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アーレント『革命について』

はじめに

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 アーレントという独特の思想家に、私は強く惹かれると同時に、また強く抵抗したい気持ちにもかられてしまう。

 幅広く深い教養と、それに支えられた洞察力。抑制されながらもにじみ出る、人間への愛情、そして、独特の思想言語。

 何をとっても超一流の思想家だが、だからこそ、こちらの実存を奇妙にゆさぶってくるところがある。

 その理由は何だろう、と長い間思っていたが、かつて本書を読んで、なるほど、アーレントは見事すぎる「批評家」なのだ、と思って妙に納得したことがある。

 その幅広い教養を縦横無尽に駆使して、歴史的あるいは現代的事象を鋭く捉える。しかしその手腕があまりに見事すぎて、私も含めてあらゆる事象が、彼女の思考の枠内にすっぽり収められてしまうような、そんな居心地の悪さがある。

 もちろんそれは、力強い哲学的思考の条件ではある。

 しかし私は、そのスタイルに、敬服すると同時にかすかな違和感を抱いていた。

 まったく個人的な趣味の問題だが、私はアーレントのように、「世の中はこうなっているんだ、どうだ、そうだろう」という「批評」スタイルに、若干の居心地の悪さを感じる。

 むしろ私は、「こんな風に考えてみればこんなにも豊かな社会を構想できる、さあどうですか」という、そのようなスタイルを磨きたいと考えている。

 完全に個人的な趣味の問題だけれど、アーレントという独特の思想家は、こんな風に、「思想する」ことの意味を根底から考えさせてくれるようなところがある。

 ともあれ、本書について。

 アメリカ革命フランス革命を比較しつつ、なぜ前者はある程度「成功」し、なぜ後者は「失敗」に終わったのか、鋭い分析を試みている。

 革命とは何か、その意義は何か、そしてどうすれば、われわれは豊かな社会を創設できるのか。アーレントの思考は、相変わらず冴え渡っている。


1.革命の意味

 アーレントによると、革命の目的とは「自由の創設」である。

 それは、単なる古い権力からの解放を意味しない。アーレントは言う。

「解放(liberation)と自由(freedom)とが同じでないことはわかりきったことであろう。解放は自由の条件ではあるが、けっして自動的に自由をもたらすものではないからである。そして解放のなかに含まれているという観念は、どう考えてもネガティヴの域をでない。したがって解放への意図ですらへの欲求とは同じものではない。」
 
 libertyとfreedomを区別せよ

 革命とは、単なる古い権力からの解放ではなく、自由の構成をめざした「新しいはじまり」を意味している。そしてまた、そのようなものでなければならないのだ。アーレントはそのように言う。

「革命という現象が変化だけでは説明できないのと同様に、暴力だけでも説明不十分である。すなわち、ある新しいはじまりという意味で変化が起り、暴力がまったく異なった統治形態を打ち立て、新しい政治体を形成するために用いられ、抑圧からの解放が少なくとも自由の構成をめざしているばあいにのみ、われわれは革命について語ることができるのである。」



2.アメリカ革命とフランス革命

 さて、では現実に起こった革命は、果たして本当に、自由の構成をめざした「新しいはじまり」であっただろうか。

 アーレントの評価では、アメリカ革命はそうだった。しかしフランス革命は、自由の構成に失敗した革命だったといわざるを得ない。

 なぜか。フランス革命においては、自由の構成という革命の目的が、いつのまにか「貧困」の絶滅という「社会問題」に転換されてしまったからだ。

 このことが、ロベスピエールによる恐怖政治を生む直接的原因となった。そうアーレントは指摘する。

「テロを解き放ち、革命を滅亡にまで追いこんだのは必然性〔貧窮〕であり、人びとの緊迫した欠乏であった。」
「この間に革命はその方向を変え、もはや自由が革命の目的ではなくなっていた。」

 貧困の絶滅という社会問題解決の欲求の底には、貧者に対する同情がある。これは、ルソーが社会思想に持ち込み、ロベスピエールが実践し、そうしてテロルを巻き起こした動力だ。そうアーレントはみる。

「徳の源泉と考えられた哀れみは、残酷さそのものよりも残酷になる能力を持っていることを証明している。『哀れみのため、人間にたいする愛のため、非人間的になれ!』――パリのコミューンのあるセクションが国民公会にあてた請願書のなかからほとんど任意に抜きだしたこれらの言葉は、偶然的なものでもなくまた極端なものでもない。これは哀れみの真実の言葉である。」

 ちなみに、私の考えでは、アーレントのルソー批判はやや不当なものだ。

 『社会契約論』のページにも書いたが、ルソーほど、尊敬され、また同時に嫌われている思想家はほかにいない。そして彼が恐ろしく嫌われている理由の1つは、ロベスピエールが、ルソーの理論の忠実な体現者を自ら任じていたところにある。

 恐怖政治の根源にはルソーがいる。これは長らく通説でもあった。

 しかし私の考えでは、このような批判はほとんど不当なものだ。

 たとえばアーレントは「一般意志」を「完全一致」を要請する暴力的概念として捉えているが、これはまったく的を外した批判だ。「一般意志」は、社会権力は市民全員の「意志」を代表しうるときにのみ「正当」と言いうる、という権力の「正当性」の原理であって、皆の利害を完全に一致させなければならないなどという要請の原理では断じてないルソー『社会契約論』のページ参照)

 また、確かにルソーは「同情」「憐れみ」の重要性を説きはしたが(ルソー『人間不平等起源論』のページ参照)、そのゆえに、貧者のために徹底的に富者を滅ぼせなどとは一言も言っていない。

 私がアーレントのルソー批判が不当だと思うのは、こんな風に、アーレントがかなり強引に自分の文脈でルソーを解釈してしまっているところにある。

 ともあれ、先に進もう。


 フランス革命が、以上のように自由の構成から社会問題の解決へと目的を転換させてしまったのに対して、アメリカ革命は、最初から最後まで、自由の構成を目的として貫き通した。

「アメリカ的立場が実際上宣言しているのは、全人類は文明化された政府を必要としているということ以上のことではない。これにたいし、フランス的立場は、政治体から独立して、またその外部に権利は存在していると宣言しており、さらに進んで、このいわゆる権利――すなわち人間としての人間の権利――を市民の権利と同等視している。」

 フランス革命は、人は生まれながらに平等だという思想を生んだ。しかしこれは、いわばあらゆる権力や支配を否定する考えにつながってしまう。

 しかし、人間が他者とともに、しかも自由な存在として生きるためには、公的なもの、つまり「政治体」が必要なのだ。

 自由になるために、自由を保障できる公的空間を設立する。アメリカ人はこのことをよく知っていた。そうアーレントは指摘する。

 その理由を、彼女は次のように述べる。

 まず、アメリカはイギリスの「制限君主制」下において革命を起こしたということ。

 フランス革命は、「絶対王政」下における革命だった。人びとは、まずとにかく権力を絶対的に打ち倒さなければならなかった。それゆえに、革命家たちには新しい権力を構成するという発想がなかなか生まれなかったのだ。

 それに対して、アメリカには、「制限君主」に代わるよりよい「権力」を構成するという発想がそもそものはじめから存在していた。

 あるいは、アメリカにはフランスのような「貧困」という「社会問題」がほとんど存在しなかったことも幸いした。(奴隷制という、貧困問題を覆い隠すさらなる問題は存在したが。)

 だから、革命の目的を常に「自由の構成」に定め続けることができたのだ。

 アメリカ革命がわれわれに教えたことは何か。アーレントは言う。それは、人間は複数性を基礎とした人間のつながりにおいてのみ、真に人間らしく「活動」できるということだ、と。


「個人としての人間をも信頼できるのは、ひとりの人間ではなく複数の人間がこの地球上に住み、彼らの間に世界を形づくっているという事実があるためである。人間性の落し穴から人びとを救うのは、人間のこの世界性なのである。」



「権力とは、人びとが約束をなし約束を守ることによって創設行為のなかで互いに関係し結びあうことのできる、世界の介在的(in-between)空間にのみ適用される唯一の人間的属性である。そして、それは政治領域では最高の人間的能力とみてさしつかえないだろう。」



(もっともアーレントは、その後のアメリカは、このような革命精神を持続・発展させることができなかったと失望している。)




3.自由になるために=現れの空間

 こうしてアーレントの問いは、人は自由になるためにどのような社会をつくる必要があるか、というものへと結実していく。

 彼女の答えは、主著『人間の条件』で示されたものと基本的にはまったく同じだ(アーレント『人間の条件』のページ参照)。

「公的幸福を共有することなしにはだれも幸福であるとはいえず、公的自由を経験することなしにはだれも自由であるとはいえず、公的権力に参加しそれを共有することなしには、だれも幸福であり自由であるということはできない」のだ。

 そのような自由の空間を、アーレントは「現れの空間」と呼ぶ。

「ポジティヴな意味における自由は、平等な者のあいだにのみ可能である。そして、平等そのものは、けっして普遍的に妥当な原理ではなく、やはり限界づけを伴っており、空間的限界の内部においてのみ適用できるものである。このような自由の空間は、――ジョン・アダムズの用語をそのまま使うのではなく、ただその主旨にしたがっていえば――現れの空間(space of appearance)とも呼ぶことができよう。」

 まず、対等——平等と訳すより対等と訳したほうがいいと私は考えている——が条件である。

 そして、対等な存在同士として、私は何者か、あなたは何者か、と、相互に生き生きと問い合える空間。これが現れの空間である。そこでは多様な意見(opinion)が飛び交い、人々は皆、「『表明し、議論し、決定する』活動にたずさわる」ことができる。

 私たちの政治社会は、市民不在の「代表者」たちによる決定で動かされてしまいやすいものだ。

 しかし私たちは、できるだけ皆が意見を表明し合い、政治社会において現れ出ることができるような社会を構想する必要がある。

 そうなってはじめて、わたしたちは自由な社会を現実のものとすることができるのだ。

 アーレントはそう主張する。


(苫野一徳)



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