水沼貴史はいかにして這い上がったのか

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小学校から高校まで全国大会で優勝し、

法政大学ではキャプテンとして総理大臣杯に優勝。

その後、日産自動車、横浜マリノスで活躍する。

 

1979年ワールドユースでは日本の唯一のゴールを決め

日本代表としても印象深いゴールを決め続けた。

水沼貴史氏の経歴は栄光に満ちている。

 

飄々と輝かしい日々を語ってもらえるのか。

そんな予想とはまるで違った話が出てきた。

信じられない苦行と燃え尽きてしまった日々。

 

華々しく活躍する同期の選手を見ながら

唇をかんだ日々もあったそうだ。

そんなところからどう立ち直ったのか。

 

決してスパルタを肯定しているのではない。

だが水沼氏が激しい時代を過ごしながら

感じていた2つの本質は記録しておきたい。

 

練習が苦しかったユース代表時代

僕が過ごした一番辛い時期は、間違いなく、1979年、日本で開催されたワールドユースのときです。それしか出てこないです。日本代表選手になって、そこから外されて「もうお前呼ばない」と言われたこともあります。でも、それ以上に苦しかったのはユースのときでした。

 

日本で世界大会を開催して出場するいうことで、もちろん力は入っていました。だけど育成というと、9地域の、今で言うトレセン(トレーニングセンター)みたいなのがやっと出来て、関東選抜、関西選抜が集まって合宿するという環境になってきたばかりぐらいのときで。

 

そういうところで全国の強豪たる選手たちが集まるので、「あ、アイツすごい」「こんなヤツがいるんだ」と初めて見るような選手がいるんです。そんな時代だったから、ユースの世界大会って言っても、相手としてどんな選手が来て、どんな大会というイメージも湧かないんです。大会が近づくにつれて、ディエゴ・マラドーナっていうすごいのが来るみたいな話になったくらいで。

 

第一回の合宿が高校2年の春だと思うんですよ。それが鳴門なんです。今の「鳴門大塚スポーツパーク ポカリスエットスタジアム」で。あのスタジアムの、スタンドの下に用具を入れる倉庫みたいなところがあって、そこにベッドを入れて寝泊まりしていました。旅館とかホテルじゃないんです。倉庫に寝泊まりして、ゲートの前に食堂があったので、そこに三食食べに行ってました。

 

その環境から「え?」ですよ。何人集まったかも憶えてないけど。第一回から最終メンバーまで残ったのは数人しかいなくて、僕はそのひとりだったので、全部の合宿を見ました。

 

合宿にはいろんな選手が集まるんですけど、来ても次の合宿から呼ばれない選手と、新しく呼ばれる選手がいて。一度外されてもまた呼ばれる選手もいましたね。そういう合宿を2年半ぐらいやりました。

 

海外遠征もあれば国内遠征もあって、1週間の合宿もあれば2週間の合宿もありました。高校生だから学校にも行って授業日数もしっかり満たさなきゃいけないので、そういうのも計算しながら日数が決まっていたと思うんですけど。

 

そんな合宿で、監督の松本育夫さんがまず言ったのは「世界と戦うにはフィジカルだ」と。体力的にどこまで追いつけるか。そこをまず鍛えると言われて。

 

僕らは「え?」って。体力トレーニングって一番嫌いだったから。でもやるしかない。そう思っても、どんどんキツくなってくるので、ケガ人もリタイアする選手も出る。そうなると、合宿行くのがイヤになるんですよ。

 

 

四部練習で体はボロボロ……恐怖の合宿

朝、午前、昼、夜の四部練習でしたね。早朝起きてジュースとパンぐらいだったかを食べて、坂道走って。200メートルぐらいの坂を、100メートル降りて100メートル上がる。ときには40メートルの急な坂を上がるとか、クロスカントリーしたりとか。午前中もフィジカルのトレーニングとは違うダッシュ系で、午後になってやっとボールを触わって、夜は筋トレです。ときにはタイヤを引っ張って。

 

僕らが合宿をしているとき、同じ場所で日本代表が合宿をすることもあったんです。代表はピッチの中でゲームをやったりトレーニングしてる。僕らはその下でタイヤを引いたり、ハードルを跳んだりしてたんです。そのときの代表選手だった(木村)和司さんとかは、「よくお前、あんなのやってたな」みたいなこと言われてました。サッカーやってないでタイヤ引っ張ってるって。

 

サンドベストって砂の入ったベストを着て走ったりサッカーしたりするんです。そういうのをずっとやってると苦しいし、脱走を考えるやつらとか出てくるんですよ。「何時にどこ集合」とかこっそり連絡が回ってくる。実行するヤツはいなかったんですけど。

 

身体ボロボロになりながらやってました。DFは「ピンチクリア」と言って、何本ものクロスをヘディングでずっとクリアし続ける。その練習が終わると動けなくなって、一番遠いグラウンドからおんぶされて帰ってくるんです。そんなの、あのとき以外で見たことないですよ。

 

そういうのを各ポジションでやるし。今みたいに科学的な根拠があるわけじゃなくてやっていた部分もありました。でもそれをやらないと世界の人たちとは戦えない、そう思ってやってました。

 

そう思ってやっているんだけど、合宿に行くのがイヤで。合宿を一番よくやった場所が千葉県の検見川で、そこに行くための総武線の黄色い電車が大っ嫌いになりました。総武線の電車に乗っているときの憂鬱さと言ったら……。またこの合宿が来たって。世界大会というよりも、そこに行くことそのものが恐怖という感じですよ。

 

検見川では10数畳をフスマで分けて部屋にして、そこに何人も固まって寝たりもしてました。僕はいつも一番監督の部屋に近いところだったので、フスマを挟んで寝ていると、昼寝だったら午後の練習の打ち合わせが、夜だと次の日の練習の打ち合わせが聞こえてくるんです。監督が最悪な練習メニューを言ってる声が。それもイヤで。

 

寝たら次の日が来るから寝たくない。疲れているのに寝たくない。でも寝ちゃうんです。疲れているから。そういうのをずっと繰り返してた。

 

ベッドのある部屋に泊まることもありましたね。そこは代々、学生選抜や日本代表の人たちが泊まっていて。その人たちがいろいろ壁に書いてるんです。名前と一緒に「こんなところはイヤだ」とか。その落書きを見ながら、あ、この人もここでやってたんだ、こんな思いをしてたんだって。そういうところに行くのもイヤでした。

 

この前、ハシラ(柱谷幸一)と話をして、僕らはまだ関東の選手だったので幸せだったってわかりましたね。月曜から土曜までトレーニングがあっても、日曜は一度休みになったりすることもあって、そのとき土曜日に一回家に帰ってリフレッシュしてまた集合ということが出来たんです。

 

けれど他の地域から来てる人たちは合宿所にずっと寝泊まりしなければいけなくて、それが結構辛かったらしいですね。リフレッシュすることが出来なくて。休みで千葉に行ったりしたんでしょうけど、帰って寝るところは合宿所なので。だけどハシラは8次、9次合宿ぐらいから来て、その前のもっと苦しい練習には参加してないんです。だから「お前、途中から来ていいなぁ」って思ったりしてました。

 

海外遠征中に抜け出し失踪しかけた選手も……

これもう笑い話なんですけど、海外遠征でドイツのデュイスブルグのスポーツシューレに行ったとき、(松本)育夫さんは「炭酸飲むな」っって言ってたんですけど、僕らは苦しいから飲みたくなったりするんです。みんなこっそり飲んだんですけど、ひとりの選手が見つかりました。その選手は呼び出されて育夫さんに説教された。「日本を代表している選手がなんでこんなのを我慢できないんですか」みたいな。

 

その選手は、高校生ながら自分のプライドを傷つけられたのかもしれないけど、そこまで言われたのが許せなかったらしく、「私はひとりの人間としてあなたを許せません」と書いていなくなったんですよ。代表選手がいきなりいなくなるなんて問題じゃないですか。慌ててみんなで探して。

 

ユースの大会の前だったので、帯同している記者さんたちも探してくれて、結局はフランクフルトの空港で見つけたんです。その選手は空港まで行って、チケット代金は後払いで乗れないかって交渉していたらしいです。

 

遠征では他にもいろんな出来事がありましたね。アジアユースでバングラデシュに行ったとき、空港に着いたら、小さな子どもをこっちに見せながらお金を下さいというお母さんたちがいるし、ちょっと大きくなった子どもたちは自らの手を出してお金をくれという。なんでこういうところにこんな人たちがいるんだと。僕らは物乞いをする人たちなんか見たことなかったし聞いたこともなかったし。

 

アジアユースでは一つのホテルに各国の選手が泊まるんです。そうするとホテルの周りにも、物乞いの人たちが集まってくるんです。スタジアムは近くて、歩いて行くんですけど、そういう人たちの中を通っていかなければいけない。それもまた辛くて。

 

そのときに思ったんです。オレたちは苦しい練習をして厳しい合宿をやってるけれど、食事も出来るしお風呂も入れるし、サッカーもできる。だけどこういう国にはそういう人たちがいて大変な思いをしている人たちもたくさんいると。体力的にキツイだけだったらなんとかなるだろうって。

 

でもそう思っていても、やっぱり弱いから、口に出してしまうんですよ。つらいって。そういうのの繰り返しです。現実に戻ると自分も苦しいから逃げちゃう。はき出しちゃう。そういうのの繰り返しでした。ユースの2年半の合宿は。

 

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「態度が悪い」……大会の3カ月前に強制送還

ワールドユースは僕がちょうど大学生になった年の8月でした。だから春になったら僕は大学の寮から検見川に通ってました。あるとき僕はあまりにも練習がキツイので、「こんな練習、大変だ」ってブツブツいいながらやってたんです。態度悪かったと思います。文句ばっかり言ってて。ずっとチクチク言ってたんでしょうね。

 

それが監督の耳に入って呼ばれて。ちょうど大会の3カ月前ぐらいで、4月だったと思うんですけど。育夫さんに「お前、練習のときにこうこうで態度が悪い。ここにいる資格がない。帰れ」って。合宿中にですよ。この合宿が終わったら呼ばない、じゃなくて。途中で強制送還ですよ。

 

僕は今指導者になってわかるけども。途中で帰すと言うことは相当なことです。「コイツは使えない。チームにとって害になる」って。もしかしたら育夫さんは、「コイツならもう一回戻れる。戻ってくるぐらいのメンタルがある」と思ってくれてたかもしれない。たぶんいろんな思いとか、そういうのがあって、「コイツは帰しても大丈夫」という判断だったかもしれないです。

 

帰れって言われたら帰るしかないです。僕も「残してください」とも言わなかったです。「わかりました」って。

 

それで各部屋を回るんです。「オレは帰れって言われたんで帰ります」って。部屋をノックするとみんな寝てるんです。で、起き上がって「なに?」って。そこで「帰ることになったから」って言うと2つの顔があるんです。

 

「バカだなぁ、なんでここまで頑張ったのに。もうちょっと我慢してやってればよかったのに」という顔と、「いいなぁ」という顔と。ここから離れられるんだ、このキャンプから出られるんだって。そういう目を見ながら僕の中でも複雑な気持ちがあって。

 

大学に帰ったら4年生の吉田弘さんに、「お前、法政大学代表して行ってるのにどういうことだ!」って説教ですよ。それでちょっと気持ちを入れ替えて、大学の練習から取り組みました。

 

春のリーグには出られたし、頑張ったと思います。そうしたらその次のキャンプで呼ばれたんですよ。大学リーグ戦の観客席に育夫さんの顔はなかったので、たぶん誰かに行かせてみてたと思うんですけど、そこで頑張ったり結果を出してるところを見てもらってて。

 

そこからは必死ですよね。あと4カ月頑張れば、あのマラドーナと戦えるかもしれない、世界に出られるかもしれないという思いで必死になってやってました。あの「帰れ」って言われた経験は、今思うと、あれがあってよかったと思うし、あのときの周りのみんなの顔も忘れられないですね。

 

ただ、当時は人生の中で一番体重があったんですよ。筋トレの成果です。食事はそこそこでしたけど、そういう成果が出て、苦しい合宿を経て自分なりに大人になって世界と戦えた、結局、大会では一回も勝てなかったですけどね。

 

燃え尽きてしまった大学時代と挫折からの復活

初戦のスペイン戦に0-1で負け、次のアルジェリア戦では0-0の引き分け。最後のメキシコ戦も1-1の引き分けでした。でも、最後に点を取れた。ゴールして、アシストした田中真二と抱き合って、横を見たら全員いるんです。GKの鈴木康仁も反対のゴールまで来て喜んでくれた。

 

パッと見たら何人か泣いてるんですよ。試合中ですよ。2試合戦って1点も取れてなくて、何かを残さなければいけないという思いがあったから。もちろんグループリーグから上に行くというのもあったけど、その点を取ったことでみんなが報われたと思いました。結局はああいう舞台で戦わせてくれたことがその後に大きく影響していて、あのときのメンバーは今もほぼ現場にいますからね。

 

だから、あそこでやったことっていうのは絶対身になってるし、反骨心じゃないけど、苦しくなったときに「あれよりは大丈夫でしょ」みたいなのがあるんですよね。僕もそれはすごくあるから頑張れるんだなぁって思うし。

 

だけどワールドユースの後、僕は大学で燃え尽き症候群の寸前になりました。大学2年、3年は本当によくなかった。そのツケが4年生になって回ってきたんですよ。2年、3年でちゃんとやってなかった。そこそこ試合には出ていたし、まぁまぁ注目されていた。けど、自分の中で本気だったかというと、クエスチョンなんです。

 

それで3年のときに関東大学リーグ2部に落ちるんです。これは明らかにオレたちが悪い。4年生はいたけれど、中心は自分たちだったんです。

 

それまで小学校の大会も全国中学校サッカー大会も、全国高等学校サッカー選手権大会も優勝したし、ワールドユースにも出て、人が言うにエリートでした。でも大学4年生という学生時代の集大成で、しかも法政大学という強いチームで、一番華々しくやらなければいけないときが2部。

 

ワールドユースのチームメイトだった他の選手、ハシラとか越田剛史とか、田中真二とか、尾崎加寿夫さんも含め、日本代表に入っていくんですよ。でも僕は呼ばれもしない。みんな華々しく、関東大学リーグ1部でやってる。僕らは2部で、ときには芝じゃない大学の土のグランドでプレーしなきゃいけない。そのとき本当に悔しくて。

 

4年になったとき、「オレ、キャプテンやる」って立候補しました。それで目標を立てたんです。まずチームを1部に上げる。次は2部で優勝する。3つ目に全国の大会で優勝する。全日本大学サッカー選手権に2部のチームは出られないんですけど、総理大臣杯に優勝したら出られるんです。だから総理大臣杯に優勝する。

 

それで春からキャンプをやりました。それまであまり春のキャンプはなかったと思います。キャンプ中にはお寺に行って座禅を組んだりしました。実は座禅とかイヤだったんですけど。

 

それで結局、総理大臣杯は優勝しました。相手は松永成立がいた愛知学院大学でしたね。リーグ戦は優勝できなかったけど2位になって1部との入れ替え戦に出ることになりました。相手は森下申一がいる東京農業大学です。

 

ところが入れ替え戦の二週間ぐらい前に、僕は鼻を骨折するんです。練習中に他の選手の手が顔に当たって。程度は結構ひどくて、ガクンと落ちるくらい。それで病院に行って手術です。骨を上げて、その下にハンカチ大のガーゼを左右4枚ずつ入れても持ち上げるんです。

 

鼻はパンパンですよ。そのまま1週間固定です。鼻はうんともすんとも言わない。練習は出来ない。1週間経ってやっとガーゼが取れた。取れたから練習も少しやって。

 

自分はキャプテンだし、とにかく1部に上げなきゃいけない。それで試合に出ました。1-0で勝つんですけど、決勝点は自分のダイビングヘッドでした。ヘディング嫌いだし、鼻折ってるし、ボール来るだけで怖い。でも結局その試合で入れたのはダイビングヘッドです。

 

それって、その試合にかける思いとか、1年間の思いとか、大学生の4年間の思いとか。みんな日本代表に入って華々しくやってるのにオレここでやってた。けれど、絶対1部に上げるんだという思いが乗り移って。それで1部に上がることになって。そのときも泣きましたね。

 

一度自分がバーンアウトして、やっぱり落ちたときは本当に何か、上がろうという気持ちはあるけど、なかなかエネルギーが湧いてこなくて。でもそれに一回火がついたときは相当なパワーが出るんだなって。

 

よくなんかいろんな人が「飛び上がるためには一回しゃがんでジャンプだ」って言うけど、そのしゃがんでそこから上に行こうというのも、反動とか勢いがないといけないですよね。それを見つけるのが結構大変。でも、それで上がったときっていうのは、やっぱり……気持ちいいというか、なんか……達成感とも違う……まぁ僕だったらサッカーを続けてよかったなぁ、そのときにいた仲間と出会ってよかったなぁ、指導者と出会ってよかったなっていう感じでした。

 

いまになってわかる厳しい指導者たちの情熱と愛

育夫さんって、その後いろんなチームに行くじゃないですか。そして育夫さんが行ったチームは必ずよくなりましたからね。何年か後に、育夫さんと僕と(風間)八宏、都並(敏史)で話をしててワールドユースの話になったとき、育夫さんが僕たちに謝ったんですよ。「あのころは何も知らなかった」って。

 

あの当時は情報を集めるのも大変だったと思いますよ。マラドーナを初めて見たときは忘れられないですね。ディアスもいましたね。その選手と一緒のチームでやるとも思わなかったし。それもすごいなって。

 

それこそ、今ではワールドカップは出場が当たり前、下のカテゴリーも世界大会に出て当たり前という感じですけど、1979年ワールドユースは、日本でFIFAという冠が付くという最初の大会ですからね。

 

そういう大会に自分が出られた、自分を使ってくれた。しかも合宿中にいろんな体験をさせてくれた。合宿途中で帰すなんて、監督が普通はそういう決断をしないと思うけれど、僕を見ていたからやってくれたと今はわかります。その厳しさは浦和南高校時代の松本暁司先生にも言えるんですよ。

 

実は中学時代にもう松本先生から怒られましたからね。中学生の大会で、試合後に先生から寸評をもらったときにボロカス言われました。PKで勝って優勝したんですけど、「埼玉の代表がこんな試合でなんだ」って。僕はこの先生の高校には行きたくないと思ってたら、その冬の高校選手権で田嶋幸三さんが活躍して浦和南高が優勝して、それで「オレはここだ」って。あの先生だけど、あの高校にオレは行かなきゃって。

 

1年生からレギュラーになれて、3年生ではキャプテンで。その3年生のときに忘れられないことがあるんですよ。何かの大会で強豪チームが集まっていたとき、ピッチの横でボコボコに怒られました。見せしめみたいな感じで。

 

だけど、きっとあれは「お前がそういうことやったら周りに示しが付かない」「注目されている浦和南高校の中心選手がこれでいいのか」っていう気持ちだったんだと思います。たくさんの選手が集まっている中で説教されて。そのときは悔しいし、なんでオレばっかりとも思うし、でもそういうことは後々響いてくると思いますね。サッカーの中ではね。

 

挫けようと思ったら挫けられるんですよ。でも周りが挫けさせてくれないんです。自分だけの力じゃないんです。大学のときは吉田さんに言われなかったら気づかなかったし、高校時代も監督からひどく怒られて気づくこともあったし。

 

ただ、僕に怒ってきた人はみんな人間としての魅力があったんですよ。怒るだけの人じゃなかったですからね。表面は怖いけど、中に通っているのは「血」や「熱」だから。

 

1976年から1978年、僕の高校時代に松本監督から言われたのは、「ワンタッチと予測」ですよ。すごくないですか? その当時ですよ。ワンタッチって考えてボールを置けってことですよ。それをずっと言われてた。パッと見たとき、相手の状況とかどっちにボールが来るかとかその予測をして。ワンタッチで出せば相手は必ずビックリするとか。そういうところに通せって。それをずっと言われてました。

 

そう言えば高校2年のとき、検見川に大学生の選抜チームがよく来てたので、そこに先生が話をしてくれて、練習生扱いで入れてもらってたりしていました。そのとき山野孝義さんとか長谷川治久さんとか、大阪商業大学の人たちの関西弁が面白くて。お茶を飲みに連れて行ってもらったりとかしてて、そういう経験もさせてもらったし。それも松本先生のおかげですね。

 

僕も指導者になってわかるけど、怒りたくなることはすごくあるんです。この選手たちを何とかしなきゃと思うから。その口調がたまにキツくなるときもある。論理的な話をしないとわからないけど、論理的じゃないときがあるのもサッカーだし、サッカーには理不尽なことありますから。

 

そういうのを昔の人たちは厳しく教えてくれてましたね。あれは本当の「愛」だったし、情熱だったんだと思いますね。なんであそこまで頑張れる指導者だったんだろうって。プライベートまで削って。家族を犠牲にしながら。

 

解説者の仕事を片手間でやるヤツは許せない

今はテレビやラジオで解説をしていますが、解説者の仕事を片手間でやるヤツは許せないんです。テレビ局の人にしてみたら、現場を上がったばっかりで、少しの間だけでもいいので現場の経験を生かして話してください、と思うんでしょう。けれど、「次の監督の仕事が決まるまで、つなぎとしてちょっと食べさせて」という考えで解説者をやるのはイヤなんです。

 

現場のために解説者をやるんじゃなくて、解説者を一生懸命やってて、それで現場の仕事が来たら受ければいい。僕はそう思って、現役を辞めてからテレビの仕事を10年やりました。10年の区切りで現場に戻ったのは、ある程度テレビでサッカーの話をする、解説者という職業のステイタスを築けたと思ったからです。

 

僕がテレビの仕事を始めたころは履歴書に「サッカー解説者」って書けなかったですからね。野球評論家は通用したけれど、サッカー解説者って「なんですか?」って。今はもう名刺にも書けますよ。それができたから、次を考えようかなって。

 

テレビの人たちに僕が言ってたのは、「あんまり知ったかぶりしないほうがいいよ」って。突っ込まれたら損するから。知らないことは知らないと言ったほうがいいんです。僕も知らないことは知らないって言いますから。加藤浩次はちゃんと選手をリスペクトしてましたね。やっぱり代表はすごいってわかってますから。

 

最初にラジオの仕事をやり出したころは、ラジオでサッカーはわからないだろうって思ってました。どうイメージしてもらうか試行錯誤です。どっちからどっちに攻めてると言ってイメージしてもらうところからでしたよ。5分ごとにスコアも言うようにしましたし。

 

テレビの仕事で考えたのは、しゃべらない時間を作ることでしたね。ゴール前は実況が大事で、そこに解説はいらない。だから僕は興奮するけど、しゃべらないように心掛けていました。

 

ただ、最近はわざと声を入れて、すごいという部分を伝えなければいけないと思ってます。それに近頃はインターネットの配信なのでマニアじゃない層も見てると思うので、そんな人にわかることも意識しています。

 

 

「熱」を伝えてくれる料理人のところで食べたい

ユースのときのときの食事の話をしましょうか。合宿所の検見川の食事で、温かいのはご飯と味噌汁とお茶でした。おかずは冷たいんですよ。出来上がっているものだから。今考えると、検見川の食事を作ってくれた人も、きっと温かいものを出したいけれど、作る食事の量がものすごくて、でもせめて、ご飯は炊きたてで味噌汁とお茶は温かいものを出そうと思ってくださったのでしょうね。

 

ユースの海外遠征で強烈に印象に残ってるのはピクルスです。僕たちの遠征は共産圏が多かったので、ハンガリー。ポーランド、ルーマニアとか。当時の共産圏のご飯はあまりおいしくなくて、その中でインパクトがあったのはピクルスなんです。今のハンバーガーに入っているようなヤツじゃなくて、ナスみたいな。その大きさが忘れられない(笑)。

 

一番おいしかったのはドイツで食べたフランクフルトでした。当時は強いチームと対戦してもらえないので、合宿中に町のアマチュアチームと試合をしたりするんですよ。そうすると試合後に歓迎パーティーみたいなのを開いてもらって、そこで出てきたソーセージが本当においしかった。あとはスタジアムの横にある小さな出店みたいなので焼いているフランクフルトも。ヨーロッパの試合の解説で現地に行ったとき、経由地のドイツで食べたフランクフルトもおいしかったですね。

 

今一番好きなのは回転寿司の「もりもり寿し たまプラーザ店」なんですよ。おいしいし。あとは焼き鳥屋さんにはこだわるかな。焼き加減が大事だと思って。カリッと焼く物、皮とか軟骨系はカリッとしてないとだめですね。通の人は「火入れ」と言うみたいです。

 

お勧めは目黒の「よし鳥」ですね。目黒は焼き鳥の激戦区ですよ。有名なところが多くて、しかも高い。でも「よし鳥」はそんなに高くないんです。ただいつも満員。

 

あとは人に連れて行ってもらったところで、世界的なレストランの「NOBU」というところですね。ホテルオークラの近くですね。ドルトムントが来日したときには、試合後にそこでパーティーをやったらしいですよ。外国のVIPが来るとだいたいそこに行くそうです。

 

世界でいろんなところに行きましたけど、やっぱり日本の食事が一番おいしい。外国の料理を日本流にちょっとアレンジされているのも、それもまたおいしいですね。料理を作る人も大事なのは、その人の「血」と「熱」じゃないですか。うまいものを作ろう、その人のためにって。小さな店だったら1対1かもしれないし、大きなレストランだったら1対100かもしれない。けれど、その相手が何人でも「熱」を伝えてくれる人のところで食べたいですね。

 

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水沼貴史 プロフィール

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浦和南高校、法政大学を経て1983年に日産自動車へ入団。1984年からは日本代表としても活躍し、1995年に現役引退

引退後は解説者として多数のテレビ番組に出演。指導者としても横浜Fマリノスの監督、コーチなど、法政大学コーチなどを経験した。

1960年生まれ、埼玉県出身。

 

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。

 

 

 

 

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