9月24日のドイツ連邦議会選挙は、「メルケル時代」の終わりの始まりだ。この選挙は、2つの意味で、戦後ドイツの歴史の中の「区切り」となる。
メルケル首相の蹉跌
一つは、「ムッティー(お母さん)」と国民から呼ばれて親しまれてきた人気首相の凋落である。この選挙は、メルケル首相の難民政策に対する不信任投票だった。有権者は同首相をはじめ、大連立政権を構成していたキリスト教民主同盟・社会同盟(CDU・CSU)と社会民主党(SPD)の得票率を大きく引き下げて、厳しく罰した。SPDの得票率は第二次世界大戦後最低の水準まで落ち込み、CDU・CSUの得票率も戦後2番目に低い水準だった。
2015年の9月にメルケル首相は、人道的な理由から、ハンガリーで立ち往生していたシリア難民ら89万人を受け入れる超法規的措置を取った。同首相は米国や国連から、「欧州の良心を守った」と絶賛された。しかし国内では、「ドイツ政府は社会秩序のコントロールを放棄したのか」という不満と、治安悪化に対する懸念が高まった。特に連邦政府から難民を割り当てられた市町村の首長たちからは「これ以上難民を受け入れられない」という悲鳴が上がった。旧東ドイツでは、難民が到着すると抗議デモを行う人々もいた。
メルケル首相は選挙演説を行う際にしばしば聴衆から「裏切者」と罵倒されたが、難民政策について有権者を説得する努力を怠り、持ち前のポーカーフェースで通した。彼女は、難民政策について批判されると、「困った人々を助けたことについて批判されるのならば、ドイツは私の国ではない」と開き直った。
欧州の女帝がレームダックに
メルケル首相は9月24日の夜、惨憺たる選挙結果が明らかになった直後にベルリンの党本部で行った演説でも反省の色を見せなかった。そして、「我々は第1党になるという目標を達成した。我々がやってきたことは、全て正しかった。何一つ修正する必要はない」と述べた。CDUの若い党員たちは、この言葉に歓声を上げたが、多くのドイツ市民は、この態度に「現実を無視する引きこもり」のような傲慢さを感じた。
10月15日にニーダーザクセン州で行われた州議会選挙でも、SPDが得票率を4.3ポイント伸ばして第1党の座を守ったのに対し、CDUは得票率を2.4ポイント減らして敗北した。この州でも「ドイツのための選択肢(AfD)」は初の議会入りを果たし、同党はドイツの16州の議会のうち、14州で議席を持つことになった。この選挙結果が伝わると、ベルリンのCDU本部にはまるで通夜のような静寂が広まったという。