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「謝罪」と「反省」の言葉をすぐ口に出来る人はすごい
つい先日、『プロブロガー批判問題』という犬も食わないようなネタで、とある女子ブロガー(なっちゃん所長)と大喧嘩(言及・炎上)をしてしまった。
ざっくばらんに言うなれば、1の出来事を僕が100の悪事に仕立て上げ、炎上地獄へと連れ込む種類の「やり過ぎ案件」であった。
アリの巣にお湯を注ぐ少女の頭上から、核爆弾を落とすような真似をしてしまった。
9対1で僕に非がある終わりの見えない泥沼の争いにも関わらず、なっちゃん所長が一撃で、華麗なる終止符を打った事件だった。
なんと、真っ先に「謝罪」と「反省」の記事を書いて、敵対者であった僕に差し出してくれたのだ。
こうした感情的なバトルのさなかに、我先に白旗を上げるには、勇気に満ちたメンタリティが必要である。
終わりが肝心――つまり後処理の爽やかさで、一個人としての人間レベルは大きく変わるのだ、ということが骨身に染み渡った。
おかげさまで、言語で核武装して自爆するごときバーサーカーになっていた愚かな僕も、なっちゃん所長に対する謝罪の意を、きちんと表明出来た。
やはり、引き際をわきまえて、言動を慎める人間は素晴らしい。
本件のようなトラブルが起きた際、真っ先に自分から頭を下げられる者は中々いない。
それを実行した点で、なっちゃん所長の方が一枚上手かつ大人だったなと思う。
大変勉強になる炎上を遠慮なくエンジョイさせて貰えた。
高度な人間力を試される『神の試練』であった。
僕も次こそは合格しようと決意した。
なぜ些細な出来事が『3万人レベルの炎上』に繋がったのか?
すでに平和的解決がなされた事件ではありますが、興味深いことなので書き連ねておきましょう。
よくよく考えると、
「プロブロガーをつまらないと批判する」=「他人の嫌がることをする悪質な行為」
という図式は、いささか極端過ぎます。
誠、神経質な発想であり、失笑を禁じ得ません。
こうした異常なる解に則って、盛大に叩かれたなっちゃん所長は、人の世の理不尽さを思い知らされたことでしょう。
悪意の塊のことを、地球と呼ぶのかもしれません。
気味悪いほどに人類は、浅はかなのでございます。
ではなぜ、僕も含めたはてな民の皆々様は、そのような知性なきバッシングに打って出たのでしょう?
はてな村民の欲求不満がすべての原因
本件が炎上した理由を紐解くと、そこには『はてな村民の集合知』が大きく関わっているであろうという仮説が立てられます。
数年前より台頭して来たプロブロガーなる人種が、民衆から法外間近なねずみ色の搾取を断行し、その様相にはてな村民が激昂、方々で竹槍を持って応戦するという戦争の歴史は、想像に新しくあります。
その始まりは弱々しかったものの、いつの間にか力関係が対等、あるいは逆転の兆しを見せるほどになり、もはや過度な叩きを必要とせぬぐらいに、プロブロガーたちは不当に高めて来た名声を地に落としたのでございました。
こうなると、都合が良くて知られるはてな村民という卑劣最たる者たちは、「おれたちの正義の振るいどころを寄越せ!」といきり立つことになります。
かくのごとく息詰まるある日、悪質極まる愉快犯ブロガー・ピピピこと僕が、プロブロガー批判に興じる者を大仰に取り上げ、村民どもの反動形成を促すという、面白半分の悪事に手を染め始めたのです。
ここでいう反動形成とはつまり、プロブロガー叩きの逆を行く思考への転換に違いありません。
すると、あれよあれよという間に、行き場を失っていた村民たちの歪んだ正義とやらが、血なまぐさい兵器へと変貌し、なっちゃん所長という未だはてな村の右左も掴めていない、純粋無垢なお嬢様に襲い掛かったのであります。
村民の中に、ずっと以前から存在した不平不満の数々が、悲しいかな、ただ一生懸命生きているなっちゃん所長に降り掛かりました。
悪事とは正義の蔑称であり、正義とは悪事の敬称であるという『人間行動、総じて利己的なり』の原理が、ここに来て明け透けになってしまったのです。
この度の紛争は、言うなれば人類という己を愛して止まないナルシシストな生物種が、この地球上に生存していること、それ自体が最大にして最悪の主要因として幕開けしたものであり、悪役の特定が極めて難しい、苦渋惨憺突き抜けずにはいられない、痛み分けの物語なのでございましょう。
めでたし、めでたし。
実地経験を元にした炎上についてのあれこれ
僕も過去、散々、無実の者たちをディスって来た実績があり、これからも無差別に罵倒して行きたい所存。
罵倒ありきというよりか、自己主張の末に、それが罵倒として誰かの目に留まるのは、致し方ないという意味である。
過去を思い返してみても、僕の思いつきの記事やツイートが「2ch」や「まとめサイト」に撒き散らされ、多数の犯罪予告を差し込まれるなんてことも度々あった。
従って、僕には他人を叱りつける資格など最初からなかったのだ。
今後は一言断りを入れてから、火炎瓶の制作に取り掛かりたい
以前、なっちゃん所長の固定ツイートに、『もっと炎上させるべき?』というアンケートがあったから、どんな手法でもPVと読者が増えると、喜ぶ人なのかなと勘違いしてしまっていた。
そのため、炎上させることありきで、なっちゃん所長のブログ記事やツイートをザッピング(拾い読み)し、火種を発見したから、そこにダイナマイトを投げ込んだ次第である。
今後は、炎上のコンセンサスを前もって取ることを、徹底したい。
一朝一夕では身につかない炎上耐性
これはメンタルの強度というより、飛び交う火の粉の扱い方、受け流し方、観察の仕方で、おおかた決定されるものだ。
時折、リアルでメンタルが強いと思っている者たちが、はてな村で炎上騒ぎを起こし、泣きじゃくって引退するということがある。
まず理解すべきなのは『炎上耐性=打たれ強さ』ではないということ
たとえば、芸能界の第一線で活躍するロンブーの田村淳であっても、はじめてニコ生に取り組んだ際は、顔を真っ赤にしてお怒りになり、心で泣いていた。
この僕自身も、約5年に渡るはてなブロガー人生の中で、一つの記事が一日で20万人に読まれたり、はてブが900付いたり、俺的ゲーム速報などのまとめサイトに掲載されたりと、通常の人生ではありえない注目のされ方をする機会に恵まれた。
それゆえ、疲れてきてブログを削除したり、なぜか無性にはてなブックマーカーを殴りたくなったりと、負の感情に満たされ――つまり、二次元人格が焼き尽くされそうになることがあった。
そうした炎上鍛錬を続けた結果、何一つとしてダメージを受けることがなくなった。
心を消耗させる可能性のある概念を、半自動的にシャットアウトさせるメカニズムを完成させたのだ。
罵り合いを1万回続けても、心が折れることはない
なぜなれば、僕は感情を起点に文章を書くのではなく、言葉を重ねていくことによって感情らしきものを生成させているから。
言ってしまえば言葉遊びのため、感情で殴り掛かって来る人がいたとしても、こちらは言葉を新規入荷させるのみだから、永遠に無傷で討論可能ということだ。
対照的に、感情を武器にしている者たちは、心を消耗しつつ、言葉や記事を投下するため、確実にいつか終わりが来てしまう。
つまるところ、有限である精神的リソースを基本的に消費しない、というテクニックのことを、炎上耐性と呼ぶのである。
もっと言うと、自分自身と、自分自身が放った主張を完全分離して捉えることが出来るようになると、怒りも悲しみも湧き出すことは永久になくなる。
これの究極進化版は、自分自身の考えと、自分自身の存在そのものを、異なるものとして扱い、ある意味、他人事のように思うことが出来れば、現実界においても人間関係で苦しむ可能性が極度に減る。
どんな炎上に巻き込まれても、燃えさかる己の肉体から幽体離脱してしまえば、傷一つ付かない。
そもそも言葉そのものには人を痛めつける威力など皆無なのに、僕ら人間の想像力によって、殺傷力が引き上がってゆく訳である。
ゆえに、幽体離脱――その場にいながらその場にいないかのような境地に入り込み、無駄な思考とは無縁の状況を作りさえすれば、痛みが完全に消え去るのだ。
炎上耐性、これつまり、受動的思考の排除なり。
しつこく言うが、批判や誹謗中傷の言葉そのものに威力はない。
それらにぶつかった際に、炎上慣れしていないと、『自動的に憂鬱な事柄を想像してしまう思考』が働く訳だが、それにストップを掛けて、自分のためだけに頭を使う。
こうした自己中心主義こそが、炎上耐性なのである。
これからの時代、炎上耐性を上げるのは必須
人間は過ちの生物ゆえに、ナチュラルにとんでもない発言をしてしまいかねない。
だからこその対策。
そこを軽んじていると、どぎつい災難に見舞われるかもしれない。
1つの炎上で、10の地獄を見て、100年の孤独を味わうことを避けよう!
余談・『頭が固い悪いおっさん』にならないよう頑張る!
いつから僕は、学生時代に大嫌いだった教師みたいに、説教くさい人間になってしまったのだろう。
正直僕は、人間的に出来ているだけの人より、喧嘩強いか、喋り上手いか、仕事出来るか、金持ちか、モテるか、そのどれかに該当するチンピラ肌の者の方がよっぽど好きだ。
尊敬する人はずっと、
芸人・松本人志、
格闘家・フランクシャムロック、
ラッパー・SIMON JAP、
大統領・ドナルドトランプ、
あたりだ。
説教くさい教師みたいな存在とは、かけ離れた勝ち犬が好きなはずなのに、なぜ僕は負け犬みたいな存在に成り下がってキャンキャン吠えていたのだろう。
この世は、『良い奴だとかではなく面白い奴かどうかで全て決まる』というのが、僕の考えであったはずなのに。
人間界とは、お笑い至上主義だ。これは事実である。賭けても良い。
どんな高尚な偉人であっても、面白い奴の前では無力だ。
僕もそういう人間になれるよう、柔軟に生きて行くことにする。
他人に対する説教など意味がない。他人を糾弾しても無意味だ。
そうした人間界の真理に気付かせてくれた、なっちゃん所長をはじめとした皆様方に感謝したい。
ありがとう!