金子氏の発言
アイヌの方々は、明治時代より、同じ帝国臣民として政府の手厚い保護を受けながら歴史を重ね、今日に至っています。(2014/9/22 札幌市議会)
二風谷ダム裁判の判決文(1997年札幌地裁)
証拠(甲二一の三ないし六・八、証人田端、原告萱野)によれば、明治政府は、蝦夷地開拓を国家の興亡にかかわる重要政策と位置付けて、これに取り組み、北海道に開拓使を送ったこと、明治五年九月、もともとアイヌの人々が木を伐採したり、狩猟、漁業を営んでいた土地を含めて北海道の土地を区画して所有権が設定され、アイヌの人々にも土地が区画されたが、農業に慣れていなかったことから、アイヌの人々が農業で自立することは困難であったこと、明治六年、木をみだりに切ることや木の皮を剥ぐことが禁止され、また、豊平、発寒、琴似及び篠路の川の鮭漁に関して、アイヌ民族の伝統的な漁法の一つであるウライ網の使用(川を杭で仕切って魚が上れないようにし、その一部分のみを開けておいてそこに網を仕掛けて採魚する漁法)が禁止されたこと、明治九年、アイヌ民族の従来の風習である耳輪や入れ墨等が罰則を伴って禁止され、また毒矢を使うアイヌ民族の伝統的な狩猟方法が禁止されたこと、明治一一年、札幌郡の川における鮭鱒漁が一切禁止されたこと、明治一三年、死者の出た家を焼いて他へ移るというアイヌの人々の風習等が罰則を伴って禁止され、更に、日本語あるいは日本の文字の教育が施されるようになつたこと、その後、千歳郡の河川において鮭の密猟が禁止されたり、アイヌ民族の伝統漁法の一つであるテス網による漁が禁止されたりした後、明治三〇年には、自家用としても鮭鱒を捕獲することが禁止されたこと、このように魚類等の捕獲の禁止が強化されていったことや私人がアイヌの人々の開拓した土地を奪うようなことがしばしばあったことなどからアイヌの人々の生活が困窮したため、明治三二年北海道旧土人保護法が制定され、農業の奨励による生活安定のための土地給付等が図られたが、アイヌの人々に給与される土地は法律で上限とされた五町歩をはるかに下回り、しかもその中に二割近い開墾不能地があったことなどから、アイヌの人々の生活水準は極めて低いままであり、生活の安定を図ることはできなかったこと、以上の事実が認められる。右認定事実に弁論の全趣旨を総合すれば、前記のような漁業等の禁止は、主に漁猟によって、生計を営んできたアイヌの人々の生活を窮乏に陥れ、その生活の安定を図る目的で制定された北海道旧土人保護法も、アイヌ民族の生活自立を促すには程遠く、また、アイヌ民族の伝統的な習慣の禁上や日本語教育などの政策は、和人と同程度の生活環境を保障しようとする趣旨があったものの、いわゆる同化政策であり 和人文化に優位をおく一方的な価値観に基づき和人の文化をアイヌ民族に押しつけたものであって、アイヌ民族独自の食生活、習俗、言語等に対する配慮に欠けるところがあったといわざるを得ない。これにより、 アイヌ民族独自習俗、言語等の文化が相当程度衰退することになったものである。
『北海道旧土人保護法の成立と変遷の概要』
土地付与の結果を概略すると、1909年までには、全道で3850世帯に、9656町27歩が割り渡されたという(1909年以降については表4参照)。しかし、その内実は湿地、傾斜地など農業に不敵な地の割り渡しがあったり(これについては第1回改正の項で示す)、農業に対する不慣れから付与地を和人に開墾させ、賃貸料を得る場合もあったが、さらにその賃貸料を前借りしたことなどから、「殆んど所有権を譲渡したると同一の結果」となることもあったという。 (百瀬, 史苑 55, pp. 64-86 )