私は意図的に怒るようにしているというのは、このブログでも何度か書いている。
それは「怒り」を適度に発散させなければ自分の中に毒として蓄積されるからであり、「怒り」を我慢することは自分で自分をないがしろにしているのと同じだからという理由です。
ところがこの度「意図的に怒るようにするのもそろそろ終わりかな」と思えてきたので、私の経験してきた「怒り」についてまとめてみたいと思う。
怒りを表出する上での自分との約束
私は、怒りを表出する上で、怒りやすい人には表出しないというルールを自分に課していた。具体的に言うと、奥さまとか子どもちゃんには怒らないということ。もともと怒りをコントロールしようと思った動機が、私の精神的DVを止めるためであったので、奥さまや子どもちゃんに怒りを向けることは本末転倒なのだ。
で、誰に怒りを向けていたかというと、会社の社長や上司といった、一般的には怒りを表出しにくい人に限定をした。
間違っても、立場を利用して、店員や駅員に理不尽に怒るというようなこともしない。
理不尽なキレ方はしない。用意周到に怒る。
一応、怒りを表出する上でも私なりのルールを決めていた。理不尽なキレ方はしないように心がけた。怒るときも、私が怒るのは仕方がないという証拠を用意して怒った。
例えば、
「○月○日の会議の時、いついつまでにこれを検討しておくと約束してくれましたよね?その日が過ぎてもなんの連絡もないのですけど、これはどういうことですか?」
「約束したことは忘れないでくださいよ。何のために会議の議事録をとっているんですか?」(といって、議事録にも残っていることをアピールする)
という感じね。
ささいな例かもしれないけども、こういうことが何度も繰り返し起きるので、私は怒る。
そして怒るときは、目いっぱい怒る。感情的にならないよう冷静に……なんて大人ぶらず、ここまで証拠を固めたのだから、自分の正当性に自信をもって怒るのですよ。
目上の人に怒ってどうだったか
そりゃ部下から怒られたら、相手も面白くないでしょうよ。そこから私は避けられるようになったし、この度の退職にあたっても、ウソをつかれたり、法的に無効な条件を押し付けられそうになった。向こうの器もちっちゃいとは思うけど、まあ、そうなっても仕方ないかな。
ただ、怒ることで私にもわかったことがある。それは怒ると反撃されて干されるんだということ。
何を当たり前のことを……と思うかもしれないけれども、これまで場の空気を読んで、他人に嫌われないように怒りを我慢して生きてきた私にとって、怒りを表出するとどうなるのかは、理屈じゃわかるけれど、実感をもって理解できなかったことでもあった。
「怒りを表出すると反撃されて干される」ということを、身をもって理解できたのは、本当に大きな収穫だった。無理矢理に怒りを我慢するのではなく、むやみに怒るのは私にデメリットなのだと心底納得をした上で、怒りを抑えることができるからだ。
私はアホなので、怒らないほうがいいということを理屈だけでは納得ができない。怒ってしまって人間関係が壊れるということを体験しなければ、怒らないほうがいいということは、腑に落ちなかったろう。
この結果、奥さまに対する暴言がほとんどなくなったのは本当によかった。
暴言だけではなく「奥さまは私のことを理解してくれない」というようなイライラもほとんどなくなった。
会社の人を私的な目的のために実験台にした私が言うのもなんだけど、会社の人間関係はぶっ壊れて、会社を辞めることになった反面、それ以上に私が得たものも大きかった。
人はもっと怒ってもいいと思う
怒りを表出することは社会的に敬遠されるけれども、怒るべきときに、怒るべき相手だと思ったならば、みんなもっと怒ってもいいんじゃないかなと私は思う。
怒りというのは、紛れもない自分の心の声なのだ。その声は、なんらかの形で満たしてあげる必要がある。そうでないと、他ならぬ私自身がかわいそう。
その声を我慢してまで空気を読み、好かれなければ生きていけないという環境がおかしいということに、そろそろフォーカスされてもいいのではないか。