今日は絵コンテが進んだ。
ようやく佐智や祐介達が自分の中に入ってきたようだ。
10月は「革命」で身も心も削られたよ・・・。

そして何より、「線」を探すことができた。
しかしこれは指示するのが大変だろう、たぶん僕がスーパーアニメーターだったとしても、他のアニメーターにこの通りと言えるものを上げさせるのは無理だろう。
そんな絵を描いていた。

上手い下手というのではなく、パターンに嵌らない絵だ。
思えば僕は、『薄暮』を通して、そういう絵をひたすら探している気がする。


アニメーターは一流であろうが三流であろうが、自分の描きやすい「パターン」を持っている。
描きやすいポーズ、描きやすい顔の角度、描きやすいアングル・・・。
趣味でもいいから絵を描いている人は、大いに思い当たることだろう。


何を隠そう、あの宮﨑御大も、一時期「パターン」に嵌っていた。
当時のファンは「宮崎走り」だとか「宮崎俯瞰」だとか「宮﨑顔」だとか、そんな風に(もちろん敬意を込めて)呼んでいたものだ。

それをかなぐり捨て始めたのが、恐らく『もののけ姫』の頃だったように思う。
彼はやにわに自分の「パターン」を捨て、未知の「線」を探し求める旅に出たのだ。

それがメイキングにもはっきり示されている。
有名な「あ、転んだ!」のカットだ。

あれはもう、絵をイメージして絵に落とし込んでいるというよりは、めくらめっぽうに線を引き、そこから直感的に「これだ!」と思える、感じられる「何か」を探している作業だったように思う。

フォルムなどもはや関係ない、「線」が動くのだ。
僕はそのわずか2年後、師匠の手の動きを見てそのままを目の当たりにする。
あれは戦慄が走った・・・。


「自分の描きやすいように描いてるんだよ!」
宮﨑御大がアニメーターにそう怒鳴りつける映像を、いくつか覚えている。
そういった「パターン」に嵌らない、自分の魂の深奥にある「イメージ」を手繰り寄せようともがき始めるようになってから、御大の仕事のスピードは急激に落ち始める。
しかしその代わり、僕らが観たことのない、新鮮で強烈な、瑞々しい「イメージ」が、奔流のように湧き出してきたのだ。
その後の宮﨑御大の活躍ぶりは言うまでもない。


僕はそのほんの真似事にすぎないが、そういう「線」を、自分のみすぼらしい絵でも、探すよう努力している。
特に『薄暮』は。

でも結局、アニメーターが自分のパターンに適当に乗せてきて、「ちーがーうーだろぉーーー!!!」と苛立つんだろうな・・・。