一般的にオタクと呼ばれる人々のうち、特に女性(いわゆる腐女子の方々)には、特徴的な言葉の使い方があると言われている。自分の好きなキャラに対して「尊い」とか「最高かよ」とかいうあれである。
これらは、何かと取り沙汰されてバカにされることも多い。しかし、使われる業界によって言語は特有の変化を遂げるものであり、その界隈においてその語が使われることでお互いの意識共有を図るという側面もあるため、このようなワードが生まれてくるのは至って自然なことだ。これらの言葉をバカにしている人は、小学生男子が好きな女子をからかう感覚に近い気がする。
さて、そのような「腐女子ワード」の筆頭ともいえるのが「待って」だろう。腐女子業界には詳しくないが、感銘を受けた・・・・・・いや、ここはあえて人間的な言葉で表現すると、性癖にマッチした作品に対して「待って」が使われるようだ。(便宜上”作品”としているが、これには絵や小説だけではなく、短文で書かれた設定なんかも含んだ意味で使うことにする。)
この「待って」とはいったい”誰に”待ってほしいのだろうか?それについてはツイッター等でもさまざまに考察が(局所的に)されているみたいだが、私はこれをジェンダーの視点から考えてみたい。
そもそもこの「待って」、男性のオタクが文章で使っているのをほとんど見たことがない。男性オタが性癖にマッチする作品に触れたとき、彼らのリアクションは「かわいい」とか「激シコ」とか「エッッッッッッッ」とかである。「待って」「尊い」なんていう感覚は出てきそうにない。この差はいったいどこに起因するのか。それを考えるには、我々が芸術を鑑賞するときの体験メカニズムを考慮する必要がある。
ここに「童貞を殺すセーター」を着ている女性の写真があるとしよう。ここから我々が受け取る印象は、一様ではない。「エロい、すばらしい」と思う人もいれば、「下品ではしたない」と思う人もいるだろう(私は前者です)。芸術作品は、それ単独では芸術になり得ない。受け取り手がそれを鑑賞し、その人の中での受容器を通ったとき、はじめて芸術は芸術になる。そして我々がこのようにして芸術作品から受ける印象を、形而上学にならってここでは「記号」と呼ぶことにする。
ある作品に触れたとき、我々はそこから「記号」を受け取っている。「Aという女の子が可愛い格好をしている」という記号、「BくんとCくんが仲良く話をしている」という記号・・・写真であれ絵であれ音楽であれ文章であれ、我々はそこから記号を受け取ることで、感動したりシコったりしているわけだ。
私は、男性と女性では、このような記号の取り扱い方に差があるのではないか、という仮説をとなえたい。
男性の場合、作品から何らかの「記号」を受け取った場合(たとえば女の子の画像を見て「可愛い」と感じた場合)、その「記号」にラベルを貼り、自分の管理下におく。男性が作品を見て、その評価をするとき、すでにその作品から受け取った「記号」は(作品自体は他人の作ったものだとしても)自分の所有物となっている。いわば、「買ってきた絵を評価している」感覚に近い。
一方女性は、「記号」を自分の管理外におく。作品を見たとき、女性はその作品を「自分より上位の存在」として認識する。男性が買ってきた絵を評価するようなものだったのに対し、女性にとっての作品のとらえ方は「美術館の絵を見て評価している」ようなものである。
そう、女性が「待って」ほしい相手とは、この「記号」である。もう少しわかりやすく言うならば、「作品の印象が先行して一人歩きしていってしまう」状況の中で、「作品を見たときに自分の中に興る衝動」にストップをかけようとしているわけだ。
男性の場合、作品から受け取る「記号」は自分の管理下におかれているため、ある程度増幅しても自分で抑えこむことができる。なんなら一発抜いたらおさまる。
しかし女性の場合、作品から受け取る「記号」は自分よりも上位の存在なのだから、それらは勝手に増幅していってしまう。衝動を抑えこもうと思っても、「記号」側が自分の管理外でどんどん増幅していくため、ストップをかけることができない。そんなとき口をついて出てくる言葉が「待って」なのではないだろうか。
そう考えれば、先述の「つらい」「尊い」にも通じるものがありそうだ。「記号」の増幅を止められず、衝動がどんどん膨張していく状態を「つらい」と表現したり、自分の手の届かないところにある(なおかつ限りない恩恵を享受させてくれる)存在を「尊い」と表現するのは、実に自然である。
というわけで、女性特有のこれらの表現は、芸術作品を超越者とみなすことにより生まれているというのが私なりの結論だ。
さて、この話、ここで終わりではない。蛇足にはなりそうだが、お付き合いいただけるとうれしい。(女性のみなさんは本来の意味でお付き合いいただけるとうれしい)
日本の歴史の中で、このような「女性特有の言語表現」の最古にして最大のものがかな文字だ。
平安時代までは文章を書くのは男性だけで、しかも全部漢字(真名)で書いていた。そんな中から女性の手によって、漢字を崩して1音を簡潔に表現する文字、仮名が生まれたのだ。そしてこの発明によって、日本はひとつの文学的黄金期を迎えることになる。かな文字による(つまり女性による)平安の名作の中でもひときわの大ベストセラーといえば、やはり源氏物語だろう。
源氏物語のなんとなくの大筋はみなさんご存知だと思う。主人公の光源氏(後半は薫の君)が、モテてモテてモテまくる話だ。基本的にモテるやつが嫌いな私としては、読むたびに虫唾が走る。むかつく。うらやましいとか思ってねーからな。女性を大切にしろ。あと1人わけろ。
まあそれはそれとして、世界的に見ても名作であることには変わりがない。しかしこの話、今で言う乙女ゲー・・・は少し違うものの、少なくとも光源氏は間違いなく日本最古のプリンスさまだと思われる。プリンスっていうか家系的にはエンペラーだけど。いずれにしろ、女性にとっての憧れとして描かれているのは間違いないと思われる。紫式部腐女子だしな。
さて、のちの国学者・本居宣長はその著書の中で、源氏物語を「もののあはれ」の文学と評価している。
「あはれ」という言葉を、現代風に解釈するのは難しい。「しみじみとした趣」とかいうふうに訳されることが多いこの言葉、何かを見たり聞いたりして、強く心を動かされたときや、否応なく衝動にかられたときなどに使われる。
私個人としては、「論理的に説明できないものの、とにかく心を動かされた状態」が「あはれ」の意味だと解釈している。
これに対し、「をかし」という言葉もある。翻ってこちらは、機知などに富んでいておもしろい、というような、「論理的に説明できる感動」をあらわす。
この「あはれ」と「をかし」の構図、まさに女性と男性の「記号」の受け取り方をそのまま表しているとはいえないだろうか。とするならば、やはりここには日本的な言語の伝統が息づいているといえる。
なんだかわからないけれど、とにかく心を動かされた瞬間に女性が発する言葉、1000年前には「あはれ」だったその言葉が、現代では「待って」になっているだけのことなのだ。
そして、脈々と受け継がれてきた女性らしい感性の中から、我々に衝動的に訴えかける名作が生まれてきたのだろう。
私は「をかし」より「あはれ」の方が好きだ。科学でほとんどのことが解明できる世の中で、言葉で言い表せないものがあるというだけでわくわくする。だから私は、日本女性の感性を如実にあらわした「待って」という言葉がすごく好きだ。そして、女の人が「待って待って」と言いながら快感に悶えているAVが好きだ。以上です。