頭のなかをすっきりさせておくことがむずかしいと感じるのだ。
「保守的なものへの対処法」。
それがここ最近ずっと頭を悩ませてる問題だと思う。
この週末直前、その悩みは結構マックスになってて苦しくなってきてストレスフルなので、何かにすがりつこうと思って、思いついたのがマクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』。
有名な『メディア論』が書かれたのが1964年。その2年前の1962年に書かれたのが、この『グーテンベルクの銀河系』だが、僕は整理されすぎた『メディア論』より、タイトル通りの銀河のように様々なキラキラしたテキストがパッチワークされたこっちのほうが断然好き。
もう何年前に読んだかわからないくらい、読んでから時間が経ってると思って調べてみると、マクルーハン生誕100周年の2011年に読んだようだ。つまり6年くらい前に読んだ本について、いまさらながら、この本の書評を書くことで、保守的なものにいかに対処すればよいかを言葉にしたいと思って、あらためて手にとってみた。
そしたら、その序章のはじめにこんな一文を発見。
エリザベス朝のひとびとは、中世的な共同体的経験と近代的な個人主義との間で、からくも平衡をとりながら生活していた。他方、われわれ現代人は、個人主義が時代遅れのものとなり、共同体的相互依存こそ不可欠なものに思われる電気テクノロジーに遭遇しているのであり、われわれが対面している状況の型はエリザベス朝人のそれとはまさに逆の関係にある。マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』
マクルーハンがこの本を書いた当時の50年以上前、時代は16世紀後半から17世紀初頭のエリザベス朝期の変化とまさに逆の方向への変化を遂げようとしていた。
エリザベス朝の時代というのは、いわゆるイギリス・ルネサンス期であって、フランシス・ベーコンやシェイクスピアが生きた時代である。いまだ1660年に設立される数学者・科学者たちの集団である王立協会=ロイヤル・ソサエティーは生まれていないが、そうした自然科学の隆盛がはじまる前夜ではあった。その意味で、近代的な個人主義に向かう流れは残りつつも、いまだ中世的な共同体的経験は街で生きる人々の生活には色濃く残っていたわけで、そのあたりの中世と近代が混淆する様を描いたのがシェイクスピアだったといえる(「シェイクスピア・カーニヴァル/ヤン・コット」参照)。
その逆の変化が生じ始めていたのがマクルーハンが生きた1960年代というわけだ。個人主義からふたたび共同体的経験へとシフトしていく流れのなかに、インターネットの誕生から創出という時代の流れはある。
けれど、当時、こうした明らかな時代の変化を受け入れた人もいれば、保守的に変化を拒んで個人主義にすがりつく人もいただろう。
そんな人への強烈なパンチとして放たれたこの本は、しかし、実は保守的であることも進歩的であることも、相対的であり、むしろ、ふたつの状態をパラレルに思考することの必要性を示したものだったと思う。
そんな一冊として認識している『グーテンベルクの銀河系』だからこそ、いまあらためて、この本の書評に取り掛かってみようと思ったのだ。
人間であるために支払われなければならない代価
保守的であることの反対は、イノベーティブであることではない。むしろ、それがパラレルなものであることを理解することこそ、真にイノベーティブなんだと思う。
そのことを考えるために、まず「保守的」であるとはどういうことなのかを見ていきたい。
変化する時代の流れに対して「保守的」であるということに関していえば、マクルーハンは、この本の序章で、カール・R・ポパーの『開かれた社会とその敵』から、こんな一文を引用している。
この緊張、この不安は閉じられた社会の崩壊にともなう現象のひとつであった。こうした不安は今日でも、とくに社会変化の激しい時期には感じられるものだ。そしてそれは、開かれた、そしてまた部分的に抽象化された社会のなかで暮らしている人間にとってはつねに避けられないような努力、他人に頼らずさまざまな責任を引きうけようとする努力などによって創られるものである。こうした緊張や不安は、わたしの信ずるところによれば、知識がふえ、理性的に事を処理し、協力や相互扶助、ひいてはわれわれの生存の可能性の機会が増大するごとに、また人口が増大するごとに支払われるべき代価、われわれが人間であるために支払われなければならない代価なのだ。
ひとつの完成された社会の状態、それが違う方向に崩れ、完成という閉じた状態が開放されていくとき、人は緊張や不安を感じ、保守的な姿勢になる。また、ポパーがいうように、この緊張や不安は、特に目立った社会変化はない状態でも「開かれた、そしてまた部分的に抽象化された社会」には「他人に頼らずさまざまな責任を引きうけようとする努力などによって創られる」のだという。ポパーはそれが「われわれが人間であるために支払われなければならない代価」なのだという。
言葉は抽象的でむずかしいが、言っていることはきわめてシンプルだ。
ある程度、個々人に裁量が与えられ、自由に行動できる社会では、同時に、個々人に責任も与えられるから、行動の結果がどちらに転ぶかかわらない状況は日常的にもよくあることになるのだから、そこで緊張や不安を感じやすくなるのは経験上すごく普通のことだと思う。
その緊張や不安を感じずに済ませるためには、前にやって成功した方法や、他人のやり方を真似たり、世の中的に正解といわれる方法を採用したりして、なんとなく「他人に頼らずさまざまな責任を引きうける」ことから逃れたような気分になれる形をとったりする、ちょっとした保守的態度に走ることだろう。
そうした保守的態度もうまく使いながら、ときにはほんのすこしのリスクと責任を負いながら、僕らは「知識がふえ、理性的に事を処理し、協力や相互扶助、ひいてはわれわれの生存の可能性の機会が増大する」社会で暮らしている。
閉じた部族共同体が開かれ崩壊するとき、心の安定は失われる
けれど、この保守的姿勢から一定の効果が得られるのは、やはり社会が安定している場合である。社会といったが、そんなに大きな単位ではなくても、会社というコミュニティ、さらに別のかたちのコミュニティにそのコミュニティの存在のあり方をゆさぶるような変化が訪れた場合、保守的姿勢からは何の安定も得ることはできないだろう。
以下でポパーがいう制度規則の崩壊は、コミュニティ=部族共同体という閉じた社会のルール=「自然」を根底から打ち崩してしまうため、失われていくそれにすがろうとする保守的姿勢が功を成す可能性は1ミリもない。
少なくともその支配階級のひとびとには、奴隷制度、カースト、および階級間の制度規則は疑問の余地なしという意味で、まったくの「自然」なのである。しかしながら、閉じられた社会の崩壊とともにこの不動の信念も崩れ去り、それに守られていた心の安定もことごとく失われてしまう。部族的共同体(そしてのちの「都市」)は部族の成員にとって安全な場所であった。敵に囲まれ、また危険であるのみか積極的に危害をさえ加えかねないさまざまな呪術の魔力によって囲まれて生きている原始共同体の人間は、子どもがそのなかで自分が明確な役割を演じている家族や家庭を経験するのとまったく同じやり方で、自分の部族共同体に接していたのである。
この部族共同体が解体され、「開かれた、そしてまた部分的に抽象化された社会のなかで暮らしている人間にとってはつねに避けられないような努力、他人に頼らずさまざまな責任を引きうけようとする努力」が必要とされるような、バラバラになった個々人の責任が問われるような社会へと変貌する様を描いた物語として、マクルーハンはシェイクスピアの『リア王』を紹介する。
『リア王』は役割が構成していた世界から職業が構成する世界へとみずからを転換していった人びとについての、たいへんに手のこんだ症例研究のためのモデルであるといえよう。それは中世的人間が剥奪されて裸になってゆく過程であった。マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』
「ただ王の名とそれに纏わる形だけはこの身に留めおく、が、統治の実権、財産収入、その他一切の大権行使は、よいか、挙げてお前らの手に委ねるぞ、その証しに、この宝冠を二人に分かち与える」という表明により、リア王が権力を中央から周辺へと移譲した際、中世的な封建制は近代的な中央集権制へと変換される。分権化された権利は、その権利を勝ち取ろうとする者同士で争われるようになり、実際、リア王の娘のゴネリルとリーガンはいずれも自分こそがリア王へのより大きな愛をもつものだと主張し、みずからのスペシャリティを宣伝する。個人主義のスペシャリストが競争する社会への変質である。
それまで共同社会の集団的価値のなかで育まれてきた社会にとって、こうした競争的な個人主義は、社会的スキャンダルになりはじめていたのだった。当時登場した印刷技術が新しい型の文化を創造し、こうしたスキャンダル発生に拍車をかけていたことは割と知られている。マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』
『グーテンベルクの銀河系』というタイトル通り、マクルーハンはこうしたスペシャリスト同士による競争的な個人主義が跋扈する社会の到来のきっかけを、グーテンベルクが発明した活版印刷技術、活字という技術の普及によるものとみる。
さまざまな動機の比率均衡を大切にしようとする保守的な人間はどうしても「臆病者」になってしまう
マクルーハンは、活版印刷技術は「結果として、経験が視覚という単一感覚へ還元されてゆく」という状況を生んだとみる。それ以前に音声だけのコミュニケーションから、文字使用によるコミュニケーションへの移行において、「文字使用は人間にイメージのやや前方に焦点を合わせる力を与え、それによってイメージもしくは絵の全体像を瞬間的に概観することが可能」になり、額縁というフレームで切り取られた一枚の絵というものをリアリティをもって認識することが可能になる。芸術の中心が、演劇や彫刻あるいは建築などといったより体感的で触知可能な形態から、絵画というものが中心を担うようになったのがちょうどグーテンベルクが活版印刷技術を発明したルネサンス期と重なるのは、だから偶然ではない。
非文字型の社会のなかに生きるひとびとはこのような後天的に獲得された習性をもたないし、そのためにわれわれが見るようには事物は見ない。むしろ彼等は対象物やイメージをわれわれが印刷された頁上に文字を追うように、断片から断片を追って走査する。かくて彼らは対象を離れたところから客観視する視座をもたない。彼等はまったく対象と「共に」あり、対象のなかに感情移入によってのめり込む。眼は見通すために使われるのではなく、いわば触知するために用いられる。聴覚と触覚からの分離に基礎を置くユークリッド空間は彼等には無縁なのだ。マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』
一部の人にしか触れることができなかった貴重な写本時代から、活版印刷技術によってより多くの人が文字に触れることができるようになり、それを読む技術を身につけるようになるルネサンス期移行の社会においての変化は、だから、いわゆる心理的・思想的な面で保守的態度をとることを許さないほど、人間の感覚そのものを拡張させ、変化させてしまったのだというのが、マクルーハンが主張するところである。
それは考え方とか価値観の違いとかいう次元の変化ではなく、人間はまったく違う身体を手に入れてしまったというレベルでの変化なわけである。
活版印刷技術の結果として、経験が視覚という単一感覚へ還元されてゆく現象を眼にして彼は、「現象のなかに論理の道筋を求める際、データを単一チャンネルから手に入るもののみに限定すればするほど、われわれの推論は正しくなるはずである」と推測する。そして、すべての経験を単一の感覚尺度に還元してしまう、もしくは歪めてしまうこのやり方は、傾向的にいって、活版印刷が人間の感覚のみならず芸術や科学にもおよぼす影響として規定できるのだ。マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』
だから、芸術や科学を中世までとは別物にし、そのような専門的スキルをもった個人が登場するのは何もそれまでとは人間の考え方や価値観が変わったことによるものではなく、感覚器官が拡張され、それまでとは別物になったがゆえ、むしろ、そうした考え方や価値観の変化、スキルを重視した個人主義が生じたわけである。
だから、そんなにまで感覚器官、身体そのものが変化したのに、考え方や価値観だけ保守的なままでいるというのは、まったく不自然で、無益なものでしかない。
その不自然さ、無益さを地でいくのが、リア王のもうひとりの娘コーデリアである。
親孝行のスペシャリストともいうべきゴネリルとリーガンがここぞとばかりに腕をふるってみせるのを見ていたコーデリアはいう。
どうしよう! いいえ、気遣うことは無い、
私の愛情は私の舌より重いのだもの。
彼女の精いっぱいの〔比率均衡を重んずる〕理性的態度も姉たちの専門主義のまえには刃がたたない。コーデリアには雄弁の矢を発射するための固定された視点というものがないのだ。一方姉たちのほうにはその場その場に応じた言い方ができるように合図が用意されている。また姉たちの専門主義は、感覚や動機をばらばらに切り離すことでたいへんな能率化、簡素化がおこなわれるために、当座の目標に対し厳密な計算が可能なのだ。リア王と同様、〈前衛的〉マキァヴェリストである姉達には、状況を明確なかたちでとらえ、それを科学的に処理する能力がある。彼等は〈感覚の方陣〉から意図的に自由であろうとしているし、また方陣の倫理的対応物である「良心」からも自由であろうとしている。彼等の決意は固いのである。いっぽう、さまざまな動機の比率均衡を大切にしようとする保守的な人間はどうしても「臆病者」になってしまう。コーデリアも、彼女の良心や理性や役割が複雑に絡みあう思慮にわざわいされて、専門家的行動ができない臆病者なのだ。マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』
「さまざまな動機の比率均衡を大切に」しようとするやり方から逃れる術を知らないコーデリアはだから、臆病な性格であるというよりは、身体的に臆病者な動きしかできないのである。一方の姉たちは、視覚のみが切り離れた状態で、「状況を明確なかたちでとらえ、それを科学的に処理する能力がある」ので、父であるリア王との対話のなかで適切に親孝行さを表現する言葉を紡ぎだすことができる。
この状況分析をもとに、編集的に適切な表現を組み立てる能力もまた活版印刷技術が生じさせたものだとマクルーハンがいう。
印刷本は史上初の大量生産物であったが、それと同時にやはり最初の均質にして反復可能な<商品>でもあった。活字というばらばらなものを組み上げるこの組み立て工程こそが均質で、かつ化学実験が〔他者の手によっても〕再現可能なように再現可能な〔活字を崩しても再びそっくりそのままに組みこむことができる〕製品を可能にしたのである。マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』
どうだろう、この引用から気づいただろうか? 結局、印刷本を大量生産することと、ベーコンが主張した実験主義の科学が重視する実験の再現性が同じ穴のムジナであるということに。
こうした変化のなかで、リア王は中世の封建制の閉じた状態をあきらめ、スペシャリストたちに開かれ分権化された状態で中央集権的なシステムに寄与する近代へと踏み出した。
その移行のなかで唯一、取り残されたのが、臆病者のコーデリアという保守体質の登場人物だったわけである。
あらゆる活動を線形システムにもとづいて再組織してゆく営みが崩壊したいま
分権化のレパートリーとして、製作者と消費者もそのひとつに挙げられる。印刷文化は製作者と消費者との分離をつくり出してしまった、とクルティウスは見る。だが、印刷はまた〈応用〉知識のための手段と同時に、それへの動機をも作り出したのである。つまり、手段は欲望を生んだのだ。マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』
このことを理解するためには「写本文化は製作者中心の文化、つまりほとんど完全な手作り文化である」ということをイメージしておく必要がある。基本的には、写本を製作する人とそれを必要とする人は同じであるか、または、同一のコミュニティのメンバーであった。それは製作する印刷会社のようなコミュニティと、読者群という別のコミュニティが切り離された状態を想定するものではなかった。
同様に印刷技術とともに、ヨーロッパは人間の長い歴史のなかで、消費を社会の原動力とする消費時代の最初の段階にさしかかったのだった。なぜなら、印刷はたんなる消費媒体であり商品であるにとどまらず、人間が自分のすべての経験、あらゆる活動を線形システムにもとづいて再組織してゆく営みを教示していたからだ。また印刷は人間に対し(計画的に生産物を販売する)支持を創り出し、国民軍を創設する方法も教えたのだった。マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』
この「人間が自分のすべての経験、あらゆる活動を線形システムにもとづいて再組織してゆく営みを教示していた」状態がふたたび、壊れ始めた時代がマクルーハンがこの本を書いた1960年代だったわけであり、そして、いまやそんな線形システムは完全にこわれている。
なのに、いまだ線形的な創造のシステムの名残にしがみついた思想を続ける保守的な人々は決して少なくないのだけれど、この保守性は、イノベーションがすでに生まれつつあることと表裏一体のものでしかない。ゴネリルとリーガンという姉たちと、コーデリアという妹が姉妹であるように、それは同じ父から生まれているのだ。
組み立てラインから出来上がってくるものを扱うことができる市場経済をつくりだすためには、長期間の心理的変質、換言すれば、知覚の型と感覚比率の変更の期間を前提としなければならない。
ある社会がある特定な、固定された感覚比率のなかに封じ込まれてしまうと、それ以外の状態にある事物・事象を頭で想像することはほとんど不可能になってしまう。マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』
知覚の型と感覚比率の変更が新しい社会を可能にする前提である。ようは社会が変わる前に、実は人間の感覚はすでに変わってしまっている。
それなのに、変化した社会に頭が適応できず、保守的な態度をとってしまうというのは、実は感覚と態度のズレという意味でも不安や緊張を誘うのであって、それを解消するためには、新しい感覚、新しい社会にあった、行動ルールや方法が整備される必要があるのだろう。保守的な人も気持ち良く態度を変えて、行動できるようなしくみが。
ただ、自分の感覚に合わない行動を続けられる保守的な人というのは、どうして、そんなに自分の身体の発するものに鈍感なのだろうとはやはり思う。いや、それ以上に、行動の型をどう変えればよいかを示してあげないと、どんなに感覚と合わなかろうと、既存の行動や考え方を続けるしかないということだろうか。
だとすれば、やはり新しい感覚にあった、新しい行動の方法を学べるしくみをつくることが急務である。「学びの解放」なんて記事で、新しい学び・教育の場について考えているということを言葉にしてみたのもそんなこととも関係している。
とにかく、保守的であるというのは、ここまで書いてきたような意味で、本人たちの身体ともズレているわけで本人にとっても社会にとっても健全ではないのだから。
これからの時代、保守的でなくいることとはなんなのか?
だが、事はそれほど単純ではない。なぜなら、いま起こっている変化が、マクルーハンが問題にしてきたような人間の拡張をはるかに超えているからだ。春先に「流動的で複雑な系が前提となった時代にリサーチすることとは?」という記事を書いたが、微生物の働きの影響範囲についての理解からはもはや、人間はみずからを世界のなかから個別に切り出してみることはできなくなっているし、人間が生み出した人工物はもはや自然物ともつれあいすぎているし、ポストヒューマンなテクノロジーが、いまや拡張の対象が人間ではなくなっていることを示している。
マクルーハンが主に、人間の感覚の拡張を相手にしていたとすれば、いまや人間だとか感覚だとかを超えて、感覚として認識されていた世界、自然、エコシステムそのものが人間自身にもよくわからない状況で拡張され始めている。
こうした大きな変化のなかで、保守的ではなくいるということはどういうことか?
少なくとも、そういうことを考えていくためにも、従来型の保守的態度などはとっとと捨ててしまいたいと思うし、捨てられるような新しいしくみをどんどん作っていきたいと思う。
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