【大仁田厚ヒストリー〈18〉】幻に終わった馬場との電流爆破、猪木の巌流島に対抗してシンと関ケ原決戦
1992年。大仁田厚は、さらに新たな挑戦を考えていた。FMWは電流爆破デスマッチで人気が爆発したが、いつも「新しいことを打ち出さないと忘れられてしまう」という重圧を背負っていた。
リング上ではミスター・ポーゴが離脱しターザン後藤との抗争を展開してきたが、同じ相手との試合では、手詰まりになってきた。そこで外国人にかつて全日本プロレスでアブドーラ・ザ・ブッチャーと並ぶ悪役だったザ・シークを招聘。さらに新日本プロレスでアントニオ猪木、全日本でジャイアント馬場を遺恨劇を繰り広げたタイガー・ジェット・シンを参戦させた。一方で4月7日には陸上自衛隊百里基地でプロレスを開催。自衛隊の基地でのプロレスは異例の出来事でプロレス界以外からの知名度を上げることにもトライしていった。
アクシデントが起きたのは5月6日だった。兵庫・三田のニチイ三田店駐車場特設リングで有刺鉄線、電流爆破に続く日本初のファイヤーデスマッチを敢行したのだ。試合は、後藤と組んでシーク、サブゥーとのタッグマッチ。炎で包んだリングの中で戦うデスマッチは、日本では例がなく試合前は大きな話題と注目を集めた。
火を燃やす仕掛けは、2メートルの木片に布を巻き、そこに灯油を染みこませ引火するもの。この木片をトップロープに2本、セカンドロープに1本とロープ4面で合計12本セットした。ゴングと同時にスタッフが火を付ける。みるみるうちに炎が燃えさかっていった。炎でリングが見えなくなるほどの勢いは、大仁田の予想を遥かに上回る炎上だった。
「ブワァって燃えてきて、息ができなくなった。
丸太に巻いた布がどんどん燃えてきて、これはやべぇぞって思っていたら、真っ先にサブゥーの野郎がリングから逃げて、次に後藤が逃げた。それでオレが逃げてシークが逃げ遅れて、最後にリングの外に出たんだ。あの時は初めて酸素が無くなるのを体験した」
試合は、4分31秒、無効試合。初のファイヤーデスマッチは大失敗に終わった。
「あとで聞いたら、スタッフが最初にかけた灯油じゃまだ足りないと判断して、灯油を追加して全部かけたらしい。あんなに燃えるなんて考えていなかったから、まさにカオスだったよ。あれでシークは全身60パーセントぐらい火傷してすぐに入院して一時は本当に命の危険があったぐらいだった。不幸中の幸いだったのが、お客さんが誰も火傷したりケガをしなかったことと会場が火事にならなかったこと。それだけは本当に良かったと思っている」
電流爆破マッチのような迫力を演出しようとスタッフは、当初、予定していた灯油の倍の量を布に染みこませてしまったという。5011人の満員の観衆に事故がなかったことは奇跡的だった。
一度、ファンに与えた刺激は、さらに過剰になっていくデスマッチの怖さと落とし穴がファイヤーマッチの失敗にはあった。
それでも大仁田のチャレンジ魂はめげなかった。自衛隊でのプロレスが縁になり、ある計画を進行させた。
「米軍の横須賀基地に配備されていた空母インディペンデンスで電流爆破をやろうと航空幕僚長に頼みに行った。艦長に話を通してもらって一回OKになったんだけど、ペンタゴン(米国防総省)で問題が起きてすべてダメになった」
幻の試合は、まだあった。
「馬場さんに東京ドームで電流爆破やりましょうよってお願いした。馬場さんと電流爆破なら、6万人、7万人入りますよって説得した」
師匠のジャイアント馬場に電流爆破マッチでの対戦をお願いしたのだ。この時、黙って聞いていた馬場は「おい、大仁田、それ痛いのか」と聞いたという。
「その次にお会いした時に頼んだら、さんざんオレに言わせた後に“ジャンボと三沢がうんと言わないんだよ”って言われて断られた。あのころの馬場さんは周囲に気を使っていたと思う。周りがいなかったら、馬場対大仁田の電流爆破は実現していたかもしれない」
全日本で引退しながら現役復帰した大仁田に「裏切り者」と呼ぶ周囲はいた。それでも、FMWを旗揚げし興行が軌道に乗ると馬場は自らFMWの事務所に電話をかけてきたという。
「電話を取った事務所のスタッフは“馬場ですけど、大仁田いますか”っていう馬場さんの声がいたずら電話だと思って切ってしまったんだよ。2回目にかかってきてようやくオレにつないでもらって“おい大仁田切られちゃったよ”って馬場さんがおっしゃって平謝りだったね。用件は、FMWが抑えている後楽園ホールの日程を全日本に譲って欲しいっていうことだった。周りは裏切り者とか言う人もいたけど、馬場さんが怒っていたら電話をかけて来なかったし、そんなオレを恨んでいるとかそんなことを気にする方じゃなかった」
ファイヤーデスマッチは失敗したが、新たなデスマッチへの歩みは止めなかった。6月30日。岐阜・関ヶ原鍾乳洞特設リングでタイガー・ジェット・シンと観客を入れない初の電流爆破「ノーピープル有刺鉄線電流爆破デスマッチ」を行った。1600年、徳川家康の東軍と石田三成の西軍が戦った天下分け目の合戦が行われた関ヶ原での戦い。アイデアはアントニオ猪木だった。
「猪木さんが巌流島でやったから、それのマネをしたかったんだ」
87年10月4日、猪木がマサ斎藤と戦った巌流島の決戦。宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した歴史の舞台で観客を入れないプロレスは、大きな注目を集めた。大仁田は、シンとの初対決を猪木の巌流島のようなシチュエーションを作ることでファンの想像力を膨らませた。試合はビデオで発売され高い売り上げを記録。シンとの再戦は、9月19日に初進出の横浜スタジアムで3万人の観衆を集め成功した。
リング以外では、日本テレビ系の超人気番組「天才・たけしの元気が出るテレビ!」で「炎の大仁田涙の男塾」というコーナーを持つなど、バラエティ番組を中心に出まくった。CM出演も舞い込み、「大仁田厚」の名は時の人となっていた。
「旗揚げから電流爆破が終わってしばらくは、給料は月10万ぐらいだった。それが200万円ぐらいになった。200枚しか売れなかったチケットが2000枚売れるようになったからね。給料は10倍になったよ。芸能のギャラで毎月6000万か7000万ぐらいあった。それは全部、会社に入れていた。そこに興行収入があった。だいたい、後楽園ホールで1000万。大きな大会は1億円ぐらい入ってきた」
旗揚げから3年。ようやく団体が軌道に乗ってきた時、大仁田の肉体に異変が起きた。(敬称略)