『論 ―― 日蓮仏法の視点から 第18回 言葉の力
総埼玉男子部教学部長 飯室 真
「友人と心通う対話ができました!」 「職場で実証を示しました!」 ――男子部の同志から歓喜の活動報告がSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の無料通信アプリ「LINE(ライン)」で届くと、思わず笑顔になる。今や最も利便性の高いコミュニケーションツールとなったSNS。だが一方で、その手軽さゆえのトラブルが後を絶たない。情報技術が発達し、コミュニケーションの取り方が多様化する現代。メディアを通さなくても自分の声を世界中に発信できる時代になったからこそ、改めて問われる「言葉の力」について考察したい。
SNSの利用者が増加
総務省が発表した平成29年版「情報通信白書」によると、携帯電話の普及率は国民の9割以上に達している。中でもスマートフォンの保有世帯率は、71.8%に及ぶ。個人保有率では20代が94.2%と最も高く、次いで30代の90.4%、13歳以上の10代で81.4%となっている。
スマートフォンの普及に伴い、コミュニケーションの方法も変わってきた。10、20代のスマートフォンによるインターネットの利用時間は、1日当たり2時間を超え、内訳で最も長いのはSNSの利用だ。30、40代でも、SNSが幅広く定着している。
SNSは、不特定多数の人に自分の考えや思いを伝えることができ、新たな交流の場として利用されている。一人の声が拡散され、ニュース等で話題になることもあるなど、社会に影響を与える力をもっている。
自分の言葉が多くの人に伝わるようになったからこそ、発信者に批判が集中する「炎上」と言われる騒動も多発している。
「炎上」に至る経緯は、さまざまある。発信者が意図的に「炎上」させている場合もあるが、「そんなつもりはなかった」という不本意なケースも多い。言葉に込められた感情や真意がうまく伝わらず、誤解や悪意をもって捉えられてしまうことがあるのだ。
一方で、重い病や障がいがありながら、負けずに強く生きる方々がSNSなどにつづる言葉に、多くの人が勇気付けられているという事実もある。
言葉は「励ましの力」になることもあれば、他人を傷つける「暴力」になることもある。だからこそ、その力の意味を正しく理解する必要があるのではないだろうか。
根本は相手を思う一念
中国の国語大師・季羨林(きせんりん)博士は、池田先生との対話の中で、釈尊は教義を明らかにしようとする弟子たちに、一般大衆の言葉で語ることを促し、エリートの言葉であるサンスクリット語を使うことに猛反対していたと強調した(『東洋の智慧を語る』 東洋哲学研究所)。その釈尊の姿勢からは、「民衆に分かりやすく伝わるように」との慈悲が感じられてならない。
日蓮大聖人は、「言(ことば)と云(い)うは心の思いを響かして声を顕(あらわ)すを云うなり」(御書563㌻)と述べられている。自身の「心の思い」を響かせてこそ、相手に届く言葉になるとの教えである。またある時は「仮令(たとい)強言(ごうげん)なれども人をたすくれば実語(じつご)・輭語(なんご)なるべし、設(たと)ひ輭語なれども人を損ずるは妄語・強言なり」(同890㌻)とも仰せだ。
言い方ではない。相手を思う一念から発する言葉が、真実の言葉として伝わっていく。どんなに優しく、丁寧でも、相手を害するのであれば、偽りの言葉である、と言い切られている。
御書をひもとけば、弟子を思う言葉が数多くちりばめられている。例えば、四条金吾には、さまざまな場面で事細(ことこま)かく指導されている。苦境にあった際には、主君(しゅくん)への振る舞い方から、夜の酒宴などの断り方まで、具体的に注意された。
主君からの信頼を回復し、勝利の実証を示した後には、「敵というものはその存在を忘れさせて狙うものである」(同1185㌻)等と、金吾に一層の用心を促された。それにより、金吾は無事に危機を乗り切ることができたのである。
さらに金吾は、一本気な性格で、短気な一面もあった。大聖人はそれを深く心配され、故事を通しながら “短気であってはいけない” と、繰り返し戒められている。
また、大聖人は「竜の口の法難」で殉教の覚悟でお供をした金吾の姿勢を後に述懐され、「もし、あなたの罪が深くて地獄に入ってしまわれるようなことがあれば、この日蓮に対して釈迦仏が『仏になりなさい』と、どれほど導こうとされようとも、私は従うことはありません。あなたと同じく地獄へ入るでしょう」(同1173㌻、通解)とまでつづられている。
鎌倉の女性門下の妙一尼(みょういちあま)は、所領を没収されても夫と共に信仰を貫いた。その後、夫は亡くなり、病弱の子どもを抱え、けなげに信心に励む妙一尼に対し、大聖人は次のような御書を送られている。
「法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる、いまだ昔よりきかず・みず冬の秋とかへれる事を、いまだきかず法華経を信ずる人の凡夫となる事を」(同1253㌻)
試練という冬を乗り越えれば、必ず春の喜びがあると断言された、有名な一節である。そして「ご主人は必ず、見守ってくださっているのです。それも、きっと近くにいらっしゃっているはずです」(同1254㌻、通解)と、包み込むように激励を重ねられている。
大聖人の限りない大慈悲は、時を超えて、私たちの胸に深くに迫ってくる。
広宣流布のために
悩みに立ち向かう友に、どのような言葉を掛けたらいいか――。学会活動に励む中で、誰もが真剣に向き合う課題である。
先日入会したメンバーが語っていた。
「私は幾つもの病気があり、仕事も家庭もうまくいかず、生きる気力を失っていました。そんな時に、友人が何度も励ましてくれたんです。彼の “信心で幸せになろう” との言葉を信じて入会を決めました。今の自分があるのは彼のおかげです」と。
「友人」とは、埼玉の男子部部長である。3年にわたり、自宅から車で1時間半かかる友の自宅まで通い続けた。家に行っても会えなかった時は、手紙などを置いて帰った。その誠実な振る舞いと、相手を思う言葉が、友人の心に届いたのである。
だが、この部長にも、かつては将来に希望を見いだせない苦悩の時期があったという。そんな中、励まし続けてくれた男子部の先輩がいた。
「たとえ今、どんな苦境にあろうとも、『広宣流布のために』本気で立ち上がった人を、諸天が守らないわけがない」との先生の指導を通して、先輩は絶対の確信を伝えてくれた。
自分に全力でぶつかってくれた先輩の熱意に触れ、信心で乗り越えようと決意。やがて悩みを克服し、今では多くのメンバーを支える広布のリーダーへと成長した。
「真心は必ず届く」と確信しているからこそ、人を励ますことができる。
15歳の時から、国指定の難病「レーベル遺伝性視神経症いでんせいししんけいしょう(レーベル病)」と闘う男子部部長がいる。視力が低下し、視野の中心が欠けているような状態での生活を余儀なくされている。兄も同じ病気を患っており、発症直後は “兄と同じ苦労をするのか” と思うと、涙が止まらなかったという。
調理師になる夢を諦め、専門学校を中退。自暴自棄になり、絶望の淵に沈んだ。そんな彼を救ったのもまた、何度も激励に来てくれた男子部の同志の言葉だった。
「信心で絶対に乗り越えられる。一緒に頑張ろう!」との力強い一言に、一歩を踏み出す勇気を得た。その後、盲(もう)学校に通い、勉強に挑戦。牙城会大学校へ入会し、同じ視覚障がいのある友人2人へ弘教を実らせることができた。
これまで9人を入会に導いた彼は、あん摩マッサージ指圧師の免許を取得し、現在、訪問マッサージや疾患のある方へのリハビリをサポートしている。
私自身も「言葉」によって勇気や希望を得た経験が、数多くある。
「私も先頭を切って戦います。1人、戦います。本当の弟子はついてきていただきたい」
本部幹部会の席上、真剣なまなざしで語る池田先生の峻厳な一言は、広布に生き抜こうと誓った原点になった。
しかし、決意のままに折伏に挑むも、なかなか結果に結びつかない。だんだん弱気になっていく私を変えたのもまた、「本気で戦う腹が決まっているのか」との先輩の厳しくも温かい言葉だった。そこから一念を改めて祈り抜き、初めて弘教を果たした時の喜びは忘れられない。
「励まされる側」から「励ます側」へ――この過程には、必ず自分を変える存在があり、「言葉」がある。その励ましの連鎖によって、SGIは世界192カ国・地域に広がっているのだ。
希望を届ける対話を
池田先生はつづっている。「人間の魂から迸(ほとばし)り出る言葉には、偉大な力がある。我らの生命を鼓舞する勇気があり、希望がある。正義の信念があり、邪悪への憤怒(ふんぬ)がある。ともあれ、人間は言葉なしに生きられない。『言葉の力』を信ずることは『人間性の力』を信ずることである」と。
私は聖教新聞社に勤務し、書籍販売に携わっている。先生の著作をはじめ、学会による「言葉の力」を育む運動が着実に社会に浸透している様子を目の当たりにしてきた。
毎日新聞社が1947年に開始した「読書世論調査」。一昨年の調査で「自分の生き方に影響を与えた本は何か」という問いに約400タイトルが答えられ、その中で池田先生の小説『人間革命』が第2位となった。他にも『青春対話』 『詩集 青年の譜』 などが選ばれている。先生が紡(つむ)ぐ「言葉の力」は多くの人の胸を打ち、苦境と戦う人を鼓舞してきた。
直接会っての対話から、手紙や電話、メールにSNSなど、言葉の届け方は時代とともに多様化してきた。しかし、伝えるのが人間であることは変わらない。
インターネット社会が進み、玉石混交(ぎょくせきこんこう)の情報が飛び交う時代だからこそ、我らは「希望の言葉」を紡ぎたい。
日々の仏道修行を根本に、御書や池田先生の指導をわが生命に刻みながら、どこまでも「心の思い」を響かせる対話に挑みゆく決意だ』
(2017年10月4日付 『創価新報』)より
『今や最も利便性の高いコミュニケーションツールとなったSNS。だが一方で、その手軽さゆえのトラブルが後を絶たない。情報技術が発達し、コミュニケーションの取り方が多様化する現代』・・・云々。
私自身のことしか分かりませんが、コミュニケーションツールの情報技術が発達して、手軽にコミュニケーションが取れるようになったけれど、結局は、それを使う側のコミュニケーション能力や技術がなければ、いくらコミュニケーションの取り方の選択肢が増えたところで、他者との良好な関係は築けないのではないのかな、と感じています。
なので、私は、せっかくのコミュニケーションツールを手にしても、人との関りは苦手で、今でも、うまく関係を築くことができません。
『「炎上」に至る経緯は、さまざまある。発信者が意図的に「炎上」させている場合もあるが、「そんなつもりはなかった」という不本意なケースも多い。言葉に込められた感情や真意がうまく伝わらず、誤解や悪意をもって捉えられてしまうことがあるのだ』
私も、無い知恵を絞りに絞って言葉を選んでいますが、それでも、育ってきた環境や性格で言葉の表現や選択も違うだろうし、なにかしら縁に触れることで言葉の表現に顕れてしまうこともありますし、疲れていたり体調が悪くても表現に出てしまうと思います。
私の場合は、もともとが、口下手で、文章を起こすことなど、とても苦手で下手くそなので、意味不明であったり、的外れなことにならないようにいつも気にしています。
的外れは、いつもかもしれないけど(汗)
これを機に、今一度気を引き締めて十分に注意をはらって投稿していきたいと思いますが、誤解や悪意をもって捉えられるというのは、誤解はともかくとしても、悪意はつらいですね。
逆に、私自身が取り違えてしまった経験もありますので、気をつけたいと思います。
『言葉は「励ましの力」になることもあれば、他人を傷つける「暴力」になることもある』
やっぱり、本気で苦労に向き合って戦ってきた人の魂から発せられる言葉は、どこか違います。なので、私のようなハンパ者には、なかなか「励ましの力」になるまでの思いやりからの言葉は難しいかなとかって思いますし、思いつかないですが、私が苦境にどっぷりハマり込んでもがいていた時、同志の先輩たちが私にして下さったことを手本に、お芝居ではないから練習の場はないけど、本番こそが道場と、上手く伝えることが出来なくても、失敗を恐れず、相手に込めた思いを伝える勇気を実践で養いながら、学びながらいきたいと思います。
先輩たちは、本当によく話を聞いてくれてたし、今も、先輩のような励まし方ができないのは、正直もどかしいし情けなく思っています。
やっぱり現場で、また、実生活で実際に実践していないと、あってはいけないけど、変な話、表面さえも装うことはできないのではないかと思います。誤魔化せないというか。
そして私は、過去にも何度かしくじっていますが、『人を傷つける「暴力」』になる言葉は絶対に綴らないと、改めて強く決めている。
SNSの世界のみならず、この世から、どうやったら言葉の「暴力」が無くせるのか。そういうことは分かりませんが、まず自分がやらない! と決めて、それを一生涯貫くことで、世界から1人は、そういう人が減るわけだし、また、親しい人にも促していけば、少なくともそれを実践してくれた人の数だけ減らしていけると思う。私の親しい人には、言葉の「暴力」をする人はいないと思いますけど、そういう運動も無駄ではないと思います。
それぐらいの事しか、今の私には思いつかないし、行動もできないけれど。
『釈尊は教義を明らかにしようとする弟子たちに、一般大衆の言葉で語ることを促し、エリートの言葉であるサンスクリット語を使うことに猛反対していた』
たしか、大聖人も、庶民のために仮名交じりのお手紙を送られています。また、立正安国論では、難解な論文は、なかなか多くの人々に読んでもらえないということから、対談形式で書かれたり、皆に分かりやすいように工夫されていると伺いました。
民衆を思う慈悲からの智慧が、このようにして後世に受け継がれていく、しかも、リーダーとなっても怠ることなく護り抜かれているところに、「一人を大切に」「心こそ大切」ということをあらためて考えさせられました。
一人でも多くの人を救いたいのだから、自分の置かれた立場や身分に関係なく、心を砕いて尽くしていくことが大切なんだとのお手本を示してくださっているようにも思いました。
『「仮令(たとい)強言(ごうげん)なれども人をたすくれば実語(じつご)・輭語(なんご)なるべし、設(たと)ひ輭語なれども人を損ずるは妄語・強言なり」(同890㌻)とも仰せだ。
言い方ではない。相手を思う一念から発する言葉が、真実の言葉として伝わっていく。どんなに優しく、丁寧でも、相手を害するのであれば、偽りの言葉である、と言い切られている』
この御文は、私自身が、まだまだ信心に対して、もしくは、自分が変わることに対しての覚悟ができていない甘えからでしょうか――。なかなか好きになれない御文です(苦笑)。
もちろん、大聖人の言わんとする所は理解できますし、好き嫌いではありませんので、その通り受け止めて歯を食いしばって実践に励んでいます。
「なんかその言い方、カチンとくるんだけどね!」なんてことも実際にあります。そうなると、なかなか素直には受け入れられなくなってしまいます。
言ってくださっている方の気持ちだって痛いほど分かりますので、自分でもなんとか早く納得がしたいのですが・・・。
挙句、「お題目をあげて考えろ!」と、突き放されようとも頑なになってしまいます。
そんな悔しい思いをしながらですが、素直になろう。一刻も早く「信・行・学」を、そしてこの人生を、楽しくて楽しくて仕方なくなるような境涯になりたいと、日々、悶々としながらも挑戦中です。
変わってしまえば楽なんだろうけど、やはり、はじめの一歩への躊躇や甘えでしょうか、それとも、「魔」でしょうか、いや、躊躇や甘え、それ自体がすでに「魔」なのでしょうね。
こんな私だからか、折伏も一向に実らないのかもしれません。
そう。情に流されやすいからです。
これは、決して、人に対してのやさしさや思いやりの気持ちからではないんです。もう一層深く、心を観て見ると、それは、「私」に情けを掛けてくれなかったことに対する欲求を、折伏する相手にうつして、勝手に同情してしまっているのです。要するに、「自分にやさしく」しているんですね。
これは、私が反対に魔に破られてしまっている姿ですね。
『「設(たと)ひ輭語(なんご)なれども人を損ずるは妄語・強言なり」』
を否定する心は、こういうところにも顕れてくるのだと思いました。
正法に導く事も出来ず、相手を救えないばかりか、同情して私自身が引きずられているのですから・・・。残念過ぎますね。
だから怖いんですね、変な優しさは、負の連鎖にもなりかねないと思いました。
「慈悲魔」なんていうのを聞いたことがありますが、こういうことを言うのかな。
『「人間の魂から迸(ほとばし)り出る言葉には、偉大な力がある。我らの生命を鼓舞する勇気があり、希望がある。正義の信念があり、邪悪への憤怒(ふんぬ)がある。ともあれ、人間は言葉なしに生きられない。『言葉の力』を信ずることは『人間性の力』を信ずることである」』
『人間の魂から迸り出る言葉』とは、正義であり勇気であり真剣であり真心であり思いやり真の優しさ等であろう。それが総じて慈悲となるのだと思います。それは、もし仮に、私自身が、他者を信じないで、他者に私を信じてもらおうというのであれば、それは虫が良すぎる「無理な話」であるし、そこには「誠実」もありませんね。『人間の魂から迸り出る言葉』とはかけ離れています。
そういう態度では、とうてい『人間の魂から迸り出る言葉』とは無縁であり、かえって無責任と言われても仕方がなくなってしまう。
『生命を鼓舞する勇気、希望、正義の信念、邪悪への憤怒(ふんぬ)』ある言葉というのは、どこまでも相手を信じ、真剣に思うことに源があるのだと思いました。。
『直接会っての対話から、手紙や電話、メールにSNSなど、言葉の届け方は時代とともに多様化してきた。しかし、伝えるのが人間であることは変わらない。
インターネット社会が進み、玉石混交(ぎょくせきこんこう)の情報が飛び交う時代だからこそ、我らは「希望の言葉」を紡ぎたい』
※ 玉石混交【ぎょくせきこんこう】 ・・・ “価値のあるものと価値のないものが入り混じっていること”
(出典元、Weblio辞典 URL http://www.weblio.jp/)
インターネットは、あくまでもツールですので、上手に使っていきたいと思います。
『伝えるのが人間であることは変わらない』とあるように、人間であるという事は、その源は、それを使う人の「心」にあるという事です。
『「言(ことば)と云(い)うは心の思いを響かして声を顕(あらわ)すを云うなり」(御書563㌻)』
と、大聖人も断言されています。
「インターネット」にしても「言葉」にしても、伝える(使う)人の「心」で決まる、ということです。
「人を思いやる『励まし』の心」 なのか 「人を傷つける『暴力』の心」なのか――。
そして、私自身、伝え方が上手いか下手かといえば、「下手」(ここは躊躇なく)ですが、どうやら、上手い下手ではないと、この度のご教示でしたので、とにかく、精一杯に信心に生きて、その中で感じたこと、学んだこと、培ったこと。変わったことや変われたこと等の体験を綴っていきたい、と同時に、短期決戦の法戦只中。未入会の両親や弟をはじめ、友人知人に、日本の未来の安定、平和、幸福のために、「心の思い」を響かせて「希望の言葉」を語り、理解を勝ち取れるように頑張って参りたいと思います。
池田先生の一言――。
『私も先頭を切って戦います。
1人、戦います。
本当の弟子はついてきていただきたい』
はい!
本当の弟子、本物の弟子となれるよう、頑張ってついていきます。
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Re:無題
今週は夜勤のため、リコメが遅くなりました。申し訳ありません。
改めまして、おはようございます。
私のブログに何かしら、ヒントにでもなる事があったのですか。お役に立てて光栄です。
文章を上手にまとめる能力がないので、思ったことをダラダラと書き出しているだけなので、なんか、申し訳ないです(汗)。
こちらこそ、よろしくお願いします。
ハピネス
2017-10-17 09:01:15
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