僕はもう局アナじゃないんで、少し自由に発言しますし、話をしようと思いますが、この話はもう僕が入社4年目か5年目…つまり、今から10年以上前のことになります。
テレビ各局には「日本語選定委員会」っていう存在がありまして、まぁ…「基準となる日本語やアクセントを決めていこう…という組織があります。
昔はNHKだけで話し合っていたようですが、最近は各テレビ局から代表者が選ばれて、その人間たちが集まって
「この言葉は不適切だ」
とか
「このアクセントはもう標準と思っていいんじゃないか」
とかを話し合ってたりします。
で、僕たちが入社4年目か5年目くらいだったと記憶しているんですけど…いくつかの言葉がテレビ上からいきなり消えたことがあるんです。皆さんはあまり気付かれなかったと思います。と、言うのも大きく報道したり紹介するような話ではないので。
具体的に言いますと、テレビ上から
『スチュワーデス』
『八百屋』
『床屋』
といった表現が「差別表現に当たるのではないか」という事でそれ以降、使用しなくなったのです。
??
聞いた直後は何の話か分かりませんでした。なんで差別?差別ってもっとアレなんじゃないの?もっと蔑むというか…。
よく聞くと、『八百屋』さんや『床屋』さんは職業差別。『スチュワーデス』さんは「性差別だ」というご指摘を受けたというんですよね。
それ以降、テレビ上では八百屋さんの事は「青果店(せいかてん)」。床屋さんの事は「理髪店(りはつてん)」、スチュワーデスさんの事は「客室乗務員(きゃくしつじょうむいん)」って呼ぶようになりました。スチュアートさんの事は「男性客室乗務員」ですよね。
テレビ、見ていただければ分かるんですけど、みんなそう呼んでるはずです。正直に言うと、余計分かりにくくなったんじゃないかと心配したもんです。
まぁ、個人的にはそう呼ばれて傷つく人がいるんなら、まぁしょうがないか…というか、別にどっちでもいいや、と受け入れていたんですが、今思えば、最近何かと指摘されている
「行き過ぎた自主規制」
の典型がそこの頃からはやり始めていたのかも知れません。
悲しい話ですが、アナウンサーと言ってもただの会社員です。会社が決定したことには従います。もちろん「スチュワーデス」だろうが「客室乗務員」だろうが、別に伝わり方は一緒だし、いいかとも思いましたしね。でも、その時、僕は大事なことを忘れてしなっている自分に気付いていませんでした。正確に言うと、大事なことを考えて、大事なことを守るために戦うことから逃げているテレビ界全体の仕組みに気付いていませんでした。
日本人は憲法に従って行動します。日本は法治国家なので当たり前のことです。ではその憲法にはなんて書いてあるのでしょう?
表現の自由
思想の自由
宗教の自由
そして、報道の自由。
戦前、それらが抑圧されて、戦争へと突き進んで言った日本。その反省から作られた憲法です。もちろん、戦後アメリカから押し付けられた日本の憲法自体に異論を唱える人も少なくはないですが、とにかく、日本は今はこの憲法を守ってみんなで生活しなければいけないはずなんです。
でも実際の日本は、農耕民族の、村社会の、鎖国国家の遺伝子からは抜け出せているとは言い切れない状態です。
「空気を読めよ!」
周りが全部右を向いているのなら、一人だけ左とか向いてんじゃないよ!
宗教?怖いよ!オウム??サリンでも撒くんじゃないの?
日本では「人と違った価値観」は叩かれ、思想の自由なんて死語もいいところ。報道もそう。文句を言われたらとにかく、聞こう。苦情が来たらとにかく対応しよう。「報道の自由だ!」なんて言ったらどれだけ叩かれることか。
結果、声の大きい人間だけが、ただただ存在感を示せる社会になりました。
声の小さな人は無視されていきました。
例えば、頭の薄い人に対して「ハゲ!」
太ってる人に対して「デブ!」
背の低い人に対して「チビ!」
こんな言葉、全部「差別表現」のはずです。僕は人の身体的特徴を揶揄するのが嫌いです。
努力不足だった、
やる気がなかった
そんな事を責めるのは悪いとは思わないです。でも、背の低い人、自分から望んでそうなったのか?頭の薄い人、自分からなりたくてそうなったのか?
でも、テレビ上でもそれらの言葉は一切禁止などはされていないんですよね?理由は簡単です。それらの言葉に対する
強い圧力団体
がないからです。面倒くさくないから放置してるんです。上記した言葉には人間に対する差別意識が明確に存在します。人を生まれた特徴によって差別し、蔑んで知ることは明確です。でも制限されません。
「大きな声」がないからです。
簡単に言うと、「日本『ハゲ』を守ろうの会」という組織が存在し、テレビでそんな表現をしようものなら街宣車がテレビ局を取り囲むようなことが一度でもあれば、テレビから『ハゲ』なんて言葉は1日で消え去ります。そんなもんなんです。
他方、僕は『スチュワーデスさん』という言葉にはそもそも「憧れ」のような意識があるんじゃないかとすら思っていました。綺麗で、華やかで。素敵な女性たちの集まり。実際にはよく話を聞くと、意外と肉体労働だったり、過酷だったりするそうですが、それでも、世間のイメージって、そんなに悪くないと思っていました。でも、原則は禁止となりました。だって…
「大きな声」で文句を言われたから。性差別的なニュアンスが入っていると。
僕、思うんですけど、スチュワーデスって言葉を禁止にすることには異議はないんですけど、じゃあ「女子アナ」はいいのかい?って聞きたくなるんですけど、皆さん、僕が変なんですかね?女性アナウンサーたち、「女子アナ」なんて呼んでほしいと思ってるのか?
あれらの言葉を禁止にするということは、テレビ局は表現の自由というものを守るよりも、「大きな声」に対して逆らうことは面倒くさいので、従うことを選んだんだと思います。それは、実はテレビだけじゃなくてマスコミに携わる人間たちが絶対に忘れてはいけない、われらの誇りともいえる
「表現・報道の自由」
を捨てた姿勢ともいえるのだと、僕は思ってます。何故か?本当に『スチュワーデス』を差別だというのであれば、他にも禁止しなきゃいけない言葉なんて山ほどあるからです。それらを禁止していない以上「文句言われるのがやだからやめときます」という姿勢にしか見えないからです。
コメント
コメント一覧
全部変えてません。一般人の世間話ではどう呼ぼうと勝手なので。
いつ頃からか 読みが、
松阪牛(まつさかぎゅう)が まつさかうし。
神戸牛(こうべぎゅう)が こうべうし。
何故?ぎゅうが うし?
昔は、○○ぎゅう でしたよね?
ぎゅうはダメ?
差別?区別?分別?八百屋でいいだろ!
言葉を規制するよりか、表現力の問題の様な気がします。
「床屋」という表現が差別用語だから使うなっていうエピソードがありましたが、
まさかそれが現実に起こっていたとは…ちょっとびっくりしています。
でもそういう言葉が差別だって言葉を、「誰」が最初に言い出したんでしょうね。
少なくとも当事者の方々が差別的だと思っていたとは考えにくいのですが。
むしろ押さえつけてる側が、その対象になる人たちを差別していると自分は思います。
ところで…スチュワーデスが差別用語だったら
昔のドラマの名作「スチュワーデス物語」は放送できないってことになるのでしょうか?
言論の自由・報道の自由を言うのなら、どんなに批判を受けようが自らの責任と信念を持って番組を作ればいいのに。
今のテレビ局は、みんな腰抜けだ。
いつも
これは、日本語だけじゃありません。
英語って、すごい差別用語でもあるんですよ。
例えば「警察官」。一昔までには、Policemanと言われていましたが、今はPolice Officerというのが一般的です。(Policemanは男性に限定されますが、Police Officerは男性でも女性でも使える表現です。)「消防士」も同じ。一昔まではFiremanと言われていましたが、今はFire Fighterというのが一般的です。
スチュワーデスについての余談:
一年前、シンガポール航空に乗ったときの話し。機内雑誌(英語)に客室乗務員のこと、Stewardess(スチュワーデス)って表現していました。シンガポール航空は、比較的、男性の客室乗務員も多いので、ちょっと驚きました。
女子アナ vs. 女性アナ:
私も「女子アナ」には???のところがあります。これは同感です。
…っと、声を大にする人たちの方が意外と差別的な気がするのは気のせいでしょうか?
知りませんでした。
アゴはどうなんでしょう?
結局は強い圧力団体なんでしょうけど。
話が変わってしまいますが、長谷川さんがフジ時代に圧力によって発言を抑えつけられていたように、小保方さんも抑えつけられていたように思えます。
でも今日の記者会見で発言できる機会がある。
長谷川さんも発言できるようになった。
真相はまだ分かりませんが、最後は誠実に頑張った人が報われてほしいと思います。
目指せ!
おはせさん、キー局復帰!!
言葉もそうですが番組内容も同じように感じます
マスコミだけでなく学校とかもそうですね
マスコミがだらしないと思いつつも、
一部の圧力団体達も狡猾になってきて、
ネットで多数を装ってある種ヒマなひとを呼び込んで実数を増やしたり、
マスコミならスポンサーに嫌がらせをして兵糧攻めにしたり…
その結果得られるものはなんだろうと考えると、
『声無き多者』に自分たちがいる時にやるべき事があるかもですね
このお話とはちょっとズレてるかもしれませんが、90年代の始め頃は大舞台を「だいぶたい」と読んでいたと思うのですが、いつの頃からか「おおぶたい」と読むようになっています。
(昔の競馬中継で、鈴木淑子さんが「GIのだいぶたい」と仰ってたのを覚えています)
これは何か理由があるのでしょうか?
あと、外国語の表記も不思議に思っています。
今のミランの監督はセードルフなのかシードルフなのか?
なぜトーレスだけ「フェルナンドトレス」などという知らない人が読んだら「エライ長い名字やな」と思ってしまいそうな表記なのか?
ピッポのことを「インザーギ」ではなく「インザギ」と呼ぶイタリア人に出会ったことがあるのか。
(そういえばフジTVさんはセリエエーからセリエアーに変わりましたね。あるとき某アナがスポーツニュースの中でセリエエー(英語)、セリエベー(何語?)、セリエチー(伊語)と仰ったのを聞いて「う~ん・・・」と思ってしまいました。)
外国語の表記に関してルールはないのでしょうか?
もしよろしければお教えください。
メルマガ読んで、こちらに来ました。
激しく共感します。
私は美容師ですが、昔は『美容師さん』の事も『床屋さん』と言われる時もありました。
そして、その事に何の違和感もありませんでした。
ある時から呼ばれなくなりましたが、別に差別的表現なんて感じた事もありません。
スチュワーデスだって、別に差別的だとは思わないし、変に差別的表現と決めつける人達に何か違和感を感じてしまいます。
本当に、身体的特徴に対する表現を規制するべきだと思います。