宣伝としてブログを書くならせめて「面白い宣伝」が読みたい

masarin-m.hatenablog.com

レビューを書くのに、特に映画などの映像作品や、小説などの文章を扱うのに、自分なりで良いが、まるで分析をしないというのは解せない。それは書き手にまるで定見がないと言うことになってしまう。と書くと、難しく聞こえてしまうが、要するに映画や小説の感想を通して、その人となりを読みたいのである。感想や分析を書かなければ、それはただの紹介になってしまう。

以前、外山滋比古氏が「書評は難しく、書評と呼べるものにもなかなか出会わない」といった旨を書いていたが、素人の書くブログにおいては当然とも言える。

レビューと自称しつつ書いているものは果たして何か?



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感想と書評

ここからは持論ではあるが、

物語を読むとき、読者の心理的位置(視点)は、
・作品の中→登場人物や状況に照らし合わせ感情移入する
・作品の外→登場人物は作者が状況を描くための記号であると見る

こんな風に大きく二つに別れるかと思う。
個人的にミステリと呼ばれるジャンルが好きなのは、構造的に後者が多いからであって、トリックなどロジカルな仕掛けを見せるための物語だからこそ必然的に読み解き方も後者になる。
物語の中の人物は全てトリックのための記号であり、探偵は物語の謎を読者に解釈してみせるための装置として存在する。
ただひとつのトリックを昇華させるために描かれる論理的作品世界。

ただミステリであれ、森博嗣のようにキャラが前提となるものになると前者への傾倒が目立つために後者のような読み方がしづらくなり、西尾維新のような作家は前者のような読み方をするには楽しくても後者の読み方には冗長すぎる印象もある。
その場合、物語の性質が変わるのだから読み方も必然的に変わることになる。

非言語

美術品にしろ文学にしろ、その試みの多くは「言語化できない感覚や概念の表現」であり、仮に言語化できるのであれば言語で表現すればいい。
それが一番容易い。
そのために絵画であれば視覚的な記号を埋め込み表現する。
文学であれば、言語で状況や人物の葛藤を描き、言語化されない感覚を表現することになる。
文学において重要なのは文章それ自体ではなく、言葉を連ねることで読者の脳内に想起されるであろう世界であり、言葉にならない行間であると言えるかもしれない。

感想と評論との差異は何か?といえば、作品で描かれている記号を読むのか、それとも記号から受けた感覚を言葉にするのか、という差になるかと思う。

・作品の中→登場人物や状況に照らし合わせ感情移入する
・作品の外→登場人物は作者が状況を描くための記号であると見る

前述したこの視点でいうなら、作中に感情移入するというのは作品の記号による結果であり、感想であると言える。
作品を俯瞰し、物語の構造や記号を読むのが評論とも言える。
評論と呼ぶには、単にそれだけではなくアウトプットのための筆力や前提となるコンテクストも必要になるのだが、最低限必要な視点はそんな作品の記号を読む読解力だろうか。

読解力とは書いて字のごとく「読み解く力」であって「感じ想ったことを文にする」のは感想文でしかない。
感じただけではなく、書かれたものを読み解くからこそ「書かれたものを評する」書評と呼べると思うのだが。

CM

リンク先の方が感じるような「アフィリエイトのための紹介文」というのは感想ですらなく、要は宣伝文に過ぎない。

上に貼り付けたツイートを見てもわかるが、こういうのが「稼ぐための書評」な訳です。
中学の夏休みにあらすじだけで感想文を書いてAをもらったことがあるが、この書き方ではそれすら書けない。

こんなもので書かれた記事のクオリティは保証されず、書評でもなんでもないが金儲けとしては通用しかねない。
小銭を儲けるためなら誠実さなんてドブに捨ててもいいのがブログの世界。
kyomoeさんが色々やってるんでこの自演スパマーに関しては端折りますが。

検索を非常に気にするのは、収入を得たいからであろう。それならば本人の意思と関係なく、彼もしくは彼女はプロであり、プロの作法でレビュー等は書かなくてはならないのである。

宣伝文の集積であるような姿勢のブログが書くものに対し、真摯な記事を期待するのはおかしい。
評論と感想とレビューという表現に差異を感じ、それを言語化できる書き手か否か。
プロかそうでないかという差分すら曖昧なブログである以上、書き手の技量にプロであるそれを期待しても叶わない。

プロブロガーは「書き手として優秀だからプロなのだ」が是にならない。
大概のプロブロガーには、文章力など伴わず、単に読み下ししやすい文書が書けることを評価される。

口語体で軽薄で軽く読めるジャンクフードのような文書こそが「読みやすい」「楽しい」と感じる読者が対象である以上、見せかけとしての「文章力」こそが求められるのであり、ブログにおいて評価を受ける。
検索されたい記事と自分が書きたい記事が一致することはあまりない。

もともと文章を書くためにブログを始めたのならまだしも、小遣い稼ぎ目当てで始めたのであれば、書くこと全てが宣伝になるのは当然だろう。
そこに書かれていることに何かを期待しても仕方がない。
稼ぐためのノウハウは知っていても読解する力も書き出す力も伴わない。
インプットやアウトプットがなくても稼ぐための記事なら書ける。
簡単な感想文なら小学校で書き方は習っているから書ける。

あとはアフィリエイトを貼り付け検索流入を狙うためのキーワードを散りばめ、仲良しコミュニティとSNSのネットワークを通じ広め、一丁上がり。
今月は儲かった、来月は頑張ろう、あの人はあんなに稼いだ!すごい!
アフィリエイトのやり方を教えます、有料サロンを開きます、ブログの書き方教えますと称して金儲けを安定化させる。
そんなブログは山ほどあるし、それで儲ければプロブロガー宣言すればプロが成立する。
免許も資格も文章力も読解力も必要ないプロ。

面白い宣伝

言及されているキタノブルーを連呼している記事を探して読んでみたが、終始軽薄な宣伝文しか書かれていなかった。
正直わかりませんでした、つまらなかった、では宣伝にならない。
だから「読むとキタノブルーが浮かぶ」「キタノブルーで映画化されるのを期待」とかなんとか書くしかない。


残念ながらブログというのは、正直さを美徳としない。
面白いものは面白いと書き、つまらないものはつまらないと書くのは悪徳。
それより関係性を大事にし褒め合い、いいですね、素晴らしいですね、参考にします、とコメントを付け合うコミュニティが健全とされる。
つまらないなら書かなければいい、スルーすればいいのだそうだ。

だが清濁どちらも併せ持つのが人間であって、面白いものは面白いしつまらないものはつまらない。
個人的には、関係性を優先し、偽善的な善良性を表現するような歪みには吐き気しか感じないが、そういった感覚を善良で正しいとするひとびとがあり、それを是とするコミュニティが形成されているのも事実。

ブログというフォーマットが、すっかり宣伝のためのプラットフォームと化して久しい。

個人的には、別に宣伝なら宣伝でも構わない。
だが残念ながら、まともなクオリティを伴う「宣伝」にはついぞ出会わないが。

別にあなたが儲かっても一向に構わない。
ただいち読者としてあなたが儲かることを優先した軽薄な「宣伝」記事より、面白い「宣伝」を読みたいと思うのは贅沢なことだろうか?

「読み」の整理学 (ちくま文庫)

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