「会津藩士の埋葬禁止令は虚構」 歴史家・野口信一さんが講演
新史料は、会津藩士の子孫が1981(昭和56)年に同市に寄贈した史料174点の中から見つかった「戦死屍取(せんしかばねとり)仕末金銭入用帳(しまつきんせんにゅうようちょう)」。会津藩が1868(明治元)年9月22日に降伏開城した後の戦死者埋葬と費用を記載している。筆者不明だが、藩士の武田源三、赤羽彦作、斎藤茂助、水野平八が鶴ケ城の城下や郊外で遺体を捜索し、64カ所に567体を埋葬したことを記す。
野口さんは講演で「降伏の10日後には埋葬が行われていた。69年2月に阿弥陀寺への『改葬』(1281体)が始まったが、これが誤解を生んだのだろう。埋葬禁止は昭和40年代以降に言われるようになったと考えられ、史実となってしまった」と説明。さらに「長州藩だけが埋葬を禁止したとは考えにくい。長州藩への遺恨の最大の要因を考え直す契機になる」と述べた上で、「遺恨が誤った歴史認識に基づくのでは恥ずかしい。来年は戊辰戦争150年の節目でもあり、今が仲直りのチャンスかもしれない」と語った。
戊辰戦争の会津藩殉難者を慰霊・顕彰する公益財団法人「会津弔霊義会」の芳賀公平理事長は「歴史家の方の判断にわれわれが意見を挟むことはできない。さまざまな意見もあるのだろうが、今後の変遷をよく見極めたい」と語った。長谷川慶一郎会津史学会理事は「会津藩が理不尽な攻め方をされたことも事実なのだろうが、埋葬の件はこれでいいのではないか」と述べた。