戊辰戦争で新政府軍が会津藩戦死者の埋葬を禁じたとの通説を覆す新史料を発見し、「会津藩士は埋葬されていた」と主張する会津若松市の歴史家野口信一さん(68)の講演会「会津戊辰戦死者埋葬の虚と実」は12日、同市で開かれ、野口さんは「遺骸が半年も風雨にさらされ、悲惨な状況にあったとの通説が特に長州藩への遺恨のもとだった。どう捉えるかは個人の考えもあるだろうが、誤った歴史認識は正すべきだ」と語った。
 新史料は、会津藩士の子孫が1981(昭和56)年に同市に寄贈した史料174点の中から見つかった「戦死屍取(せんしかばねとり)仕末金銭入用帳(しまつきんせんにゅうようちょう)」。会津藩が1868(明治元)年9月22日に降伏開城した後の戦死者埋葬と費用を記載している。筆者不明だが、藩士の武田源三、赤羽彦作、斎藤茂助、水野平八が鶴ケ城の城下や郊外で遺体を捜索し、64カ所に567体を埋葬したことを記す。
 野口さんは講演で「降伏の10日後には埋葬が行われていた。69年2月に阿弥陀寺への『改葬』(1281体)が始まったが、これが誤解を生んだのだろう。埋葬禁止は昭和40年代以降に言われるようになったと考えられ、史実となってしまった」と説明。さらに「長州藩だけが埋葬を禁止したとは考えにくい。長州藩への遺恨の最大の要因を考え直す契機になる」と述べた上で、「遺恨が誤った歴史認識に基づくのでは恥ずかしい。来年は戊辰戦争150年の節目でもあり、今が仲直りのチャンスかもしれない」と語った。
 戊辰戦争の会津藩殉難者を慰霊・顕彰する公益財団法人「会津弔霊義会」の芳賀公平理事長は「歴史家の方の判断にわれわれが意見を挟むことはできない。さまざまな意見もあるのだろうが、今後の変遷をよく見極めたい」と語った。長谷川慶一郎会津史学会理事は「会津藩が理不尽な攻め方をされたことも事実なのだろうが、埋葬の件はこれでいいのではないか」と述べた。