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宮川氏の許可を得まして、FBより記事をここに転載します。
皆様、ご一読を。
非常に大切な内容ですので、熟読、拡散願います。
「身延沢を罷(まか)り出で候う事、面目(めんぼく)なさ、本意なさ、申し尽くし難く候えども、
打ち還し案じ候えば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候わん事こそ詮にて候え。
さりともと思い奉るに、御弟子.悉(ことごと)く、師敵対せられ候いぬ。
日興一人、本師の正義を存じて、本懐を遂げ奉り候べき仁(ひと)に相当って覚え候えば、
本意忘るること無くて候。」
大聖人亡き後、五老僧の師匠からの逸脱、
地頭の謗法容認、日興上人への悪口罵詈、
御自身が身延に留まる事は、師匠の本意を汚すとの決心から、
断腸の思いで身延の沢を離山された無念の思いを綴られた原殿御返事の一節である。
( 日蓮正宗聖典560頁 )
大聖人亡き後、弟子筆頭であった日昭、日朗、そして身延の地頭に四箇の謗法を犯させた民部日向、
更に、日頂、日持の五老僧をはじめ、殆ど信徒は、日蓮大聖人の謗法厳戒、
平和、慈悲と平等の教えを強く保たれる日興上人に対し、
日蓮大聖人は、後世の為に六人の弟子を定められたのに、
日興一人が、「我一人、正義の旗を持つ、直弟子なり」等と言って他の五人の高僧を非難している。
日昭上人や日朗上人は、日興よりも日蓮大聖人に近くお仕えされている。
今で言えば、会長、理事長、筆頭副会長に当たる御人である。
そんな大幹部の方が、大聖人の教えを曲げて伝える筈がないし、日興一人が、師敵対だと騒いでも信じられない。
大聖人の教えも時々に、時と場合によっては考え方や捉え方に差が出るのは当然であるし、
日興は余りに堅物過ぎる。
特に若手の青年僧侶民部日向上人は、説法が上手くて、法にも柔軟性を持って説いて下さる。
身延の地頭波木井実長様が堅物の日興よりも、民部日向様を用いられるのに嫉妬して、
民部日向様がお許しになった念仏福士の塔の供養や、九品念仏道場の建立、などを謗法等と言って、
波木井様の信仰心を挫こうとしている。とんでもない事だ、と。
当時は誰一人、日興上人の師弟不二の心を理解する人は居なかった。
実は宿坊にサンダーバードのバンドルネームの人が、
『信じて貰えないかもしれませんが、先生から電話があり『11・17に創価学会は解散する。』との連絡が有った。』
と書かれておったそうです。
「解散宣言をじゃまされるかもしれないから君に言っておく 」とも?
サンダーバードさんが、如何なるお立場の方かは知る由もないが、
師匠の御心から拝すならば、そのような御発言が為されても当然である、と拝する。
先生は仰せになられた。
「昭和54年、創価学会は、私を見捨てた。だが、私は創価学会を見捨てない」と。
又、「牧口先生は、戸田先生を見出された。戸田先生には、私が居た。私には、誰も居ない」と。
どうか同志の方も、原田学会の方も聞いて欲しい。
「夫れ仏法を学せん法は、必ず先づ時をならうべし」( 撰時抄256 )
地球広宣流布に於いても、当然に数千年に亘る遠大な青写真の元に広宣流布史は綴られている。
久遠元初の自受用報身如来は、地球広宣流布の露払いとしてインドに釈尊を御誕生遊ばされ、
九横の大難等の
(1)、「 難 」と、
(2)、釈迦「 教団ナンバー2.提婆達多の反逆 」は、必ず起こると言う
法華経の上の方程式を踏襲して、法華経を説かせ、時を末法へと繋げられた。
世は天台、伝教の像法の世を過ぎて末法の始めと開け、
久遠元初自受用身御自ら、日蓮と名乗り御出現。
文底独一本門たる南無妙法蓮華経を建立され、松葉谷の法難、伊豆流罪、
龍ノ口の法難、佐渡流罪の流罪と言う「四度の大難」を勝ち越えられ、
そして、御本尊を御建立あそばされた。
尊い御一代に於かれ、本門の題目、本門の本尊の二大秘法の法体の上の広宣流布を完遂遊ばされた。
日蓮大聖人の御時も、
(1)、大難を受け
(2)、ナンバー2の師敵対、
を勝ち越えられた。
日蓮の聖人は、御一代におかれて残る一大事、戒壇義、化儀の広宣流布をば、
「時を待つべきのみ」と、後世に託された。
時は去り、時は来たり、明治、大正、昭和と、化儀の広宣流布完結の為に、
牧口初代会長、戸田二代会長、そして、池田三代会長の三代で、
地球広宣流布達成は2003年を完結とされるはずであった。
「七つの鐘 構想」と言う化儀の広宣流布達成の青写真がある。
七つの鐘の構想を知って貰う為に、簡単に正式サイトから引用する。
Q. 「七つの鐘」の構想とは、何ですか。
A. 戸田第二代会長は、生前から「七年を一つの区切りとして広布の鐘を打ち、
『七つの鐘』を打ち鳴らそう!」と語っていました。
そこで、戸田会長亡き後の1958年(昭和33年)5月3日の本部総会を迎えるに当たり、
当時、青年部の室長だった池田名誉会長が、将来に不安を抱いていた全学会員に
希望を与えたいとの思いで思索し、本部総会の席上、発表されたのが「七つの鐘」の構想なのです。
学会は30年(昭和5年)の創立以来、7年ごとに”節”を刻み、発展してきました。
「第一の鐘」は、30年(昭和5年)の創立から37年(昭和12年)の学会の前身である創価教育学会の発会式までの7年。
「第二の鐘」は、44年(昭和19年)の牧口初代会長の逝去までの7年。
「第三の鐘」は、51年(昭和26年)の戸田第二代会長の就任まで。
「第四の鐘」は、58年(昭和33年)の第二代会長の逝去までの7年。
「第五の鐘」では、第二代会長の七回忌を目指し、師の遺言であった300万世帯の達成が目標でした。
なお、名誉会長が、この構想を発表した時は、「第五の鐘」のスタートにあたっていました。
「第六の鐘」となる次の7年の目標は、600万世帯の達成。
そして「第七の鐘」が始まる72年(昭和47年)までには、正本堂を建立し、
79年(昭和54年)の「七つの鐘」が鳴り終わるまでに、日本の広宣流布の、確かな基盤をつくりあげること―。
そして昭和54年の七つの鐘終了から、創価学会は世界の広宣流布に向けて発迹顕本し、
心の財に最高の価値を置き、
一人一人の人間革命を基軸として利他、慈悲の共同体へと、発展させる。
以上が、七つの鐘の構想である。
簡単に説明すると、牧口先生は法華経の行者の「死身弘法」の魂を、尊き御自身の生命を以って、
創価学会が、仏意仏勅のサンガ( 団体 )なる事を示された。
戸田先生の時代は、(学会が)貧乏人と病人の集まりと言われた如くに、貧乏( 蔵の財不足 )と、
病人( 身の財不足)の克服の為に、御本尊の力用を学会活動と言う組織信仰の管理の元に、克服せしめたのである。
慈悲の本義は、自分が貧乏や病人であっても自己の不幸を顧みず、他を救うのが本義であるが、
戸田先生は、民衆の機根を整わせしめる為に、蔵の財、身の財の不足を「宿命」と定義され、
その「転換」を第七の鐘終了の昭和54年に完結せしめられた。
いよいよ54年を機に、日蓮仏法の本義、「心の財」充足への修行に一大転換さるべきであった。
「蔵の財より身の財すぐれたり、身の財より心の財第一なり」
蔵の財、身の財から、心の財第一へとの価値の大転換。
目に見える物質の、言わば三次元の世界から、目に見えない心の世界、言わば、五次元世界への転換であり、
この変化は、天動説から地動説への大転換以上の意識変革を要するのである。
お金があれば幸せ、健康であれば幸せ、環境によって、その人の人生の幸不幸が左右される。
と言う外界からの影響に全く左右される事なく、自身の一念の波動のみが
瞬時に現象世界を造り行く心の世界を確立した時、
大宇宙の営みも我が一念にある、と感得する境地。
この一点の境地に達する弟子を如何に沢山排出するかの戦いに入るべきを、
秋谷、石田らの戸田門下は、回帰運動と称して、弟子たちの竜門をくぐるが如き、最後成仏の道を塞ぎ、
又、再び、安易この上ない蔵の財、身の財、獲得へと会員の目をむけさせたのである。
蔵の財を財務の額の大小に設定し、身の財をば役職の高下、又は議員への登用如何に設定したのである。
心の財への、自己改革、自利から完全なる利他への転換が完遂されなければ、
大聖人仰せの、「一切衆生、南無妙法蓮華経と 唱うるより外の遊楽なきなり」
との法悦の境地には至らないのである。
三世諸仏総勘文抄の次の御文の意味を深く吟味すべきである。
「能く能く秘蔵して、深く此の理を証し、三世の諸仏の御本意に相い叶い、
ニ聖・二天・十羅刹の擁護を蒙むり、滞り無く上上品の寂光の往生を遂げ、
須臾の間に九界生死の夢の中に還り来って、身を十方法界の国土に遍じ、
心を一切有情の身中に入れて、内よりは勧発(かんぱつ)し、外よりは引導し、
内外相応し、因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し、広く衆生を利益すること滞り有る可からず 」
( 574頁 )
内より勧発するのが、御本尊様との境智冥合の境であるならば、
外より引導するものが、境智の智であり、
「蔵の財」や「身の財」への願望では境は優れているが、智が仏の思いに至らざるが故に、冥合せず、
真の唱題の悦びには至らないのである。
長くなるので、ここで留め置くが、蔵の財、身の財が充足され、蛹(さなぎ)が羽化して、
いよいよ、宇宙即我との境地を得て、自在の天地に飛び行く蝶となるべきを、
秋谷らの謀略による蔵の財、身の財、執着の回帰運動によって羽化出来ないで奇形となった姿が、
今の原田学会の姿である。
境智が冥合して、生きる事自体が嬉しい全てに満たされた感謝の常楽我浄の、我々の法悦の境地と、
未だ蔵の財、身の財獲得の欲望に取り憑かれ、地獄の苦に苛(さいな)まれ続ける原田学会の信者とは、
天地雲泥の差なのである。よくよく、吟味すべきである。
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