国家・民族

明治維新150年の秋に、明治政府の犯した「罪」を学ぶ

シリーズ・明治の光と影(1)

偉業を称えるだけではなく

来年2018年は、明治改元(1868年)から150年目に当たるため、政府や地方自治体では「明治150年」を謳ったイベントが数多く準備されている。

政府が手掛けるものは、近代国家の成立に尽力した明治維新の偉業を称える「明治礼賛」色が強く、一方、地方自治体では、それに加えて明治維新ゆかりのスポットを観光客誘致に最大限活用するといった「地方創生」戦略の一環という面がある。

例えば、10月7日に東京ビッグサイトで開催された「明治150年記念薩長土肥フォーラム」は、明治維新の原動力となった薩摩(鹿児島県)、長州(山口県)、土佐(高知県)、肥前(佐賀県)の4県が、各県出身の偉人にまつわる功績にスポットを当てながら、観光名所や特産品を大々的にアピールしたものだ。

もっとも、このイベント自体に政治性はなく、開催理由はもっぱら経済的な動機付けによる。しかし皮肉なことに今日の地方の衰退は、なんと明治政府の政策に元凶の一端があるともいえる。本シリーズではそれを明らかにしていこうと思う。

「現在の不自由」が「過去の出来事」に基づくものであるのならば、「過去の栄光」ばかりを編纂して夜郎自大になるのではなく、「過去の失敗」も〝誇るべき悔恨〟として先人に学ばなくてはならない。「もっと光を!」と同じくらい「もっと闇を!」と叫ぶべきなのだ。

「なんという国賊じゃ!」

明治維新といえば近代日本の起点である。維新後間もない明治4年から岩倉具視を正使とする総勢百名に上る「岩倉使節団」が、国書の提出や海外列強と結んだ不平等条約改正の予備交渉のため奔走していたことは有名な話だ。

だが、「ある事件」に対する明治政府の方針が、欧米諸国との外交交渉のネックとなっていたことはあまり知られていない。

「ある事件」とは、「浦上四番崩れ」と呼ばれるキリスト教徒への弾圧事件である。江戸時代末期の長崎県の浦上地区で起こったカトリック信徒の大量捕縛を、明治政府が引き継いだもので、御一新によって旧習が打破され解放されるかと思いきや、最終的な処遇は「文明開花」のイメージとは懸け離れたものとなった。

明治政府は、総勢3000人ものカトリック信徒を村ごと「総流罪」とする決定を下し、およそ6年間にわたって身体拘束や拷問などの事実上の虐殺行為を容認し続けたのだった。

当時の政府の基本方針は、いわゆる「神道国教主義」だった。天皇の宗教的権威を復活させ、すべての神社を国家祭祀の施設とし、国民を天皇の臣民として教化することを目論んでいた。そこで、キリスト教などは「天皇の神格化」とは相容れない原理を持つ信仰とされ、江戸時代とは異なる文脈で改めて排撃すべき対象として再浮上したのである。

浦上地区の役人たちは、カトリック信徒たちに改宗を迫り、それを拒まれると、信徒たちに向かってこう吐き捨てた。

「この宗旨は久しい以前から御禁制になっているのじゃ。御維新になったからとて変わるものではない。天皇の御祖先たる皇大神宮を拝まないとは、なんという国賊じゃ」(*1)。

流刑先の一つである長州藩(山口県)では、神官がカトリック信徒に対し、

「日本にいて外国の宗旨を奉ずるような奴は日本人じゃない。外国に出て失せろ。日本の土を踏むことは相成らぬ、宙を飛んでいけ」(*2)

などと罵った。

「勘弁小屋」に「雁木牢」

これらの言葉の暴力は、ほんの序章に過ぎなかった。

全国各地の流刑先で信徒たちを待ち構えていたのは、身体的・心理的虐待のオンパレードであり、今でいう「ジェノサイド」に当てはまる犯罪行為だった(ジェノサイド条約第2条 http://www.preventgenocide.org/jp/jyouyaku.htm)。

信徒たちは、毎日呼び出され、砂利の上に正座させられると、「改心しろ」と怒鳴られて鞭やウナギ鋏(刃の部分にトゲのついた、ウナギを捕まえる時に用いる鋏)で暴行を加えられた。「殺すぞ」と脅迫されてはこん棒で殴られ、頭から血が噴き出ると、塩を振りかけられてさらに殴打された者もいた。

説得が困難だと判断された者は、「勘弁小屋」に放り込まれた。

「勘弁小屋」とは、四畳半一間の牢屋で、小さな差入れ口を除いて窓はなく、床に一枚筵が敷いてあるだけ。二十日間でも三十日でも食料を与えないまま放置され、飢餓状態に追い込まれた末に、棄教を申し出る者が続出したという。中央政府の視察員として岩国の収容施設を訪れた外務権大丞(たいじょう)の楠本正隆が、信徒の衰弱し切った様子にショックを受け、待遇の改善を申し入れるほどであった(*3)。