実生活の方で色々ありまして、長らくブログをほったらかしにしてしまって申し訳ありませんでした。
「富とジェリー」、再始動です。
今回は、『デアデビル』『ジェシカ・ジョーンズ』『ルーク・ケイジ』に続く、4人目にして最後のディフェンダーズ、『アイアン・フィスト』シーズン1を分析します。
©『アイアン・フィスト』/マーベル・テレビジョン/ABCスタジオ/Netflix
1.概要
『アイアン・フィスト』は同名のコミックスなどを原作としたドラマで、マーベル・シネマティック・ユニバース(以下MCU)に含まれます。
アイアン・フィスト=ダニー・ランドは、異次元に存在する秘境クン・ルンで拳法を極めし男です。
不死の龍ショウ・ラウを倒し、「アイアン・フィスト」の称号を手にしたことで、絶大なパワーの「気」をその拳に宿すことができます。
2.感想と見所
いやはや、これまでで一番、予想と違う作品が出てきました。
こういうアプローチで来るとは思っていなかったので、裏をかかれた感がすごいです。
僕が驚かされたのは、『アイアン・フィスト』のリアリティの強さです。
「光る拳を持つヒーローが忍者たちと戦うなんてどこがリアルだ!」と言われてしまうかもしれませんが、そういうことではないんです。
僕はフィクションにおける「リアリティ」とは二種類あると思っています。
「設定上のリアリティ」と「演出上のリアリティ」とでもいいますか。
SFにおいて宇宙人や超能力が登場したり、ファンタジーにおいて魔法が登場したり、ホラーにおいて幽霊や怪物が登場したりするのは、「そういう設定のフィクションだから」であり、それがその作品の「設定上のリアリティ」です。
落語において扇子を箸に見立てたり、舞台において箱馬を椅子に見立てたり、少女漫画においてイケメンばかりが出てきたり、バトル漫画において主人公がギリギリで戦いに間に合ったり、コメディにおいて犯罪が笑いごとで済んだりするのは、「そういう演出のフィクションだから」であり、それがその作品の「演出上のリアリティ」です。
(念を押しますが、僕が勝手にそう呼んでるだけです。)
僕が『アイアン・フィスト』を見て強いと感じたのは、後者の方です。
ドラマというものは、基本的に、映画よりも「演出上のリアリティ」が弱めなことが多い気がします(もちろん作品にもよります)。
演技が若干大きめだったり、展開がある程度露骨だったりします。
恐らく、映画では「観賞する側が作品の方に近づいて詰める」距離を、テレビでは「作品の方が視聴する側に近づいて詰める」という前提があり、そのために分かりやすくデフォルメされた演出が求められるのだと思います。
その点、Netflixオリジナルのドラマは、テレビを媒体としていないので、映画と同じような距離感の扱い方を視聴者に期待できます。
ドラマを「ドラマのパターン」という演出から一度解放し、ヒーローを「ヒーローのパターン」という演出から一度解放することで、「演出上のリアリティ」の強さを自在にコントロールすることが可能なのです。
『アイアン・フィスト』シーズン1は、その特性が最も端的に表面化したシリーズとなっています。
アイアン・フィスト(=ダニー・ランド)は、マーベル全体で見ても上位の強力なヒーローです。
本来なら、無敵のアクションで悪をちぎっては投げる、痛快なお話にいくらでもできます。
ところが、このドラマではそうはいかない。
「気」は集中しないと使えないし、倒すべき敵は流動的で誰なのかはっきりしないし、味方にも信じてもらえない。
一言でいうと、「ヒーローがなかなかヒーローさせてもらえない」。
「ヒーロー本人」、「ヒーローと対峙する者」、「ヒーローに守られる者」というシンプルな構造が、なかなかそろわない。
リアリティを調整することで、「ヒーローの物語」と「裏社会」を両立させた『デアデビル』、「ヒーローの物語」と「ヒーローじゃない女」「サイコ」を両立させた『ジェシカ・ジョーンズ』、「ヒーローの物語」と「土着性」を両立させた『ルーク・ケイジ』とは異なり、今回は両立ではなく、完全にリアリティが「ヒーローの物語」を壊しにかかっているのです。
そして、その構造そのものが魅力になっている。
最強の称号と能力はすでに手に入れたはず。
なのに、戦士であることは単純にはいかない。
その歯がゆさ、煮え切らなさこそが、若きダニーが直面する最大の試練。
そう、魑魅魍魎が渦巻くこの俗世において、修行はまだ終わっていないのだ……。
かといって、派手なところはきちんと派手で、そのバランス感覚も見事です。
主人公補正低めの主人公を基点としたリアルで奥行きのある人間ドラマと、ディフェンダーズ最後にして最年少のヒーロー、アイアン・フィストの二つの意味の「戦い」を、ぜひご覧あれ。
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