元少年Aが出版した『絶歌』という本に対して、大変なバッシングが起きている。
もちろんだと思うし、何よりそうあるべきだ。私自身、もともと少年犯罪に対して厳しい態度をとってきた人間なので、発売翌日には本屋に走り、このブログ上で徹底的に叩きのめしてやろうと思ってこの本を購入してきた。
要は資料として、だ。
しかし、前回のブログにも示したように、実際に読んでみると、考えていた内容と違った。読めば読むほど、これは、ひょっとしたら意義のあるものなのではないか?という考えが頭をよぎり、(この本は2部構成になっているのだが)第2部を読み終えた段階で、なぜ批判を覚悟で…と言うよりも、批判されることを分かっていたにもかかわらず、大田出版が出版に踏みきったのかも、少し理解できた気がした。
結論から言う。この本の出版も、この本自体も、そもそも元少年Aも、厳しく否定されるべきである。それは前回のブログにも記したとおりだ。
このような出版物を出すにあたって、犯罪被害者に許可をとりもせずに黙って出版はありえない。言うまでもなく、バッシングされるべきだし、今起きている批判は当然のことである。しかし、その点を除けば、批判的意見の中に、私は決定的に欠けている視点が存在すると感じる。そこを提示したことが、この本の意義だと感じているのだが、以下に、この元少年Aの本を批判する方々に
『決定的に欠けている視点』
を僭越ながら指摘させていただきたい。
前回の私のブログには大変多くのお叱りのコメントを頂いた。それらの批判コメントの中に、
「長谷川は、自分の子供たちが被害にあったら同じように言えるのか?」
というものがあったが、では、私から逆に問う。この『絶歌』を批判している、自称『正義の味方君たち』に問う。悪をネット上で叩きのめすコメントを書き込み、悦に入っている、そこの貴方だ。
「あなた方は、加害者になったときに、同じように質問してくるのか?」
答えていただきたい。私のブログに汚い言葉でいろいろ書いてきた人間、全員答えていただきたい。もう一度聞こう。答えていただきたい。
「あなた方は、『加害者の側になる可能性がある』のだが、それは考えたことがないのか?」
きわめてシンプルな質問だ。大半の「ええカッコしいの偽善者」はこの質問に対して「考えていない」のだ。住民票をお花畑に変更することをお勧めする。自分は一切巻き込まれないとでもカン違いしているのだろうか?
この元少年Aの著書は、前半と後半に分かれている。前半部分、この元少年Aがどのように狂ってゆき、どのような変調を来たし、どのような兆候が見られ、「ごくごくありふれた当たり前の家庭」から、「完全に病気と後に診断される殺人者が生まれる」までの過程を克明につづられている。私がこの第1部で感じた感想、それは…
私の子供たちだって、そうなる可能性がある
ということだった。日本中、誰でも子供がいれば感じる気持ちのはずだ。中には、私に「長谷川は独身なのか」とネットをググれば2秒で答えの分かる低レベルな質問をしてきたバカがいたが、私には3人の子供がいる。親として感じたのだ。
元少年Aの家族に、誰でもなる可能性があるのだ。
この視点を、この本は明確に提示しているのだ。同時に、平和ボケした日本人には、この視点がとても足りないのだ。被害者が語り、被害者が涙を流し、被害者の立場を慮る(おもんばかる)ことは、現代の日本ではとても多くのシーンで目にすることがあるのだが、「加害者側」は日本では、くさいものとして扱われ、蓋をされるために
何もしゃべることを許されないのだ。
日陰で暮らすしかなくなるのだ。
関係のない人間が寄ってたかってリンチするからだ。
しかし、何故みんな気づかないのだろう?「被害者になる可能性」と「全く同じ数」の「加害者になる可能性」がある、という事実に。批判している人の気持ちは分かるが、もう少し視野を広げるべきだ。
自分は正常だ?いや、子供がそうなる可能性があるじゃないか。
自分はちゃんと子育てしてる?いや、元少年Aの家族もいたって正常だしちゃんと子育てしてる。この本、読んでくれ。
この元少年Aは、のちに国が決めた超専門家たちによって徹底的な分析が行われ、その結果、明確に「病気である」と診断されている。なので「医療少年院」に送致されているのだが、
病気というものは…誰でもなる可能性はあるものなのだ。
カン違いしないでいただきたい。この元少年Aは「殺人鬼」ではなく「病気」だったと診断されているのだ。この判断に文句があるのであれば、それはその診断をした専門家に言ってくれ。私にドーノコーノと言ってくるな。
さらに
「被害者の家族のことを考えろ!」
というコメントを頂戴したが…もちろん、そんなこと分かった上で、前回のブログは書いている。被害者家族の思いとは、100人に聞いても200人に聞いても同じである。そう。たった一つだ。
もう、二度と同じような悲劇を繰り返させないでほしい。この一点だ。これは全員が同じことを言うのだ。
犯人を恨んでしまう人も多い。生きる気力を失ってしまうことも多い。だが、何を言っても、もう亡くなった人は帰ってこない。被害者家族を救うべく、我々がするべきことは一つだ。
「同じような悲劇を繰り返させないこと」だ。
その為に必要なことは「知識」だ。それも出来るだけ「正確」な「知識」だ。日本では、加害者側からの告白…特に、このように人を2人も殺しておいて病気だと診断され、治療を受け、その後社会復帰している、という人間は、実はほぼ存在しない。そもそも、人を2人殺した段階で、ほぼ死刑だからだ。
しかし、元少年Aは、生きている。確かに存在している。しかも、専門の医師たちが「病気は治った」と判断できた状態で。
この証言は、まぎれもなく、今の無菌状態大好き日本において「極めて珍しい情報源」だ。
この本の第1部には、元少年の人格が次第に壊れていき、どんどん狂っていき、その過程で、どんな兆候が表れたのか、どんな言動になっていったのかを克明に記してある。性的な興奮を求めて、猫を殺し、エスカレートしていく過程などを、とにかく逃げずに描写してある。
皆さんのそばに、似た兆候の人間はいないだろうか?
情報があれば、人間は対処できる。全部とは言わないが、対処できる可能性が広がることは確かだ。元少年Aはまぎれもなく異常状態だった。完全な病気だった。普通の家庭に、異常な少年が生まれただけだ。何度も私のブログで書いていることだが、1億2700万人も人間がいたら『不良品』は存在する。これは事実だ。
私は、メディアにいる人間なので、被害者の味方をすることで、ええかっこしいをするつもりはない。既にそこに悲劇はあった。で、あるならば、その事実から何かを学ばなくて、どうする?被害者家族に同じことが出来るのか?そんな悲劇があったのに、冷静に分析なんてできる訳ないだろう。我々、まだ一歩引いた目線に立てる人間が、冷静に分析しなくてどうする。
私たちこそが、被害者側にも、加害者側にも立たずに、未来の犯罪を減らすために冷静さをもって分析すべきなのだ。少なくとも、私はそう思っているので、正直な感想を書いたまでだ。
この本には、周囲に潜む可能性のある「異常人間」たちを見抜くヒントが多数記されている。読めば、犯罪の予見につながる可能性が高い。それほどリアルに描いてある。
この本の後半には、犯罪予備軍が読めば、「絶対に犯罪なんてしないでおこう…」と感じてしまう、「犯罪者のリアルな出所後」が記されている。これを読んだ直後に「よし!犯罪するぞ!」となる人間はかなり少ないと思う。こちらも、あまりに苦しい状況がちゃんと書いてある。
印税で儲けようとしている、という想像力豊かな人間が多数いるようだが、それもこの本を読めば、ちゃんと書いてある。この元少年Aは金のためにこの本を書いたんじゃない。いや、むしろ、金に執着がとにかく無い方の人間だ。ご遺族への送金か、迷惑をかけた家族への送金にするのだろう。とにかく儲けたくて書いたわけじゃない。それは明確に書いてある。
以上から、私は、出版社のミスは間違いなく糾弾されるべきだと思いながらも、この本は「最低限の意義」は感じられるものとなっている、と判断した。
以上だ。
もちろんだと思うし、何よりそうあるべきだ。私自身、もともと少年犯罪に対して厳しい態度をとってきた人間なので、発売翌日には本屋に走り、このブログ上で徹底的に叩きのめしてやろうと思ってこの本を購入してきた。
要は資料として、だ。
しかし、前回のブログにも示したように、実際に読んでみると、考えていた内容と違った。読めば読むほど、これは、ひょっとしたら意義のあるものなのではないか?という考えが頭をよぎり、(この本は2部構成になっているのだが)第2部を読み終えた段階で、なぜ批判を覚悟で…と言うよりも、批判されることを分かっていたにもかかわらず、大田出版が出版に踏みきったのかも、少し理解できた気がした。
結論から言う。この本の出版も、この本自体も、そもそも元少年Aも、厳しく否定されるべきである。それは前回のブログにも記したとおりだ。
このような出版物を出すにあたって、犯罪被害者に許可をとりもせずに黙って出版はありえない。言うまでもなく、バッシングされるべきだし、今起きている批判は当然のことである。しかし、その点を除けば、批判的意見の中に、私は決定的に欠けている視点が存在すると感じる。そこを提示したことが、この本の意義だと感じているのだが、以下に、この元少年Aの本を批判する方々に
『決定的に欠けている視点』
を僭越ながら指摘させていただきたい。
前回の私のブログには大変多くのお叱りのコメントを頂いた。それらの批判コメントの中に、
「長谷川は、自分の子供たちが被害にあったら同じように言えるのか?」
というものがあったが、では、私から逆に問う。この『絶歌』を批判している、自称『正義の味方君たち』に問う。悪をネット上で叩きのめすコメントを書き込み、悦に入っている、そこの貴方だ。
「あなた方は、加害者になったときに、同じように質問してくるのか?」
答えていただきたい。私のブログに汚い言葉でいろいろ書いてきた人間、全員答えていただきたい。もう一度聞こう。答えていただきたい。
「あなた方は、『加害者の側になる可能性がある』のだが、それは考えたことがないのか?」
きわめてシンプルな質問だ。大半の「ええカッコしいの偽善者」はこの質問に対して「考えていない」のだ。住民票をお花畑に変更することをお勧めする。自分は一切巻き込まれないとでもカン違いしているのだろうか?
この元少年Aの著書は、前半と後半に分かれている。前半部分、この元少年Aがどのように狂ってゆき、どのような変調を来たし、どのような兆候が見られ、「ごくごくありふれた当たり前の家庭」から、「完全に病気と後に診断される殺人者が生まれる」までの過程を克明につづられている。私がこの第1部で感じた感想、それは…
私の子供たちだって、そうなる可能性がある
ということだった。日本中、誰でも子供がいれば感じる気持ちのはずだ。中には、私に「長谷川は独身なのか」とネットをググれば2秒で答えの分かる低レベルな質問をしてきたバカがいたが、私には3人の子供がいる。親として感じたのだ。
元少年Aの家族に、誰でもなる可能性があるのだ。
この視点を、この本は明確に提示しているのだ。同時に、平和ボケした日本人には、この視点がとても足りないのだ。被害者が語り、被害者が涙を流し、被害者の立場を慮る(おもんばかる)ことは、現代の日本ではとても多くのシーンで目にすることがあるのだが、「加害者側」は日本では、くさいものとして扱われ、蓋をされるために
何もしゃべることを許されないのだ。
日陰で暮らすしかなくなるのだ。
関係のない人間が寄ってたかってリンチするからだ。
しかし、何故みんな気づかないのだろう?「被害者になる可能性」と「全く同じ数」の「加害者になる可能性」がある、という事実に。批判している人の気持ちは分かるが、もう少し視野を広げるべきだ。
自分は正常だ?いや、子供がそうなる可能性があるじゃないか。
自分はちゃんと子育てしてる?いや、元少年Aの家族もいたって正常だしちゃんと子育てしてる。この本、読んでくれ。
この元少年Aは、のちに国が決めた超専門家たちによって徹底的な分析が行われ、その結果、明確に「病気である」と診断されている。なので「医療少年院」に送致されているのだが、
病気というものは…誰でもなる可能性はあるものなのだ。
カン違いしないでいただきたい。この元少年Aは「殺人鬼」ではなく「病気」だったと診断されているのだ。この判断に文句があるのであれば、それはその診断をした専門家に言ってくれ。私にドーノコーノと言ってくるな。
さらに
「被害者の家族のことを考えろ!」
というコメントを頂戴したが…もちろん、そんなこと分かった上で、前回のブログは書いている。被害者家族の思いとは、100人に聞いても200人に聞いても同じである。そう。たった一つだ。
もう、二度と同じような悲劇を繰り返させないでほしい。この一点だ。これは全員が同じことを言うのだ。
犯人を恨んでしまう人も多い。生きる気力を失ってしまうことも多い。だが、何を言っても、もう亡くなった人は帰ってこない。被害者家族を救うべく、我々がするべきことは一つだ。
「同じような悲劇を繰り返させないこと」だ。
その為に必要なことは「知識」だ。それも出来るだけ「正確」な「知識」だ。日本では、加害者側からの告白…特に、このように人を2人も殺しておいて病気だと診断され、治療を受け、その後社会復帰している、という人間は、実はほぼ存在しない。そもそも、人を2人殺した段階で、ほぼ死刑だからだ。
しかし、元少年Aは、生きている。確かに存在している。しかも、専門の医師たちが「病気は治った」と判断できた状態で。
この証言は、まぎれもなく、今の無菌状態大好き日本において「極めて珍しい情報源」だ。
この本の第1部には、元少年の人格が次第に壊れていき、どんどん狂っていき、その過程で、どんな兆候が表れたのか、どんな言動になっていったのかを克明に記してある。性的な興奮を求めて、猫を殺し、エスカレートしていく過程などを、とにかく逃げずに描写してある。
皆さんのそばに、似た兆候の人間はいないだろうか?
情報があれば、人間は対処できる。全部とは言わないが、対処できる可能性が広がることは確かだ。元少年Aはまぎれもなく異常状態だった。完全な病気だった。普通の家庭に、異常な少年が生まれただけだ。何度も私のブログで書いていることだが、1億2700万人も人間がいたら『不良品』は存在する。これは事実だ。
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私たちこそが、被害者側にも、加害者側にも立たずに、未来の犯罪を減らすために冷静さをもって分析すべきなのだ。少なくとも、私はそう思っているので、正直な感想を書いたまでだ。
この本には、周囲に潜む可能性のある「異常人間」たちを見抜くヒントが多数記されている。読めば、犯罪の予見につながる可能性が高い。それほどリアルに描いてある。
この本の後半には、犯罪予備軍が読めば、「絶対に犯罪なんてしないでおこう…」と感じてしまう、「犯罪者のリアルな出所後」が記されている。これを読んだ直後に「よし!犯罪するぞ!」となる人間はかなり少ないと思う。こちらも、あまりに苦しい状況がちゃんと書いてある。
印税で儲けようとしている、という想像力豊かな人間が多数いるようだが、それもこの本を読めば、ちゃんと書いてある。この元少年Aは金のためにこの本を書いたんじゃない。いや、むしろ、金に執着がとにかく無い方の人間だ。ご遺族への送金か、迷惑をかけた家族への送金にするのだろう。とにかく儲けたくて書いたわけじゃない。それは明確に書いてある。
以上から、私は、出版社のミスは間違いなく糾弾されるべきだと思いながらも、この本は「最低限の意義」は感じられるものとなっている、と判断した。
以上だ。
コメント
コメント一覧
長谷川さんの意見もまた一つの意見として受けとめられます。
ただ遺族の想いだけでとらえると、どうしてもこのような内容の出版の資料が世に必要であるなら「手記」じゃなくてもよかったのではないかとも思われます。
出版社がインタビューを通して作られた同様の内容でよかったのでは。。
そして同じように世間から多くの非難を浴びていいのではないかと。。
これも単なる一つの意見でしかないですが。
ベッキーの件で長谷川さんっておかしな人なのかなって思ってたんですが(ごめんなさい)この記事を読んで長谷川さんのことちょっと見直しました
自分はこの本を読んでいませんが、いろんな事件の記事は読んでいます。
この事件もすごい自己中心的な性的な事件と記憶しております。
被害者になる可能性。加害者になる可能性。
文句言う人は、いつも両面を考えてますよ。「普通」の人間なら。
そこを気付かなくて文句言う人は「普通」じゃないんですよ、きっと。
前に聞いた事があるんですが、世の中に「普通」の人って1%しかいないそうですね。
そこからもわかるように、一般レベルって、誰もが病気であり誰もが同じ民度の低い人間だと思ってます。
まず今回の件ですが、文句を言ってる人の気持ちを考えれば答えが出るのではないでしょうか?これは、自分が文句を言う立場になればわかりますよね?
文句を言う=加害者ですよ。言われる人は被害者ですよ。
なので、文句を言ってる人は、みんな少年Aと同罪(とまでは言いませんが)です。それでもその事に気付かずに、感情を乗せて文句を言っていますね。
多分この出版に関しては少年Aにお金は一銭も入らず、全て遺族に送られるっていう前置きがあったら、文句も少しは軽減されたんじゃないんでしょうか?出版自体は自由だし、こういった内容は需要もあるでしょう。だからこそ、遺族と話し合いながら進めるべきでしたね。少年Aが悪い(悪いですが)というより、出版社の方が悪いと思います。
自分が加害者家族になった場合、出来るだけ人里離れた土地に行き、静かに暮らします。それもそれで楽しいじゃないですか。人生は人に迷惑をかけずに楽しむ事が一番大事です。少年Aやその家族も、つらいつらいじゃなくて、きちんと反省した上で遺族に気を使い、視界に入らないようにしながら人生を楽しんで欲しいものです。
どうして未然に防げなかったか。何に注目するべきか。多くの人が考えなければならないのかもしれません。
そして同時にこの本の出版は被害者家族には大変辛いものであるとお察しします。
故に印税で得られた収入は被害者家族が理解してくれるような使い道であって欲しいと願います。そうすることが被害者への供養になると信じたい。
その通り。全くその通りだと思う。
私は絶歌の出版に関して、被害者の遺族や関係者の方々が非難するのは当然だと思う。でも、全く関係のない第三者が猛烈な批判を展開しているのを見ると少し違和感を覚える。殺人に対して第三者含めた社会全体が批判をするのは、当たり前で、それはそうあるべき。殺人に対してはね…。
でも、今般のa氏の「出版」に関してはもう少し客観的にとらえて欲しいと私は感じる。実際本を読んでみると、a氏の殺人に至るまでの経緯、精神面の異常さ、自信の病んだ精神との葛藤等、a氏の苦しみが伝わってくる。私は当時10代の子供がそこまでの心の闇を持っていたことに非常にショックを受けた。でも、考えてみれば私も小学生のころから自殺願望があり、毎日死について詩を書いていた時期があった。子供というのは人生経験が少ない分、非常に多感で壊れ易い存在だと改めて実感した。社会人の鬱病発症が社会問題になっているが、我々は子供の精神面にももっと焦点を当てるべきと思う。子供は感情が移ろいやすい。友達と遊ぶときは我々が思い描く普通の楽しそうにはしゃぐ子供になっていても、1人になった途端色々な雑念に悩まされている可能性も十分ありえる事に目を向けなければいけない。「子供は無邪気」「子供の悩みは大したことない」
こんな考えじゃダメだ。我々は子供が取り返しのつかない行動を起こす前に、心の闇に少しでも気付き予兆管理することに努力をこうじるべきである。
と、実際読んでみれば、様々な重要な気付きがあるわけで、それを完全に否定するのはあまりにも社会に想像力が欠如していると思わざるを得ない。
出版に関して感情的極まりない猛烈なバッシングを浴びせる前に第三者だから出来ること即ち、客観的に本件を理解しようとする姿勢がもう少し社会にあればと思う。
無論、こうした意見もバッシングの対象にされるのでしょうけどね…
その2つの可能性を低くするには彼のことを知る必要がある。
人間の最大の強みは学ぶことだ。
読むことすらも拒絶し、アマゾンで読んだこともないのに罵倒するのは、学ぶことを放棄する愚行であり、自分の子供が犯罪者にも被害者にもなり得る可能性(どの程度の高さかは分からない)を減らすことをしない、不作為の反社会的行為でしかない。
被害者の気持ちを考えるのは重要だが、私たちは被害者ではない。
被害者ではないからこそ、客観的に冷静に分析できるのであって、私たち第三者の役目はそこにあると思う。
絶歌を読みました。
何人かの方が書いていたので、私も正直に書きます。
読んでよかった。
多分、今まで読んだ本の中でも、かなり、忘れられない本になると思います。
心の底までしみ込んでくる何かを感じてしまいました。
書かずにはこれ以上生きていけなかった、という彼の言葉は、本当のことだと思いました。
それでも彼は生きていきたいと思っているということを、私は美しいと思いました。
涙が出ました。
どうか、負けずに生きていって欲しいと、心の底から思っています。
私にも、今は子供がいますが、そう思います。
私も昔は子供だった。「親の気持ち」より「子供の気持ち」の方が、信じられる。
子供、がんばれ。
多くの人が、一番問題となっているのは…
彼が書いたって言うことではなく、彼や出版社が筋や仁義をと通さなかったことだと思っていました。
すごく印象に残る事件でした。
誰もが読みたいと思ったはず。
しかし、遺族はやめてくれ!これ以上苦しめないでくれ!
という、言葉に多くの人が共感しただけなのでは?
お金の問題じゃないのです。
内容の問題じゃないのです。
私たちは、知りたくても知る権利があるわけではないのです。
それを、知る権利がなくせに、知るべきだと図々しく言い、嫌だと言っている人から無理やり聞き出すという、やり口が問題だったのでは?内容は考え方が変わるのかも、知れません。
でも、加害者になっても、被害者になっても…嫌なのに、赤の他人に晒されるのは…
私は嫌です。自分のされて、嫌なことは人にしたらいけません。それを、守っている日本人が多かっただけなのでは?
日本は犯罪心理学が大変遅れている。
そして
日本の裁判員制度についても恐ろしく遅れている。まだまだ対応力ない日本にこのような制度を導入していることが大変恐ろしい。間違っている道徳観を懐疑的にみることもせず感情論を道徳とみなす日本人の習性と捜査も点数稼ぎで冤罪を平気で作り上げ裁いている劣悪な平均台で平均を失っている。
最近はなかなかコメントできませんがブログはいつも全て拝見させて頂いております。
この記事を読ませて頂いた時、いろいろ私なりに思うこともあったのですが絶歌を読んでおらず、たぶんこの先もないなと思いコメントしませんでした。
つい先ほど、少年Aのサイトが開設されておりこの絶歌を読んでなかった私は、見てみました。…本当に本人であるとして、ですが、いたたまれない気持ちになりました。
病気はもちろん治ってはなくて、幼すぎる承認要求をひきづったままの加害者。もう絶歌だけで十分だろうと…。
もうこれ以上何を発信したいんだと。
被害者のことなど本当の意味で何も考えてないのではないかなと。
裏で彼自身にサイトの開設を協力したものがいるとしたら、どういう意図で…と思いました。
全て本当に本人であった場合ですが。
自分で批判しつつコメントを書くことでサイトの存在を知らない人にまで、それを広めることになってしまうかも、と迷いながらですが。
なんとも言えない気持ちになってコメントさせて頂きました。
今般、少年Aはホームページ開設により、今後、自らは匿名で守られたままに自由に情報発信をして行くというではないか。
どれだけ被害者遺族を苦しめ続け、また彼に心酔する者たちに悪影響を与え続けることになるのか。
本一冊で事は済まない。そんなことは容易に想像できたはずだ。
あんな出版は、どんな意義をこじつけようとも認めるべきではなかった。
今後の動き全て、意義があると認め続けるつもりなのか。
正気の沙汰とは思えない。
『絶歌』は、読む前と、読んだ後と、真逆の気持ちになりました。
いつか、誰をも救う本になるような気がします。
最近は犯罪が起こるたびに「そんな子じゃなかったのに」「いい子だった。真面目だった。」というコメントが多く見られます。これは人を上っ面だけ見て、誰も本心を解こうとしない、興味を示さない。そのくせ人物像を勝手に捏造して、そこから少し外れたら批判しているように思えるのです。この本の中にも彼が友人に秘密を打ち明けた際、言いふらされ馬鹿にされたという描写があります。教師ももめた原因だけを問いただして、彼の真意を見ていないように感じました。そんな世間じゃ未然に事件を防ぐなんて不可能だと思うのです。
この本を無断で出版した彼の真意はわかりません。このコメント欄にあるように彼が彼の罪を自覚するための、人々から批判の声を受けたいだけの手段に尽きないのかもしません。彼が本に記したマスコミの誤報を私たちが鵜呑みにしているように、彼の意見も鵜呑みにしてしまってはいけないような気もします。真意はその人にしかわかりません。
そして、罪を背負った上で生きることは死刑よりも重い刑罰です。その十字架を背負って彼には彼なりの人生を苦しみながらでも歩いて行って欲しいと思いました。
知的な遅れがないため、一見見分けがつきません。同様の障害があるのに気付かれてない人も、沢山いると思います。
まさに長谷川さんの仰るように、いつ加害者になるかわからない恐怖があります。もちろん療育はしていますが、それが犯罪を犯す前に、人を傷付ける前に実を結ぶのか。。。
なので、この本が出版された時、その内容は非常に興味がありました。研究者にとっても、親にとっても、非常に重要な情報が入っているのではと思っています。
でも、出版の経緯、遺族の気持ちを思うと、どうしても購入に踏み切れません。
通常の出版ではなく、この時代です、無料のネット掲載なら読んだと思います。
この本を購入することで、どんな理由があっても、人殺しはしてはいけない、という人間としての大前提を否定してしまうような気分になってしまう気がするんです。。。長男のような子供たちを救える、一つの材料になる可能性があるというのに。。。
乱文失礼いたしました。
お恥ずかしい話なのですが、絶歌に関する情報をまるで持ち得ない状態から読んだのです。
私が異常なのかもしれませんが、私はこの手記に共感できる部分もあり、「被害者の気持ちを考えろ!」のみで一蹴してしまうにはあまりに勿体無いと思いました。
加害者にだって人権はあるはずなのに、実際はここまで叩かれてしまいます。
加害者がしたことを考えれば当然なのかもしれませんが、少しでも違った視点を持とうとはしないのでしょうか?
私は絶歌を読んで泣きました。
怒りが湧いたのでもなく、同情し感動したのでもなく、ただ元少年Aの最も深いところから出た叫に内側から叩かれたように感じました。
確かに被害者の気持ちを考えながら読もうとするとこの本は読めないと思います。
長谷川さんの言う通り一歩引いて読むことができれば必ず心に深く「何かしら」は感じられるように思います。
上手く文章にできておらずやたら長い駄文になってしまい、すみません。
人間は十人十色の価値観を持ちます。
どれが正解でどれが不正確で
どれが正論でどれが不正論で
答えの出ない世界です。
ただ、Aは批判されて当然
だけどAの記述を元に平気で人殺しの多い未成年犯罪が減る材料になりうるのも事実
第3者としてどっちの思いが強いか
価値観は十人十色です。
答えが無い、それで良いのです
中学生で道を踏み外した友達も何人か居ます。彼らには何が欠けていたのか、というと、むしろ何も欠けていなかったように思います。度胸もあったし、魅力的で交友関係も広かった。その度胸と交友関係のせいで、道を踏み外したんだろうな、と思います。まっとうに生きてきた人たちは、果たして「悪い事をしてはいけない」「俺は立派な人間になるんだ」という信念があったから、今の生活があるんだろうか?
僕は全員がそうだとは思えません。不良にならなかったのは、腕っぷしが弱くて臆病だったから、親が厳しかったから、友達が少なかったから……などなど、ポジティブではない理由が案外多いのではないか?容姿が優れなかったから、先輩に目をつけられなかっただけでは?
少年期の判断力なんてあってないようなものですが、好奇心は人一倍です。
指導者、保護者、周りの環境にもう少し感謝して欲しい。
あいつらはクズで、自分は生来まともな人間だ、という意識が見え隠れする人は、考えが浅いな、と思ってしまいます。
長谷川さんの言ってる事もなんとなく私なりに分かる気がします。私は結局の所なった本人にしかわからないなと常日頃思います。加害者側になったらいくら残忍な行為でも自分の息子だったら守りたいし、更正させたいと思う。被害者側になったら今の私の頭でははかりしれない悲しみ憎しみに渦巻かれるのだろうと思います。少年Aは矢面に立つ以上色々な意見がでて批判されるのは仕方のない事だと思います。
私もやはり第一印象は良くなかったので…
こういう事件がある度にやはり私はやった方が悪い。と思います。ご遺族の家族が2度と繰り返さないと言っていても本音はどうしてうちの子が?となってるんではないかと。想像もできない苦しみを乗り越えて2度と繰り返さないでほしいと他人を思いやる心がでてきたんではないかと思います。頭ごなしに自分の子だったらそんなこと言うのか!とは思いませんが、批判されている方にたいしてお花畑…みたいな言い方はあまりよくないのではないかと思ってしまいました。最終的に長谷川さんが悪くなったみたいになりすみません。でもハッキリ申して私は可愛い我が子がこの世からいなくなるよりは加害者でもいいのでこの世にいてほしいと思ってしまいます。そしてなにより亡くなってしまった本人も生きたかったと思います。こんな母親も批判されてしまうのでしょう。長文失礼致しました。
事件当時、14歳でした。ニュースで連日14歳の心の闇、真面目で大人しい子が突然なぜ?等報道されている事に大人の愚かさ、白々しい違和感を感じていました。その後被害者父親の手記と加害者の両親の手記も読みました。
加害者になる可能性について、自分の人生観を頼りに考えたのでは足りないのです。その人の容姿性質でこの世に生まれその人が犯罪に向かって歩んだ生育環境、精神生活を寸分狂わずその通りに歩みそれでもなお違う結果を選択出来たかを考えてみないと意味がないのです。そしてそこまで考えればそれは到底本当に自分が一から他人の人生を生きてみない限り分からない、という事が分かると思います。そこまで考えて、その人の人生に何があれば、また何がなければ結果が違っていたかを考えて欲しいです。
子供は家庭という閉じた空間の中では絶対的に弱者です。どんなに良い親だったとしても衣食住という
ライフラインを握っている大人、という立場上、子供にとって脅威となりうると認識しておいてよいと思います。
親の主観では愛情のつもりで周囲の大人からもそう見えても、過剰な期待や子供の本心への無関心さなどで、子供の側から見ると「愛情の名のもとに魂の殺人」をしてくる無自覚な親がたくさんいます。
昔は「教師や警察官の子供はグレる」等冗談まじりに危険性を示唆する言葉が誰ともなく語られていました。非行やグレるなどの分かりやすい形で表出する事が出来ないほどに抑圧された、ギリギリまで自分を犠牲にしてでも親を喜ばせたい気の優しいいい子が最後まで追い詰められた時どうなるか考えてあげて下さい。
犯罪者から子供の命を守りたいと思うなら、自分が子供の心を殺してないか確かめて。まず一番近くにいる子供の心を守って下さい。
他人の事を思い、想像して自分の心を痛める人は、絶対人を傷つけないし殺さない。
逆に、冷静になれる、分析出来る人の方が危ないと考えさせられました。人間味や感情、愛情が欠けないと冷静になれないような内容ですものね。
私は愛情いっぱいでまともな人間に育てて貰えた事に感謝し、自分の周りの大切な人だけをこれからも精一杯愛します。それが私に出来る事だと思うからです。
赤の他人の病気分析なんて何の役にもたちません。分析しても突然、被害者になりうるのであれば、いたらん心配して他人のおせっかいをするより後悔ない様今を生きるべきでは。
まだ起こってもいないことを心配するのは無駄以外のなにものでもないです。興味がある方は仕事で精神科医になったり、刑務所に勤めたり、ソーシャルワーカーになればいいと思います。この本にお金を出すならその分恋人や家族に美味しいご飯を作ってあげます。
命はやり直しできる事ではないので、次世代の参考書にはできないよ。
この人間は、命を2個うばいました。これは、のちにいくら反省しても、情報提供しても、何をしても、やり直できない。
最低でも、2個の命と引き換えに、自分は自殺して、本人の父、母、どちらかの親に死んでもらうべきでした。
まず、一般的?と言われるような意見を言えば、やはり出版前に全文被害者に読ませ、承諾を得るべきではなかったのか。私はこの手記を読んで、これはただ被害者家族だけに向けての手紙のようなものでもよかったのではないかと思います。被害者家族にさえ分かってもらえばよかったのではないか。それが長谷川さんの言うように、一方での分析材料として、同じ様な事件が起こらない様にする為に人々にヒントのようなものを与えたいとゆう気持ちがあるのだとすれば、他にもっとやり方はなかったのだろうか。。
様々な疑問は出てきます。
一方、批判されるかもしれませが、手記を読んでる途中で泣いてしまった部分も多々ありました。手記の中での多くが元少年Aが自分の家族に対しての思いが綴ってあるものでした。
この本自体が純粋に書いたものであるとは元少年Aにしか分からないことですが、本当だとすればやはり、ごく普通の一般家庭でも猟奇的殺人をするような子が潜んでいるかもしれないことは確実に言えると思いました。
この手記を買った時点で批判される状況ですが、前述のような意味ではやはり読んだことに意味はあったような気がします。
上辺だけで批判する方々にこそ視野を広げる意味で読んでみて頂きたいと思います。
決して評価するわけではありません。長谷川さんが言うように一つの分析材料としてです。
ただ、手記を読んで違う意味で感化された怪物予備軍が同じような犯罪を起こさないことを願うばかりです。
まともな感受性があれば、生きていくことはとても難しくなるのではないかと想像します。
もしかすると元少年Aは、長い年月でそれに徐々に気づき、結果として「絶歌」という本を残して自殺するのではないかと本を読んで考えてしまいました。
私は絶歌に対し、様々な考えをネットを通して拝見してきました。
どんなに理論的に賛成を述べている方がいても、私は最初から変わらず否定します。
私は今、3歳の子供がいます。
その3歳の子供でも、『誰かに(友達)何かを借りる時は、本人にちゃんと聞いてから』という約束を守ってくれます。勝手に借りたら泥棒と同じ。
世の中の大半の親は、自分の子に言っていると思います。私も自分の親にそう教えられて育ちました。
話が少しずれましたが、まず出版にあたりどう考えても遺族の方を無視したのが理解できません。
なぜ聞いてからにしなかったのか。
たぶんダメと言われるからでしょう。
少年Aも出版社もわかっていたから聞いてない。これはルール違反です。
『ダメ』と言われたらダメなんです。
子供でもわかる事です。
第三者である我々が、いくら賛否を述べようと遺族の方が1人でも『ダメ』と言ったらダメだと思います。
仮に…本当に仮に、遺族の方が承諾したとした上で出版した時、初めて第三者である我々が本の内容についての賛否を述べるべきだと思います。
だから私は本を買っていません。読みません。
遺族の方の気持ちを考えると、本当に胸が苦しいです。
そしてもう一つ。
将来
“少年法で守られてるうちは人を殺しても病気扱いになり、数年後には名前も変えて出てきて、しかも実名出さずに(元少年)の名前で出版できて大金が手に入る”
と考えてしまう子供がいない事を願います。
今、同じ十四歳の息子を持つ親として、読まずにいられないと言う気持ちで手にした。
本人でなければわかり得ない事が沢山書いてあった。
読むにつれ、辛いのは『息子がこうだったら…』と、どうしても想像してしまう事だ。
倫理的な事や是非について自分は何も述べるつもりはないが、 十四歳を育て直した関係者諸氏の努力は大変なものであったろう。 しかしこの元少年は、育て直された時点で、十四歳を差し引いて考えなければならないだろうと思う。 社会で生きて行くためにはまだ、あまりに未熟と感じた。
未熟で愚かでも、家を出る最後の時に、両親の顔を見ておけば良かったと後悔している。 犯罪者でもモンスターでもなく、出来の悪い自分達の息子として見てもらえる最後の一瞬に向き合わなかった事を悔いている。
事件当時には全く感じなかった事を、思い返して感じ直してて、そして後悔している。
彼を育て直した沢山の関係者の願いを裏切らずに、下手くそでもひたすら真面目に生きる努力を続けて行ってもらいたい
お母さんの手記を読んで、子供さんの手記を読んで、やはり、一番素直に思った事は、「研究材料や、今後の犯罪の為の資料」になっていく事があっても、苦しい思いや、痛い思いをした親や淳くんの心の癒しにはなりませんよね。
ここまでリアルに書ける勇気があるのなら、両親、少年Aさんは、自殺した方が、良かったのではないかとも考えました。私なら、迷わずそうします。責任は、おもいですよ、重すぎますよやっぱり。もっともっとこれからも、苦しんで苦しんで生きて行かないと、自分の病気の事、なくなった子供の命の重さ、自分の家族にどれだけの迷惑をかけたのか、解らないと思います。私は、この両者の本から、その気持ちは感じ取れません。本としては珍しいくらい、作者の気持ちが伝わりません。責めると言うより、大半は、「一体どうしたの?」っていう感じではないかと思います。それが段々エスカレートしただけでは?偽善者とか、綺麗事とかではないですよ、きっと。みんな、案外きちんと生きてますよ。だから、頭に来たのかと思います。加害者になる可能性は誰にでもありますが、罪の償いをこういう形にする人間は少ないですよね、きっと。子育ての勉強にはなりましたので感謝します。でも全くこの方の気持ちが伝わらない本で、少し不思議でした。
特異ともいえる鮮明な情景描写(村上春樹風の風景描写は鼻につき読み飛ばしましたが)で、筆者の周辺の人の有り様がよくわかりました。
私が3人兄弟の長男で、子供もいるということで、
いろんな人物に感情移入ができました。それは筆者も含めて。。
いろいろと考えさせられます。私にとっては価値のある本でした。
読まないのに批判するのは筋違い。印税云々言うなら、借りてでも読むべきでしょう。
アマゾンのレビューでもそうですが、「俺は読みたくない」って言われても、知らんがなでしょう。
原因は親にある。
母親の影響は特に強い。
親のために子供がいるのではなく、子供のために親がいることをわかっていない親が増えた。
少年Aも身勝手な親の被害者かもしれない。
ショッキングな事件でした。宮崎勤の事件。女子高生コンクリート詰め事件。
私が今でも本当に気分が悪くなる代表的な三つの事件です。
この本は読んでいません。全く読みたくないからです。
しかし長谷川氏の考え方には反論も賛同もしませんが、こういう考え方、捉え方も
あるんだなということはわかります。
加害者の親になる可能性。あり得ることです。正直恐ろしいことです。
この本の著者は病気と判断されたようにサイコパスですよね。私は専門家でもないし
知識もないので軽々に言う事はできませんが私には理解できない脳、思考回路の
人間が書いた文章を自分がどう読み解けるのか。
書き手と読み手にはガラス越しで絶対触れられないものが存在するのではないかと
自分には思われるのです。
私の知り合いに凄惨な事件の被害者になってしまった親御さんがいらっしゃいます。
事件から数年も経って犯人が検挙されて、家族は警察に感謝の気持ちを持つと同時に
マスコミなどの事件の蒸し返しに心を痛めました。
こういう凄惨な事件の被害者の家族が受ける苦痛はすさまじいものです。
そして、自分の人生が終わる迄続くのです。
私は偽善な同情者かも知れませんが、少しは察しているつもりです。
この本を読まれる方は長谷川氏のように思慮深く読み取ることができる人間ばかりとは思えないのです。
そういう世間の目にさらされ、引っ張りだされる遺族にとって、この本が社会に
有意義と言えるとは自分は絶対思えません。
その一点において私は出版に反対し不買に賛成します。ですが、
「資料としての価値がある」
この意見にも同意します。犯罪者が自己分析した資料は価値があります。
であるからこそ出版社は遺族の了解を得るべきでした。
それを得ずに出版された時点でどれほど価値があろうと徹底的に避難されるべきだと思います。
私が「加害者になり同じ立場に置かれた場合」ですが、絶対に遺族の了解を得てから出版します。
長谷川さんの仰る通り加害者は「生きています」。
そして被害者家族も「生きています」。
加害者は法の定めた罰を受けましたが互いに事件の記憶は消えていません。
「お金のため」ではないなら「訴えたい」のか「知ってほしい」のか私には分かりませんが、そこに「遺族」を思う気持ちがわずかでもあるのであれば、本を出すことの意義を感じているのであれば、まず遺族の了承を得ることに全力を出すべきだと思います。
私が加害者になり本を出すなら「遺族の了承を得ることを出版の絶対条件にする」。
本を出すことは罪ではありません。
その価値も認めます。ですが、最低限それだけは譲ってはいけないと私は感じます。
私が事件を知ったときには、子供はいませんでしたが、今、現在、元少年Aと同じ14才の男子を育てる日々のなか、少しでもヒントになればと、本を読みました。事件当時は、ただ、なぜ、こんな恐ろしいことが起こったのか?としか、世間が言えなかったことが、この本では、当事者の頭のなかできちんと整理され、綴られていたように思います。批判されているかたは、更正後の人間の書いたものというより、事件当時の殺人鬼の印象のまま、感情先行で読まれているのかもしれません。長谷川さんの言うとおり、少年が病気であったことや社会的に人権が認められたのちに書いたことを踏まえて読むべきです。私自身にとってはご両親の手記と読み合わせ、子育て、人間育てによいヒントになりました。二度とこのような不幸な事件が起きないようにするためにも貴重な手記だと思います。文章の好み云々より、自分は異常だと同じように苦しんでいる少年少女を救うための情報と捉えるべきです。
何かを正義にして何かを悪にしたがる。
けれど人間はそんなに単純な生き物ではないと思うのです。自分が正義になる可能性もあれば、自分が悪になる可能性もある。自分が加害者になる可能性もあれば、自分が被害者になる可能性もある。私は、犯罪はけしてしてはいけない事だと分かった上で、加害者の気持ちを考えなければならないなあと思います。ロボットじゃないんだから、人間が人間に危害を加えるには些細な事でも何かしら理由があるはず。それを解明しないといつまでも犯罪はなくならない。世論が被害者に同情したところで被害者が救われるとも思わない。私は世論は感情的になってはいけないと思うし客観的でなければならないと思うのですがそれは難しい事なのでしょうか。ただ正義を振りかざしていても現実は変えられないと思っているので、長谷川さんのブログを読んでとても納得しました。本が既に世に出てしまった以上、この本が犯罪防止の研究に役立つ事を願いたいものです。
会社帰りの電車で少しずつ読んでますのでまだ読了はしていませんが、8割くらい読んだ上で感じた事は概ね3点。
直接事件に関係のない小学校時代の事をかなり克明に書かれてますが、もし書かれている事が事実ならかなりの記憶力の持ち主では?
私が30歳前後だった頃には小学校時代の記憶は断片的にしか覚えていないですね。
異常行動にばかり目がいきがちですが、これだけの記憶力があるなら世間に紛れて正体がばれる事を恐れてびくびく生活するよりも国が記憶力を活かせる仕事を斡旋した方が本人にとっても周囲にとってもいいのでは?
2つ目は、有名なアーティストや作家の詩や文章を引用した部分がありますが当然許可は取ってるのでしょうね。許可した理由に興味はありますし、また彼らには許可を取ったのなら何故遺族の許可を得ようとしなかったのか?
3つ目は殺人の描写より猫を殺す描写の方が生々しく感じ、女性ならここで読むのをやめてしまうにではないか?
自己陶酔という意見をよく目にしますが、遺族の代弁者を気取り正義感をかざす方がよほど自己陶酔。
印税収入が作者に・・・という考え方は遺族に配慮したコメントではなく、大金を得ようとする人に対する妬みや嫉みの方が強いですよね?
そんな感じです。
当事者ではないからこそ、感情の一歩先を考察することが必要と思います。それをしないと、臭い物が出てきたら蓋をすればいいか、永遠に同じことの繰り返しです。
元少年Aの両親も自分が加害者側になる視点が抜け落ちていたように思います。自分の子供が罪を犯すはずはない、親として当たり前の感情ですが、感情の一歩先を考えられていたら…
結果は違ったかもしれません。
感情的に口を開く前に冷静に熟考する癖をつけねばならないと改めて戒めに思いました。
私は30代男性ですがゲイ寄りのバイセクシャルです。
男性(特に中学生、高校生)に強い性欲を持っています。
少年Aが犯した事件とは異なりますが、世間の人の多くが性的少数派の人々を
「気持ち悪い」「理解できない」と思っています。
事実いつまでたっても同性結婚は世間からは理解されません。
少年Aの事件に対して親の育て方が云々いう方もいます。
しかし私の両親は子供の頃からとても大事に自分たち兄弟を育ててくれました。
それでもこういう性的少数派になる可能性は十分あるのです。
私は少年Aが他人事だとは思えません。
著者が少年Aということもあって、個々の色眼鏡によって見てしまう。
本当に本を読んでもろもろ批判するのであればよいのですが、ここの批判みても読んでないのに批判。自己顕示欲塊そのものです。
こういうのは批判というレベルではない。
批判に値しない、ただのヘイトスピーチと同じ。
長谷川さんのブログを読んでから本を読みました。
そして、本を読んだ後に改めて回収・不買運動の署名活動に参加しました。
この本は販売されるべきではない。多くの人の目にふれるべきではない。
著者は「普通の人間が当たり前に生活していく中で皆が経験している社会の苦労」を知っただけです。
そこに自分の罪の意識が上乗せされ「苦しい」ともがいているだけです。
そして「自己の快楽の為だけに本を出した」のでしょう。
長谷川さんが書かれているように、お金の為ではないでしょうね。
「人に受け入れられる事が怖い」から、
その恐怖から逃げる為にまた「受け入れられない事」をした。
決して自分が許されている訳ではないけれど、それでも自分を取り巻く暖かい環境があり
そこに身を置いてしまいそうになる恐怖心を【自分の中の罪悪感】とはき違えている。
人の命を奪う事はもうしてはいけないという事は判った!
被害者家族にも手紙は書いてきたけど「これで終わりでいいんじゃないか」なんて思われたら困る!
俺はずっと恨まれなければならない!でも生活できないのは困る!
そうだ!自分の過去を匿名のままさらけ出せばいい!
自分の思いも世間に出るし、被害者遺族に許可を取らないことでまだ恨んでもらえる!
これで自分の犯した罪と改めて向き合える!よし!そうしよう!
さしずめこんなところでしょうね。
ただの自己陶酔の本だと批判される理由が分かる気がしました。
そして「病気が治っていない」事も。
被害者遺族がこの本を読んだところで、著者の満足感が増すだけな気がしますが?
個人的には言論の自由に基づき 賛成です。日本は社会主義国ではありません。
どうしてあの様な感情になったのかは分かりませんが、
どの様な感情を持って行為に及んだかがわかりました。
私は全然分かりません。想像もつきません。
絶歌っていったい何でしょう。さっぱり分からないのは私が絶歌を未読だからでしょうか。
読めば絶歌の意味が分かるのでしょうか。
こんな意味深な題名ですから、それはそれは深い意味があるのでしょうね。文字通り。
ってことで、はっきり言って私は読みません。
ねえ、長谷川さん…
こんな題名つけて出版社に持ち込んでるって時点で気付きませんか。
純粋に自分が起こした事件を語るだけなら、こんな捻った題名つける必要ないでしょうが。
断言します。これは手記ではありません。
元少年Aにとっては、実体験を元にした文学(と呼べる程の物かわかりませんが)作品に『絶歌』とゆう題名をつけて世間に発表したかっただけの事です。
当時、酒鬼薔薇なんちゃらとかゆう恥ずかしい名前考えて新聞社に送りつけたのと同じ感覚です。文章力や表現力は大人になっているのかもしれませんが、根本は何も成長してません。
この題名かっこいいって悦に入ってるだけです。
彼は今も昔も変わらず自己顕示欲の塊ですよ。
事件を起こす前の彼のような子供が沢山、
世の中にいるような気がします
どうしたら事件にならないのか
世間が知るのに意味があるのでは、ないかと思います
「未成年時に猟奇殺人を犯した殺人犯の手記の出版の是非」という点だけにフォーカスしていました。多角的な視点で考える機会ができ、ありがたく思います。
それにしても300近い(2つの記事合わせたら倍ですが)人たち、コメントしなかった人たちを含めたらどれだけの数になるのかわかりませんが、多くの人に考えるチャンスを与えた今回のトピックにはとても意義があったと思います。最終的な結論よりも、そこに至る行程が大事だと思うので。そして長谷川さんの労力に脱帽です。ニコ動も時間があるときに見てみます。
この元Aなる人物もそのようにあるべきだったと思います。
メディアが冷静にこの事件の真相を分析し、繰り返さないために検証する…
このご意見のように、今まで何度も同じような事件があるたびに願ってきました。
でも、結局今のメディアのほとんどは、センセーショナルに取り上げ、野次馬の興味をそそるような編集に力を注ぎ、根本の問題に切り込もうとするような報道を目にした記憶はありません。
挙句、これらのような事件に関する報道を見ること自体が苦痛になり、見ないように自分の心からも締め出してしまう…その繰り返しです。
多くのコメントで見かけるように、事実の検証も、繰り返さない為の被疑者の心情の解明も、被害者をないがしろにしたまま「意義ある物」として今のメディアが扱うことは、セカンドレイプに他ならないと感じます。
「意義ある物」であるならば、出版社を含めすべてのメディアが商魂むき出しにしたまま取り扱うことをまず辞めるべきかと思います。
そして、それにまんまと乗ってしまい、本を買い求める人も同罪であると感じます。
3/産経ニュースで語られている通り、『週刊文春』(6月25日号)によると、元々は元少年Aは最初に幻冬舎の見城徹社長に出版を持ちかけたとあります。記事を読んでみないと詳しいことは分りませんが、元少年Aと面会した見城社長の引用として、「印象は非常に真摯(しんし)で真面目、ただ感情は何ひとつ表さず、(中略)人間的な感情が感じられない」ということは、私は少しも変だとは思いません。サイコパスと遭遇した方なら、この感覚はまさに説明できないけれど、身のよだつ実感があります。サイコパスは精神医療プロを騙せるほど完璧に、期待される反応を観察・偽装することができます。また「400万円という大金を貸した」ということが事実であるならば、サイコパス特有の説得力と虚言癖のためかと思われます。
4/印税等
文献を執筆した時点で著作権および印税の権利が発するのは当たり前なのですが、大金が元少年Aに渡る事が赦せないという、意見も分らない訳ではありません。ある意味、元少年Aは殺人という法律違反を犯した訳ですから、出版社には非はないかもしれませんが、書籍を違法コピーでタダで配布するということが、法律違反の結果を味あわせるにはいいかもしれません。不法行為を擁護するわけではありませんが、サイコパス相手に真面目に闘ってもムダ、更には彼のの特権意識を助長するというのが、私が学んだ最大の教訓でした。
以上、長くなりましたが、参考になれば幸いです。
基本的には、上記の点を注意した上で、各人が読む価値があると思えば読む。個人的にはサイコパス本人はこのスキャンダルを楽しんでいると思います。反省は、、していない、人格構造からできないと思う。。反省しているように見えたら、フリをしているだけです。ただ、文献としては非常に有用かと思います。そして、確かに、どんな家庭からもサイコパスが生まれる可能性はあるのです。
両方の立場を考えて、サイコパス(殺人はしていない)に遭遇し、その後かなりの専門医学書などで勉強した者の立場から申し上げると、
1/長谷川氏の仰るように、サイコパスが直接綴ったものは貴重
普通であれば、サイコパス殺人犯は死刑などになってしまうことがほとんどなので、彼等からの直接の手記などはなかなか手に入りません。また、身元がわかってしまう成人のサイコパスであると、特定される危険、減刑にならない可能性等、不利になることがあるため、本心を書けないこともままあります。その点、この手記は匿名で守られている半面、彼の本心が垣間みれる可能性があります
2/半面、注意点が必要なのは、いくら長谷川氏が優秀なジャーナリストといえとも、サイコパスの意図が汲めるかは疑問も残ります。サイコパスはおいおい非常に頭脳明晰です。感情がないぶん、他人の感情を操ることに長けているのです。サイコパスはお金には執着がないことが多いですが、顕示欲がおおせいです。人をあっといわせたい、人を欺きたい、いわゆるDUPING DELIGHTのためなら、周りの人間を観察し、善良な人間を欺くこと・踊らせることに喜びを覚えます。自己顕示欲・自分の行動・行為には一種の誇りをもっているため、人々が自分のこと、事件のことを忘れることに耐えられません。そこまで、一般人が読み越せるか?私自身もこの点を考察するために、本書を購入し、現在配達待ちです。
つづく、、
加害者側になってしまったら…を考えたうえでコメントしますね。
加害者の家族になったならば、自分の
子供である加害者には、一生を償うべき十字架を背負って生きることを望みます。懸命にこれからを生きる。それだけです。それがせめてもの償いです。こんなふうに加害者になっていくのか…と、私たちがこの本を読むことで知り得、生かしていくことよりも、この本がきっかけで模倣犯を増やすことのが怖いです。長谷川さんのように、この本を読むことで、こんな風には絶対なりたくない、気をつけねば、とコメントができる方は非常に稀だと思うのです。
同じような性的欲求がある者が読めば、興奮する読み物になりえると思うからです。貴重なサンプルとしてならば、専門家が個別に少年へのインタビューを行い、記録すれば良いと思います。
『自称正義の味方君たち』『ええカッコしいの偽善者』という感情的な言葉
、少し悲しく感じました。…が、そのような表現で反論したくなるお気持ちもわかります。「消えろ」だの、汚い言葉でののしる、人格否定のみにだけになっているのは卑怯だと思ったからです。今回の内容を読み、前回ブログ丁寧に補足してもらえていたならば、もっと冷静にコメントできる方が増えたと思います。私は変わらずだめなものはだめ、の立場です。まず、この少年が、生を全うするまでは本当に更生した(精神疾患の完治)かもわからないのです。言ってみれば、まだ更生半ばだと思うのです。そして、読まずに批判するな言われてしまうかもしれませんが、被害者の家族が嫌がる以上、嫌がることはしてはいけない…それに尽きると思うのです。反論コメントしている方々の多くは、長谷川さんに向けての反論だけでなく、その先にある、長谷川さんのコメントを読みほくそ笑む模倣犯予備群に反論しているのかもしれません。
自分の考えを、ここまでわかりやすく、かつ真剣に練って書くことができる人もいるんだなって、感動しました。(正直、ブログというもの自体馬鹿にしていました)
もっとはやく出会いたかった。
アーカイブおっていたら寝られなくなりそうです(笑)
長谷川さんのいうこの本が社会にもたらす『意義』、これは確かに今の社会に必要なものなのかもしれません。改善を求めるには理解する必要があり、理解するには知る必要があります。これは間違いありません。
しかし、『意義』があることは必ずしも肯定につながるかというと、それは違うのではないでしょうか?
私は犠牲の上に成り立つ『意義』は断固否定します。
例えるなら、健常者をもし生きたまま解剖・実験できればその犠牲の上に多くの命を救う医療の発展が望めるかと思います。結果だけ見れば大きな『意義』があることです。しかし、現代においては倫理的にも法的にも認められていません。
今回の出版は、社会的意義を盾にした法に裁けぬ悪というのが個人的な見解です。
頭ごなしに批判している方は、少年犯罪から目を背けているだけでなんの解決にもならないかと思います。
私はこの本が社会に与える影響、少年犯罪理解への助けとなることも知った上で、この本の出版を断固非難します。
誰かの犠牲の上に成り立つのなら、そこに『意義』を見出してはならない。
ただ、やはり、私には理解できませんでした。どうやっても。
ですので、失礼なのは十分承知で、コメントさせていただきます。
卑怯な考え方かもしれませんが、私の考え方は「賛成でも反対でもない」です。
いや、もっと言えば、そもそもこの本は、出版に関して、賛成だとか反対だとか、そういった議論がされるスタートラインにすら立っていないと思うのです。
例えば、この本の帯に、被害者のご両親のこんなコメントが載っていたらどうでしょう?
「被害者として、2度と同じ悲しい事件が起こらないように、この本の出版を許可しました」
と。
そしたら、この本はもっと多くの人が買い、読んでいると思うのです。
例え内容が今出版されているものと同じであっても。
私は電気メーカーに勤めているのですが、作った製品は、不具合が無いか、テストしてから世の中に送られます。
そして、その後に、使いたい人が使って、良い製品か悪い製品かを評価するのです。
今回の出版に関しても、同じことが言えないでしょうか?
テスト=被害者のご両親の許可だと私は思うのです。
テストをしていない製品がこの世に送られると、必ずどこかで不具合が発生します。
今回の本を読んで、人を殺めることに興味を持ち、同じ事件を起こすことも十分あると思うのです。
その時、犯人が
「本を読むか読まないか悩んだけど、たまたま見た長谷川さんのブログで、読むことを決めた」
と言ったら、長谷川さんは被害者の家族にどんな顔をして会えますか?
私は、そもそも、マスコミが話題として挙げること自体が間違っていると思うのです。
テストがされていない以上、何も語らない、何も伝えないのが、今回マスコミが取るべき対応だったのではないでしょうか?
す。でも、知らない人の方が世の中多いですね。少年Aも病気です。本人も好き好んで病気の、人間に生まれてきたわけじゃないですよね。もちろん被害者のた立場に、なれば死刑にしてほしいと望みます。でも、日本の法律は更正プログラムを送らせます。彼はそれに従ったに過ぎないですよね。自分を他人と偽り。優しさにふれても、自分はそれを受けとるなんてできない罪人だと遠ざけ。なにが償いなのか問い続け、、批判してる皆さんはどうすれば償ってことになるのか具体的に、言える人はほぼいませんよね。答えなんてないのに、償えないのに、
まだまだだと罵ることで、自分は正義だとなるのですか?
私は、結婚して子供を育てて、、そんな平凡な幸せは普通におくれると思っていたのに、なぜか、離婚を繰り返してしまう。考え手も何故かわからず、そんな自分が怖くなり、こんな生き方しか出来ないなら、生まれてこなきゃ良かったと思い、精神を病みました。子供のためにも、まともな親にならなくちゃと、病院にいったけど、薬しかでません。精神科なんてそんなものです。日本はおくれています。それから、たくさんのほんを、読み勉強会して、克服しました。
勉強した中で、少年Aのような病気は症例としてあります。性同一性障害だって、忌み嫌われてましたよね。最近はオネエも当たり前になってますが、、
この事件の起こった当時私はテレビでかぶりついて見てました。前代未聞の残酷な悲惨な凶悪事件です。だって自分の精一杯の愛情をそそいだ純朴な息子さんが何の罪もないのに遊びで殺され 首を校門に置かれたんですよ。皆さんのお子さんとか身内がこんな事になったらどう思いますか? こんな奴に殺されてなかったら今も元気に生活を送ってる筈ですよ。
こんな酷い事をしても少年法に守られて 無罪同然の刑でしかも名前も顔も出ません。
本音を言うと親にしたら、同じ目に遇わせてやっても物足らないと思いますよ。
それを、被害者家族の方々は現在の日本の法律にゆだねて堪えに堪えてると思います。
それでも、こんな本が世に出てしまう。って日本人はいつから、こんな 人の痛みが分からない人間になってしまったんでしょうか? 法に触れないからと言って 金が儲かるなら本が売れるなら 被害者や被害者家族の気持ちなんてどうでも良いんでしょうか? 私はこういう自分本位 究極の自己中心的な考えで出来た汚れた本は読む気にも触る気にもなれません。
また、書籍と言う物は、筆者と読者の交流の場と言っても良いと思うのです。本によって読者の人生が良いようにも悪いようにも変わる事もあると思います。この本は確かに話題性もあり興味で読む方は沢山おられると思います。ただ、読者の99%は普通の人だと思いますが ごく僅かそうでない人もいると思います。 少年Aも事件前に猟奇殺人の本を愛読してたと聞いてます。 将来この本によって 被害者が出ない事を心より願います。
表現の自由は絶対的に守らなければならない。この本が出てしまったことを批判するのは、表現の自由を放棄することだ。
という論調の偉そうな人をテレビで観ました。まさに取りつく島もない感じで「表現の自由」のひとこと。
本質をわかっているつもりになり切って、実はわかっていない典型。馬鹿だなあ、恥ずかしいなあと思いました。
少年Aや出版社は、被害者遺族の意思を「確認しなかった」のではなく、「知っていたけど無視した」のです。「踏みにじった」のです。
加害者はいくら書きたくても、たとえ書かなければいけないほどの苦しみを味わうのだとしても、それでも被害者や遺族らの気持ちを踏みにじってまで書いてはいけない。書きたいのを我慢して一生苦しみぬくしかないではないですか。
これは被害者や遺族らの人としての尊厳の問題であって、表現の自由とはまったく次元の異なるところに問題があるのです。
(この事件の重大性に鑑み)加害者の人としての尊厳が、被害者や遺族らのそれに比べて劣後することはやむを得ないでしょう。
賛同者は、自分が加害者側になったとき、同じように被害者や遺族らの気持ちを踏みにじることを許容して欲しいのでしょうか。
きっとそんなことはないでしょう。それなのに何故この本を出版したという行為を許容できるのか、私には理解出来ません。
そんなことはあるはずないのです。
被害者はどんなに気をつけても被害にあう可能性はある。
だけど、加害者を減らす事が出来れば、被害者を減らすことは出来るはず。
そのためには、加害者が生まれる仕組みを、知る必要があるのだと
どんなに言葉を尽くしても、「分かりたくない人間」には理解する事は絶対にないように感じますね。
ちょっと意地悪い例えかも知れませんが、「殺虫剤を作る会社には、ものすごい数の害虫を飼っている」ってことだと思います。むしろ加害者を、それこそ害虫のごとく嫌ってる人間にはこの言い方の方が分かり易いんじゃないでしょうか?
害虫が人間の迷惑にならないようにするためには、害虫の事を知る必要があるのです。
多くの人々は、現実的想像力が足りなすぎていると思う。
どんなに多くの本を読んだり知識をつけていてもそれを現実的な事につなげて考えられなければ何の意味もない。
この事件もどんな事件も現実であってそれは同じ世界に生きている人々の現実なのだけど、まるで他人事で自分や家族など身近に起きる事は無いと思っている人が多過ぎる。
そんな人は、重い病気にかかると「なんで私が・・・」など現実を受け入れ難いと言う様な内容の発言をする。
そういった人は、現実的想像力が普段から足りないかもしくは欠落している。
また、被害者の方が「このような事件を二度と起こしてほしくない」という考えも正しいと思います。
ですので、このポイントをお聞きしたい。
この本は「商業ベース」にのせて販売する必要性はあったのでしょうか?ということです。
確かにその利益を書かれた少年Aは被害者への賠償に使われると思います。
だが、同じお金かもしれませんがそのような形で得た報酬を被害者の方は受け取りたくない
と思います。
私はこのような犯罪の被害者になったことはありません。
ただ、私の最初の子供を早くして病気で亡くしました。その当時は病院の職員の方々のちょっとした連絡ミスなども恨んだりしたものでした。
もし、子供の病気の事。研究のため解剖させてくれといったら、断るかもしれませんが嫌な思いはしないと思います。学術のために聞かれているのですから。でも、もし解剖に協力してくれたら報酬を支払いますといわれたら絶対に断ると思います。
出版元はなぜこれを精神学会や分析のきちんとできる機関などに無償公開せず、商品として売りだしたのかだけが私の許せないところです。
長谷川さんはこの点に関してどう思われますか?
平成19年6月、犯罪被害者等の権利、利益を保護するため刑事訴訟法等の一部を改正する法律が成立しました。それまでの長い間『被害者は二度泣かされる。一度目は加害者に、二度目は司法関係者に』と言われていたそうです。(マスコミも含まれると思うが・・・)
被害者は事件の当事者であるにもかかわらず、刑事手続きから排除され、捜査に必要な情報を提供しても、自分が知りたいと思う情報は教えてもらえない。
犯罪被害者になって、あるいはその家族になって初めて、被害者側は、少年審判にも裁判にも参加できず、刑事司法の場から排除されているということに気づくのです。
最近では改善されつつあるそうですが、以前は警察、検察、裁判官などに心無い言葉をかけられたり、配慮のない取扱いを受けたりすることは普通のことだったらしいですよ。
一方、加害者側には、憲法、刑事訴訟法等に手厚い権利保障があり、国選弁護人制度もある。留置所、刑務所でけが、病気になれば無料で治療も受けられる。
犯罪被害者を支援してきた弁護士はこう言います。「我が国は加害者と被害者が倒れていたとき、被害者をそのままにして加害者を助けてきました。加害者が少年の場合、それが極端になります。なぜこんなことが、長い間放置されてきたのか」
家庭裁判所のある調査官は、加害少年の情報を知りたいと訴える被害者のご両親に「ここは加害少年の将来について考えるところです。あなたたちの悲しみ、苦しみなどの心情を聞きたいとは思いません」と言い放ったそうです。
現代の日本で『被害者の立場を慮るシーン』を多く目にするようになったのだとしたら、それは犯罪被害者、そのご家族、友人、支援者の方たちが必死に闘ってきた結果だと思います。
ぜひ『犯罪被害者の声が聞こえますか』や『心にナイフをしのばせて』もお読みください。
犯罪者、精神的に参ってる奴はここのコメント欄を見て発狂する事でしょう。読みたければ読めばいいし、嫌なら読まなければいい。
そっとしといたれ。
医療少年院の矯正カリキュラムに興味があったため、知識を得たく本を購入しました。(普通少年院でしたので)
結果、この本の中には具体的なカリキュラムは書かれていませんが、資料として最高のものであると思います。少年Aに同情はしません。
が、生きていく事に真摯に向き合って、逃げていない彼には私自身もエールを送りたいと思います。加害者親になった事のないお花畑の方々には永遠に理解は出来ないでしょう。
寧ろ理解など要りません。
何か起こった時に絶望して下さい。今後この本を読む方は冷静かつ客観的な視点で文章を辿って下さい、とお伝えしたいです。
世間もマスコミも、吊るし上げのように、深く考えずに鬼畜出版物あつかいをしているのが、数年前の「自己責任論」のときのような、「流されている」風潮に思え、短絡的な世間の主張が、本当に気味が悪いと感じていました。
この本を少しでも肯定すれば、袋叩き・・・そんなイメージで。
ギャーギャーと騒ぎ立てる人のなかで、この事件を追いかけたの本を読みふけった人ははたしていたのでしょうか?
A本人の視点以前に、被害者、犯罪学者、弁護士、いろんな人がこの事件を追い、出版をされました。
それらをずっと読んできて、Aの本にたどり着くことができ、やっと読むことができ・・・・本当にうれしかった。これが正直な気持ちです。
なぜAの本だけこんなに叩かれるのでしょう?
佐川さん執筆の不謹慎な本の数々に比べたら、とても真摯に、Aなりに懸命に向かい合って書いてあるのに。
私は現状の少年法には反対します。
しかし少年法が「少年の更生」を目的としてされているのなら、Aの更生に必要な出版だったと感じています。書くこと、発表することで、心は整理されるから。
被害者を軽んじることはいけませんが、こんな世間の反応では、それこそなんのための少年法だったのか。A少年の心の救済に、チャンスがあってはいけないのか・・・と思います。
人を殺したら必ず私刑になる と思っていた少年の、生きながらえてしまったその後。
昨今の、少年法を十分知ったうえでの、よってたかってリンチ殺人より、ずっと、ずっと、大きな何かを投げかけていると思います。
本当にありがとうございました。
やはり被害者遺族の主張を考えると読みたくないし、広まってほしくないと思います。
しかし、もう世に出てしまったので知識として有効活用されこのような犯罪が減ることを願います。
ただ、私たち第三者が野次馬的に少年aを吊るし上げるのはおかしいということには賛成です。しかし、同様にその第三者をさらに批判することもおかしいと思いますし、少年aに理解を示すことはなおさらだと思います。
誰もが加害者になりうるとは思いますが、それでもやはり、この事件の被害者、ご遺族の事を考えればこのような本は出すべきではないのではないでしょうか。
被害者の願いは、「二度とこのような事件を起こさないで欲しい」ではなく、「事件が起きる前のごくありふれた普通の生活に戻して欲しい」だと思います。
そんな事は難しいですから、ご遺族は出来る限り事件の事を思い出したくない、苦しみから逃れ、一刻も早く忘れ去りたいと思ってるのではないでしょうか。
そこに来て絶歌が出版などされれば、折角薄れてきた過去がまた呼び覚まされてしまう。
まずは被害者ご遺族の事を優先すべきだと思います。
少年Aは病気だったからあのような事件を起こした。だから被害者たちは犠牲になってしまった。そんな理由ではご遺族はたまらない。
しかも、被害者は事件の時点で人生を止められてしまい、何も伝えられないのに、加害者は出所し社会に出て生き続けている。
苦しいでしょうが、それだけの事をやってしまったのだから、苦しいのは当然で、また、苦しまなければいけないでしょう。そして、世間に叩かれないようにひっそりと隠れながら生きていく。
それくらいを覚悟していくべきです。
それでも世に主張したいのなら、皆さん言われているように実名を出すべきです。
不慮の事故、金銭絡みの冤罪とは罪の重さが違います。
殺意を持って行った殺人です。
特殊な事件なのですから、その本が世間が興味を持つのは明らかです。
出せばどうなるかは本人、出版社は分かった筈。(だから出版したのでしょうが。)
この本を書いた本人、世に広めた出版社、そしてそれを興味本意や批判してやろうと思い読んだ全ての人間は悪だと思います。
それに起きかえて考えたら、世の中のために被害者に許可すらなく出版なんてありえません。
また、第三者にぜひいつか読んでほしいなんて言われたくないです。
レイプでこれなら、殺人はそれ以上でしょう
この件で、決定的にかけているものは、被害者にひたすら理解し、了承を求める姿勢ではないでしょうか?
二度と同じことが起きないように、自分を理解してほしいならば、迷惑かかった相手になにを言われようがその想いに許しを得てからでしょう
彼が再犯に手を染めぬよう、願います。
ただ一つ、なぜ遺族を後回しにして、本を出そうとするのか。今後、あれだけの残虐な事件を起こさせないために、それだけ意味のあるものであれば、元少年Aと出版社の社長が、被害者遺族の元に出向いて、一人一人に土下座してでも、理解を得てから出版するのが「筋」じゃないでしょうか?
どれだけ社会的に、意味のあるものだとしても、本を出してから「わかって欲しい」と言われたところで
「何一つ反省してない」
「印税目当て」と言われても、仕方ないと思いますが。
でも、病気だからとか精神疾患が有るからとかで死刑を免れるという事を、私は受け止められないです。
両親が書いた本には一切の印税を受け取らない。全て遺族に渡すと書いてありましたが、遺族には一銭も渡されていません。
少年の本には印税の事にはふれていないとかかれていました。少年はきっと渡すだろうという事は、渡してからの結果で言葉をのべて下さい。
この本を読んで、犯罪をしないようにしよう!という意図より、有名な犯罪を犯して本を書けばお金持ちになれるという事の方が世間一般に伝わる現実の方が大きいと思います。
ましてや病気だったらこの本を読もうが犯罪を犯さないという結論には至りませんからね。
まさしく、自分自身そういう視点で考えたことはズバリありませんでした。
ですが、元少年Aがどのような過程であのような結果に行き着いたのかについては興味はありますし、そういった情報をもとに未来の犯罪を防ぐ役に立てることは出来るんじゃないか?という発想はありましたので、「加害者になる可能性」という視点が無いということだけで、お前らは有益になり得る情報に蓋をしてみないふりをするバカ共だ、みたいな意見はどうかと思います。
大抵の人はそこも理解しつつ、でもそれよりもやった者勝ちのようになってしまっている現実に納得がいかないんじゃないでしょうか?私はそうです。
あれだけの事をしてそれを本にし、売って、収入を得る事ができてしまえば、後に大きな犯罪を犯した犯人が同じような方法で一発逆転できる、なんてことを考えないでしょうか?
後の犯罪を防ぐための資料として多くの人が興味をもった時に見れる形であることはいいとは思います、ですが元少年Aの著書として世に出てしまえば結局購入した時点で彼の収入になってしまいますから、そう考えると購入して読むという事は躊躇してしまいます、私の様な考えでこの本を見ない人はこの「極めて珍しい情報」というものを目にすることなく後に同様の犯罪を起こすかもしれない加害者予備軍が身近に居ても気づくことは無くなってしまうでしょう。
彼がそこまでの事を考えていたのでしょうか?
本当に贖罪を考えて、そして自分と同じような犯罪者を出さない為に、同じ様な人がいたら周りの人間が気づいてあげられるようにと考えていたのなら、自分自身がどういう精神や状態で事件を起こしたのかを医師等の第三者に語りそれをまとめてもらい、収入を得る形のものではなく自分のような犯罪者を出さない為のものだと遺族の方に誠心誠意説明し了承を得たものを世の中に提供して欲しかったです。
批判して、排除して、それで、世の中がよくなるのかなぁ、、
戦争だって、世界中ひどいよ~~、ナチスだって、江戸時代も、戦国時代も、
恐ろしい拷問があったし、将軍がお腹の胎児を取り出させたり、、、
綺麗なだけの時代なんて、いつの世もない。、、
考え続け、知ろうとし続けないと、、
現実から目をそらして考えるのをやめてはいけないといつも、思います
長谷川さんの言いたいことがよく分かりました
元少年Aは僕自身でした。
僕はこの本を読んだら暗い気持ちになるのを覚悟して読みましたが予想に反してけっこう爽やかな気持ちになりました。
僕は希望を見ました。
被害者の方も加害者の方も僕たちも全ての人は自己責任で生きているから痛くても苦しくても強くしっかりと生きていかないといけないんです。
いい本でした。
長谷川さんも繊細で苦労したんでしょうねf^_^;)
それとも犯罪被害者の許可がないと出版してはいけない、出版してもいいけど印税を得てはいけない、皆が思う法律を提案すればいい。
何か制限をつけるか、出版の自由を残すか、皆が考えて選べばいいよ。
確信的行為で犯罪をした者が病気だったか、病気じゃないか?皆病気であり病気じゃないんだよ。そんなもの、適当な線引きで決めてるに過ぎない。
この話題は感情的な話しばかりで、不毛に見える。
たとえ病気であっても、自分自身の中で戦い、自己を殺める者の方が圧倒的に多い。
他人を傷つけるのは個人の気質で、それを肯定し理解するのなら、自分が加害者側になる可能性を恐れているだけにすぎない。
他人の人生を奪えば自分の人生も奪われるのが当然の成り行き。
私達にできる事は、同じ様な犯罪を起こさせない事…こんな理想論は他人事と考えている証拠のように思います。
どんなに防ごうとしても、条件さえ揃えば同じ様な犯罪は起きる。
そんな中で、不幸な人生に巻き込まれた被害者・遺族の無念を真剣に理解すれば、私達がどんな環境を作って行くのが望ましいか見えてくると思います。
私も、出版については最低限の意義はあると思いますが、その程度のもので深く傷つく人がいることには納得いかない。
ただ、手記を読んだ方のコメントを読むと、最低限の意義としてあるとしたならば、
あの様な猟奇的な犯罪を犯した人間は、本当の意味で更正するのは難しいのだと思いました。
今、必要なのは特異的な犯罪や猟奇的な犯罪が起こりうる前提で、法整備や自衛手段を考えていく必要があるのではないかと思います。
一つ間違えれば紙一重、私だって…
そんなこと微塵も思わずにいられたら私もこの書籍を受け入れることができなかったのか?それは、本当にわからないけど。
決して彼を擁護するわけでなく、真剣に読めば何を伝えたいのか、何の為に記したのか苦しいほど伝わってきて、少年A予備軍たる子どもたち、心に闇を抱える人たちに、どうか自分と同じ過ちを犯さないで欲しい…そんな想い願いみたいなものを素直に感じました。
第一部は、本当に吐きそうな思いで読みましたが、それもまた意図するものがある。
そう感じ読んでよかったと思いました。
しかし、この手記は被害者の家族にとっては耐え難くとうてい許されるものでもないと。批判の声があがってもそれもまた当たり前だと思います。
決して興味本位で読めるものでもないと思うし、読み始めたのなら最後まで読んで欲しい。
真っ直ぐな気持ちで伝わってくるものがありました。
長谷川さん、この手記の真意が被害者のご家族の心に温かい形で伝わるといいなって心から願います。
ありがとうございました。
私の正直な感想は…今この現状に著者の求める答えと違う論争が起こっている気がします。読まない人は何が理由であろうと読まない、それでいいと思います。
ただ、読んだ人への問いかけがあるからこそ出版に踏み切った訳ですから読んだ人は考え答えを探さなければならない気がします。
私達は第三者です。
著者は読んだ第三者からの意見を知りたいのだと思ったので、読んだ人たちの意見がもっと取り上げられるべきではないでしょうか。
それが、被害者の方の意思に反して出版なければならなかった事なのではないかと私は思います。
私は読み、加害者側の立場、被害者側の立場に今回はなりませんでした。
私の答えは何かを探しました。
今の著者は人間らしくて罪を受け止め生きてる。凄い重い罪を受け止め生きたいと願っている人を生かしてあげたいと私は思いました。償い続ける為にもサポートや回りの第三者が必要なのではないかと思えましたし。
読んだ皆さんはどう思いましたか?
解りづらい文章ですいません。
批判の中で、長谷川さんのブログに勇気をもらい初めてこのような場に書き込みさせていただきました。頑張って下さい!
長谷川さんを批判する人達の中に、実際に被害者家族の方々のために行動した方達ってどれくらいいるのでしょう。
被害者家族の方からも本は出版されてますが、その本を買い読んだ方ってどれくらいいるんでしょうね。
第三者である私たちに一先ず出来ることって、知る努力だと思うのです。
ニュース等から発信される操作されてるような、与えられるだけの情報を受け取るだけで、何を知ったと言えるのでしょうか。
この世の悪は無視、無関心です。
その悪が被害者も加害者をも生み出していると考えています。
被害者のことも加害者のことも知りたいと思うことがいけない事なのでしょうか。
彼を生かすと決めたのは日本です。
ならば彼を知り、彼に再犯をさせない事、彼が再犯せず人生を全うできた時、何かこの本にも意味が残るのではないかと思います。
長谷川さんも言うように被害者家族の許可を取らなかった事は問題であります。
でもそのことについて意見できるのは被害者家族の方々。
お金払って本を読んだわたしとしては、そのお金の一部が彼の生活の一部に使われたとしても、それによって彼が今後正しく生きるためのものになるのならそれも良いかと思ってます。
願わくば、被害者家族の方々のために使われればとは思いますが…。
わたし自身も、今後の人生において、被害者家族の方々の本を買って読んだ時の気持ちと同じように、本から受け取ったものを知り、自分の子供や周りの人間が被害者にも加害者にもならずに済むよう努力して生きていきたいと覚悟することのみです。
確かに、A自身も実名で出版するべきだったかな、とは思います。
でも、私は絶歌を読んで 命の重みを 痛い程感じました。
何者も、それが事故であっても災害であっても人の命を奪うことがあってはならない、と強く思いました。
命の尊さが胸に突き刺さり、泣けてきました。
こんな風に感じた人は他にもいるはずです。
「自分や家族が加害者になる可能性があることを考えた事があるのか」
との質問。
端的に「ある」です。
この世に「絶対」はない、と私は考えているからです。自分で自分をコントロールできず、人を殺めてしまうなんて考えただけで恐ろしい事だと思いました。
しかしながらこの件は事件当時や、今起きてしまっている殺人事件のニュースを見た時に誰もが考える事だと思います。
この事件を知らない若い人達がこの本を読めば、考えるきっかけになるのかもしれません。だからといってこの本は薦められませんが。
この本が出た事でこれだけ沢山の方々の意見を見る事ができ、また考えるきっかけを下さった長谷川さんには感謝しております。
この件に関しては考える事がありすぎて、このコメント欄で語るには狭すぎますね。
ただ、一生懸命考えても私はこの本を買う事はないです。そして加害者の思いを受け止めたいとは思いません。
ここで私達があーだこーだ言っている間にも被害者の御家族は苦しみから逃れられず、思いは当時のまま変わらないのに加害者含めて周囲の時間はどんどん経過してしまう。
時間というものは残酷ですね。
そもそもこの本の感想を言う事自体が間違いなのかも。なにを感じたかそれぞれの心に止めておく物なのかも。
一冊の本に対しての意義の有無というのは「読書感想文」です。その本に100の意味が込められていると仮定して、そこから1000以上の意味を見出す人もいれば、10以下の意味しか見出さない人もいます。しかし、それは思想、言論、表現の自由が担保されているこの国においては至極当然なことであり、誰からもその自由を侵害されるべきではありません。
故に長谷川氏の「意義がある」という意見は否定されるべきではありませんし、反対に(あくまでも本を読んだ方の)「意義がない」という意見も否定されるべきではないと思います。長谷川氏も批判されている通り、この本における最大の問題点は「被害者遺族の許可」という一点のみです。
そこで私が問いたいのは「現時点において出版社も著者も印税の寄付を正式に表明していないこの本を買い、肯定的な意見を述べる」という事が
「被害者遺族を傷つけるかもしれない」
そのような考え方をした人はいるのでしょうか?
最初に述べたように、長谷川氏の「最低限意義がある」という意見を私は否定も肯定もしません。なのでこの一点においてのみ問いかけます。長谷川氏は「本を購入し」「意義がある」という意見をウェブ上において掲載する際に「被害者遺族を悲しませる可能性があるかもしれない」という事については考察されたのでしょうか?今回のブログにも前回のブログにも、被害者遺族に対する断りや挨拶、メッセージすら掲載されていなかった事実をみると、私は太田出版や少年Aが「許可なく出版した事」と変わらないのではないかと思います。
なるほど…と色々考えさせられるきっかけになりました。
それはあることを思い出したからです。レイプされた女性が、その後そのことを思い出したりそのようなことを想像しながら自慰行為をするようになる場合があること。それは異常だからではなく、とてもつらかったその記憶を、心の傷を、癒すための行為だと書いてありました。
少年が暴力的なシーンを観ながら自慰行為をしていた、と知った時、もしかしたらそのようなつらい経験や心の傷を癒すための行為だったのではと考えるようになりました。
そう考えると点と点だった少年の行為が線で繋がったように感じました。異常だったのではなく、心に深い傷をおった少年がその痛みを自分ではコントロールすることができなくなっておきた事件ではないかと。
だからといって人を殺していいということにはなりません。それは、きっと今彼自身が一番感じていることだと思います。だからどんな形だったとしてもどうしても出版したかったのではないでしょうか。
少年にどうして人を殺してはいけないのですか?と聞かれたとき、自身自身が苦しむからと答えると書かれているようですが、それは非道なのではなく、本当にそのように思っている少年を心から説得できるのは周りの人が悲しむからとかそういう言葉ではなく、あなた自身がこうなるから、という少年のことを想っての言葉だけだからなのではないでしょうか。深く傷ついた時、人生に絶望した時、他人を思いやる気持ちを持つのは難しいと思います。そんな時も自分自身が苦しむからという言葉は、殺人を踏みとどまる抑止力になりうるのではないでしょうか。
ですから、その予防策なり、なった時の対象方なりの知識を得ることは大事なことだと思います
風邪、インフルエンザ、盲腸、癌、アルツハイマー、生活習慣病などなど
でも、何万人に一人のような難病について、そこまで知識を入れておく必要性は
あるんでしょうか? そこまで考えて生活している人なんてどれくらいいるのでしょうか?
また、その必要性はありますか?
自分、もしくは自分の子供が加害者になるかもしれない その視点は大事かもしれません
交通事故を起こすかもしれない、万引き、喧嘩、盗撮、自分の子供であれば
いじめグループにはいって誰かをいじめてるかもしれない
許されるものではありませんが、罪として身近で、想像に容易い罪についての知識は
大事かと思います
ですが、こんな神戸連続児童殺傷事件のような事例についてまで、加害者側の視点の
知識を得ておく必要性はありますか? それは何万人に一人のような難病の知識を
得ることと同じじゃないですか?
加害者側の意識というのであれば、例えば自身の子供のためというなら
元非行少年だった もしくは夜回り先生のようなそういう子供と付き合ってきた方の
著作のほうがよっぽど身近で参考になるんじゃないでしょうか?
これを思春期に初めて知った当時、私は、逃げ延びる犯罪者ほど警察の動きを知っており、その逆でもあるのだという発想しか生まなかった。
今は違う。
そうすべきだ、という戒めだと思う。
一つは、人間社会に生きるという善を踏みにじった悪人たちへの。
もう一つは、犯罪歴がないことに慢心した善人への。
第三者として確かに、罪のない被害者の苦しみも理解すべきだけれど、いっそ加害者を糾弾するからには加害者側の心理も知るべきだ。
この手の出版物を批判する人々は、きっと、加害者の意見に流されるかもしれないという恐怖を抱いているのだ。被害者の気持ちに同情する立場として、犯罪者の気持ちなど理解していたら矛盾してしまうのだ、と。
私なら、もっと知るべきだと思う。一体、自分が何を批判して糾弾して、時に拒絶するのかを。
そして、同じ人間社会に生きる人間として自分の行いを疑ってみせる、という保身の方法もあるべきじゃないだろうか。
しかしながら、長谷川さんのご意見も否定は致しません。
長谷川さんのここでの言葉遣いを、ご指摘される方もいらっしゃいますが、
ここは「肩の力抜いて、楽しく、厳しく、世の中のこと色々考えていこうよ」という長谷川さんの‘’情報発信基地‘’。
同じ未成年の起こした凶悪犯罪である「光市母子殺害事件」
その検証の中で、弁護士のテレビ番組において、視聴者に対する「加害者側弁護士への懲戒請求の扇動」
加害者の実名を用いて出版されたルポ、遺族が書いた往復書簡。
その内容、手法を巡り、今回のようにさまざまな賛否両論が巻き起こりました。
「恋愛禁止」のアイドルの熱愛騒動に対し、教育評論家がブログでアイドルを批判。
コンビニ強盗事件のニュースで、犯人逮捕の決め手となった防犯ブザーの場所を報道。
「おまえ馬鹿なこと言うな」と言うのは簡単。
暴力暴言ではなく、それぞれが正攻法で、議論をぶつけあえばいいこと。
あらためて「伝わるように伝えること」にこだわりをもちたいです。
もし自分が加害者だとしたら、あんな本は出さない。少なくとも遺族が反対しているのなら。そして、本の内容は殺された被害者の尊厳を著しく傷つける内容です…
被害者だとしたら、身を切りさくような怒りに毎日苛まれるでしょうね。地獄です。
(ひと括りにすると語弊を生むかもしれませんが)
個別にみると、どれも間違ってはいないと思いました。
どんなに意見が割れても、全員が口を揃えて言う。
「無断で出版することはよくない。」
オピニオンリーダーとして、長谷川氏はそのことを問題提起していれば全員が同じ方向を向けたのではないか?
と、感じた次第です。
被害者が出版停止を望んでいるから、停止すべきだと言っている人が多いですが、
被害者の意見を尊重するのではなく、未来に向けての対策をすべき。
この本で同じ様な事件が1つでも防げるのであれば本を出版する価値がある。
過去も昔も未来もいつだって少数派が犠牲になってるじゃないですか。
この本もそれですよ。