はじめに
ナチスの手を逃れ、やがてイギリスにたどり着いたバーリン。この時代、こんなユダヤ人碩学たちが多く現れた。
絶対主義を掲げるファシズムやマルクス主義を、彼はきっと何とかして覆したかったのだろう。「消極的自由」と「積極的自由」を区別し、前者を重視したバーリンからは、その気魄が存分に感じられる。
1.自由と自由の条件を区別する
「自由と自由の行使の条件とを区別すること、このことは重要である。もし、ある人があまりにも貧乏・無知・虚弱であって自分の法的権利を利用しえないとすれば、この権利によって彼に与えられる自由が彼にとっては無意味であるとしても、この自由はそのことによってなくなってしまうわけではない。」
これはとても重要な指摘だ。法律で「自由」が保障されていても、それが「実質化」されなければ意味がない。だから自由の条件を整備すること、その重要性をバーリンは説くわけだ。
2.消極的自由と積極的自由
バーリンはこの両者を区別し、消極的自由こそが尊重されなければならないものだと力説する。
消極的自由について、バーリンは次のように説明している。
「この意味において自由であるとは、他人によって干渉されないということだ。干渉を受けない範囲が広くなるにつれて、わたくしの自由も拡大されるのである。」
消極的自由とは、「〜からの自由」のことなのだ。
対する積極的自由は、「〜への自由」あるいは「自己支配」のことだ。ここには、誰かに干渉していこうとする自由が含まれる。
だから、しばしばこの二つの自由概念は衝突する。そうバーリンはいう。
そこでバーリンは、消極的自由の領域を確保せよ、と主張する。なぜなら、「〜からの自由」こそがバーリンによれば自由の本質であるからだ。他者への介入は簡単には正当化されえないが、消極的自由は何びとも侵されてはならない領域なのだ。
バーリン以来、これを肯定的に捉えるにせよ否定的に捉えるにせよ、「積極的自由」と「消極的自由」の区別は、現代において「自由」が論じられる際、多くの場合前提とされてきた。
その理由をここで詳論するのは控えるが、先述したように、徹底的に考え抜かれた「自由」論は、わたしの考えではヘーゲルにある。
ご興味のある方には、ヘーゲル『法の哲学』のページをご一読いただければ幸いだ。
(苫野一徳)
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