第一次大戦が終わったとき、ヨーロッパやアメリカには喪失感を抱く人たちが生まれた。作家のヘミングウェイたち、いわゆるロスト・ジェネレーション世代の人たちである。
彼らに共通していたのは、これまで信じていたものが信じられなくなったという心情であった。
とするとそれまでは何を信じていたのだろうか。それは、人間はよりよき社会をつくることができるという、近代における絶対的イデオロギーである。
近代的な理念は、ことごとくヨーロッパから発せられたといってもよいけれど、その理念はキリスト教社会がもっていたものから神を抜くかたちで成立したものが多い。
神の教えを皆が守って生きていけば、よりよき生が得られるとともに、よりよき社会も生まれてくるというという考え方は、人間たちが道徳的、倫理的に生き、よりよき未来の発展を目指して生きていけば、よい社会ができていくという発想に代わった。
神への義務をはたす者に、神は人間としての権利と神の下での自由を与えるというとらえかたは、社会に対する義務をはたす者は自由な権利を与えられるというものに変化した。
思想は前の社会に存在していたものを、新しい視点から読み直して改変するというかたちで生まれてくるものなのである。
とすると、なぜ人間にはよりよき未来をつくる力があるというのだろうか。それは、人間には理性があるからだ、とされた。そしてそれもまたキリスト教社会の発想だった。なぜ人間は神の教えを守ることができるのか。理性があるからである。この理性によってつくられるものが、神の教えを守ることからよりよき未来をつくることへと代わった。
それが近代への転換である。
この考え方が正しいとするなら、歴史はより自由でより理性的な社会を目指して発展しているはずだった。
ところが第一次大戦が起こる。近代の理念を共有しているはずのヨーロッパで国民間の戦争が起こった。
ここから、はたして歴史はよりよい社会の形成を目指して動いているのだろうかという疑問が出てきた。
非欧米諸国の人間からみれば、それはヨーロッパが生み出したローカル理念がつまずいたにすぎないのだが、欧米の人たちはそうは思わなかった。よりよき世界の先頭に自分たちは立っていて、ヨーロッパ的理念の世界化をとおして、これからの世界は発展、進歩を遂げていくと思っていたのである。
この信じられていたイデオロギーが、第一次大戦によって揺らいだ。
このとき、近代的理念の検証を徹底的に深めていけばよかったのだけれど、それをなしえないままに戦勝国は終戦後の勝利感や経済発展に飲み込まれていく。そして再びヨーロッパ人同士が殺し合う第二次大戦が勃発した。
だがこのときも近代的理念の検証はおこなわれなかった。
戦勝国はこの戦争をファシズム対民主主義の戦いにすり替えてしまったのである。
しかも都合のよいことに、ドイツにはユダヤ人やロマ人を虐殺したナチスが存在していた。もちろんこの大虐殺は批判されなければならないが、戦勝国はナチスの存在によって「救われた」のである。これはファシズムとの戦いであり、近代的理念が傷ついたわけではないというかたちで。
フランスでは多くの人がナチスに協力し、ナチスと共に生きた数年間はなかったことになり、あたかも全員がレジスタンスに加わったかのような虚構がつくりだされた。アメリカの兵士は、自由のために戦った戦士になった。
この虚構の上に戦後的秩序がつくられ、結果的にはそれを支える役割をはたしたのが、米ソ対立の世界であったといってもよい。まるでファシズムと民主主義の戦いの延長戦のようなかたちで、共産主義と民主主義の戦いが正当化されていく土壌が生まれたのである。