Q16: 明治の頭で和人の人口がアイヌ民族より多かったのはなぜ?

小野寺氏の発言

便宜上、和人というふうに言いますが、つまり、その時期で既に、アイヌの方たちよりも圧倒的に和人の人数が多かったというのはどういうことなのだろうかなと。多分、それ以前も多かったのだろうと私は推測するわけであります。(2014/11/11 北海道議会)

小野寺氏の補足ツイート

『幕末蝦夷地の絵図にみる地域情報の把握』

結局,幕府が建網操業を許可した目的は,その担い手である出稼ぎ漁民を保護することにあったと思われる。西蝦夷地への出稼漁は,最初は主に松前地の漁民が中心である。従来は前浜において漁業を行っていた漁民達が,西蝦夷地へ進出していくのは享保4 (1719)年以降である。藩は,享保4年に熊石村以北,セタナイまで出稼漁を許可した。続いて,享保7 (1722) 年にはヲタスツまで,天保11(1840) 年にはハママシケ以北まで許可される。以後,出稼漁は年々活発になっていく。また,松前藩領の漁民だけでなく,東北地方からも増加していく。ただ,あくまで出稼が基本であり,蝦夷地に永住あるいは妻子を伴うことは禁止されていた。

しかし,安政年間には,蝦夷地への出稼人に関する政策に大きな変化が起こる。安政2年,積丹半島の神威岬以北への婦女通行の禁が幕府によって解かれる。安政4年,諸国から箱館・蝦夷地へ出稼をする旅人に入役銭を免除し,安政5年には蝦夷地への出稼人で永住を願う者は,越年役の免除を決定する。このように,幕府は,蝦夷地へ定住する和人を増大させる政策をとり,各場所に和人の定住が増加した。言い換えれば,蝦夷地・和人地という地域区分が解体していく過程ともいえる。(山田、歴史地理学 42-2(198)、pp. 1-21、2000年)

A16:

江戸時代の北海道は松前地と蝦夷地が厳密に分けられ、幕末まで和人が蝦夷地に住むことは禁止されていた。蝦夷地の定住人口はすべてアイヌ民族であると考えてよい。「このデータ」は松前地の和人人口が蝦夷地のアイヌ人口より多かったという事実を反映していただけ。

 

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