【大仁田厚ヒストリー〈24〉】「真鍋アナがいたから新日本でやっていけた」
1999年1月4日。41歳の大仁田厚は、新日本プロレスの東京ドーム大会でついに新日本初参戦を果たした。ターゲットは引退していた長州力。ただ、わずか1年前に華々しい引退試合を行った革命戦士を再びリングに引っ張り出すには時間が必要だった。
「長州力は、復帰するつもりはなかった。ただ、リングへの色気はあったと思う。不思議なもんでリングって麻薬なんだよね」
大仁田にとって重要だったのは、長州との戦いへの機運を盛り上げていくことだった。ただ、時間がかかることも覚悟していた。ファンの興味をキープし新日本と長州本人に対戦を認めさせるまで穴を埋める何かが必要だった。
「オレがアピールしても長州は一切、しゃべらないわけなんだよね。これは長くかかるなって思った。その時に真鍋が現れたんだよ」
真鍋とは、テレビ朝日の真鍋由アナウンサー。当時、「ワールドプロレスリング」の実況を担当し、大仁田のインタビューを行うことになる。最初のインタビューで蹴りを食らわせ、真鍋アナはイスから転倒。さらにビンタを張る暴走行為を大仁田は仕掛けた。
「これにテレ朝のアナウンス部長が激怒してね。ワールドプロレスリングのスタッフに“やめさせろ”って猛抗議してきた。ところが、この週の視聴率が上がったんだよ。そしたら、もう何も言わなくなったんだよ」
ここから大仁田と真鍋の「大仁田劇場」が番組の目玉になっていく。絶叫する大仁田の問いに誠実かつ真剣に応える真鍋アナ。やりたい放題の邪道と実直真面目を絵に描いたようなアナウンサーという正反対のキャラクターが奏でる言葉のキャッチボールは、番組の目玉となっていく。大仁田が口から水を吹く聖水パフォーマンスを顔面で浴び、「お前もやってみろ」と促され、まったく吹くことのできない真鍋アナに「下手くそよのぉ」とたしなめれば、グレート・ニタが復活した大阪・南港からのロケでは、「真鍋! お前はグレート・ニタが見たいか!」と絶叫する大仁田に「見たいです」と応じるなど、時にはコントのように時にはスポ根ドラマのような展開に最初は冷ややかだったファンは、回を重ねるごとに引き込まれていった。
「真鍋とのやり取りをやらせとか言われたけど、一切、打ち合わせなんかなかった。すべてアドリブだった。あいつとは、食事にも行ったことなかったし、会場で会う以外にしゃべったこともなかった。そうやって親しくならなかったことが逆にあれだけの受け答えができたんだと思う。あいつが何を聞いてくるのかはまったく分からないから、オレも真剣。あいつもオレが何を言い出すか分からなかったから、一生懸命に答えていた」
番組スタッフは、新日本以外の試合にも真鍋アナを送り出し大仁田を追いかけた。そこで、大仁田はファンに向けて長州戦を訴え続け、ストーリーがつながっていった。
「真鍋という存在がなかったら長州戦までたどり着かなかった。オレは真鍋に助けられた。真鍋がいたから、オレは新日本でやっていけた。今は、真鍋に感謝したい」
真鍋との「大仁田劇場」という副産物を産み出した大仁田は、佐々木健介戦に続く新日本参戦が決まった。4月10日、舞台は再び東京ドーム。相手は、黒のカリスマとして人気絶頂だった蝶野正洋だった。試合は、有刺鉄線電流爆破デスマッチ。大仁田の専売特許をメジャー団体が認めたのだ。
「蝶野とは面白かった。あいつは入場でハマーに乗って入ってきた。それが蝶野流だった。対するオレは相変わらずのくわえたばこ。リッチな蝶野とチープなオレという対比は、そのままメジャー対インディーという明確な構図になった。その対比が良かった」
電流爆破で行われた試合は、第0試合という設定で組まれた。通常の試合とは、区別することでデスマッチに嫌悪感を示す一部の新日本ファンへ配慮した結果だった。ただ、メジャー団体をそこまで動かすほど、当時の新日本にとって大仁田は必要だった。
「あの頃の新日本の観客動員力はすごかった。他がすごいって言ってもせいぜい1万人程度。新日本は6万人入れていたからね。あの蝶野戦は、オレ1人で5万人入れたっていう自負はあるよ」
発表された観衆は6万3500人。確かに大会前の話題は、電流爆破の実現。禁煙のドームでの喫煙論争など、大仁田対蝶野戦で一色だった。観客動員に邪道が貢献したことは明らかだった。注目の第0試合。リングに上がると不満を覚えた。
「蝶野が防弾チョッキみたいなのを着てきたのは情けなかったね。有刺鉄線電流爆破で体に傷が付くのが嫌だったんだろうね。オレは何でも徹底的にやる方だったから、あれで興ざめした。蝶野に意地を感じなかった」
体を張ったデスマッチで1000針を越える傷を全身に刻んだ男にとって、上半身を覆ったいつもと違うコスチュームで試合をした黒のカリスマに違和感を覚えた。試合は、16分10秒、両者KOで幕を閉じた。
「蝶野戦もオレにとっては長州戦へのプロセスでしかなかった。将棋の駒のように長州という王将をどうやって詰めていくか。その一点だけに絞っていた」
新日本のビッグイベントに欠かせない戦力となった大仁田。この間に大きな別れがあった。師匠・ジャイアント馬場の死だった。(敬称略)