20世紀後半の日本は、冷戦構造を利用してアメリカの安全保障の傘を確保しながら、実際には国際政治の現実からなるべく隔絶したところに身を隠して、狡猾に生き抜く外交政策を模索していた。
その過程で、「美しい理想主義の憲法9条」と「汚らしい権力政治の国際社会」といったご都合主義的な世界観を広めることを黙認した。
結果として、「護憲派」のみならず、伝統的な右派「改憲派」までが、「汚らしい権力政治の国際社会」に対峙する「美しい理想主義の憲法9条」という理解を踏襲することになった。
しかし本来の憲法9条は、国際法を蹂躙して秩序に挑戦した戦前の日本を、国際法を遵守する平和主義国家に作り替えるための規定だ。国際法を無視して9条を独善的に振りかざすのは、倒錯的な理解だ。
『ほんとうの憲法』では、憲法9条1項の「戦争放棄」を遵守することは、国連憲章2条4項を守ることと同じであることを指摘した。9条2項で禁じられた「戦力」とは、国際法で禁じられている「戦争」を行うための潜在力のことである。
政府見解のように、自衛隊は憲法上の「戦力」ではないが、国際法上の「軍隊」である、ということで、問題ない(参照「憲法学者には『自衛隊は軍隊である』ことを説明いただきたい」http://agora-web.jp/archives/2027868.html)。
9条2項で否認されている「交戦権」とは、19世紀ヨーロッパ国際法の概念であり、現代国際法では死滅している。否認して、損をすることは、何もない。
つまり憲法9条を守るということは、国際法を守るということなのである。したがって、憲法9条を全面削除した場合でも、国際法を遵守していれば、得られる効果は同じである。
もっとも70年以上の歴史を持つ憲法9条にこめられた精神的モニュメントとしての意味はあると言えるので、解釈方法を確定させることを目的にした3項追加は、妥当な提案だろう。
拙著『ほんとうの憲法』では、「前二項の規定は、本条の目的にそった軍隊を含む組織の活動を禁止しない」、という3項案を提案した。その趣旨は、憲法9条の目的は、国際法を遵守することだ、という解釈論的立場を確定させることだ。
今後も、解釈に迷いが生じるようであれば、「前文」から繰り返し謳われている日本国憲法の国際協調主義の精神にそって、国際法と調和するように憲法を解釈すればよい。
国際法は憲法に優越しないとか、英語ではなく日本語が憲法の正文だ、とかいった低次元の話は、無関係である。憲法は、国際法を遵守する平和主義国家としての日本を構想した。国際法と調和しない憲法解釈などは、本当の憲法解釈ではない。
戦後一貫して、日本の憲法学者は、憲法解釈からアメリカの影を追い払い、憲法に国際法の影響が及ぶことを、執拗に警戒してきた。
集団的自衛権についても、「国際政治学者や国際法学者ではなく、憲法学者に仕切らせろ」、といった態度を堂々ととってきた。
しかしそれは一つの政治的イデオロギーにもとづいた政治運動であった。素直な憲法解釈は、国際法と調和する憲法の姿を描き出す。
「美しい理想主義の憲法9条」を描き出そうとするあまり、国際法を汚らしい権力政治の産物だと教えるような姿勢は、ますます日本の若者を「ガラパゴス」主義に追いやる。そのような若者は、もはや国際社会では活躍できないようになる。危険である。
いかにして「ガラパゴス」主義が蔓延する日本の現状を打開できるか。
今回の選挙をこえて、政治家の方々だけでなく、多くの日本人が、真剣に考えていかなければならない。そうでなければ、この国には、延々と閉塞した状況だけが続いていくのではないか。