ホンダでエアバッグを開発した小林三郎氏(現在は中央大学 大学院 戦略経営研究科 客員教授、元・ホンダ 経営企画部長)が、ホンダ流のアプローチを紹介しつつイノベーションの本質に迫る本連載。今回からは、イノベーションや技術、そして会社は何のために必要なのかを考えていく。(日経ものづくり編集部)
ホンダのイノベーションに関して、「その秘訣は何か」とよく聞かれる。「そんなものはない」と答える。あるいは「ホンダには哲学があるから」と話す。すると、「哲学ですか?」と怪訝(けげん)そうな顔をされる。
ホンダの哲学は、秘訣というような薄っぺらなノウハウではない。むしろ、その対極にあるものだ。ただし、哲学の教科書に載っているような難解なものではない。日ごろの技術開発や事業活動の中に根付き、常に社員の身近にあるものだ。その哲学が、イノベーションの成功率を確実に高めるのである。
今回は、その哲学に基づいて、ホンダはいかにイノベーションの成功を引き寄せているかについて、全体的な見取り図を示したい。筆者がホンダ退職後、大学に身を置き、さまざまな企業の方々と議論する中で浮かび上がってきたのものだが、ここであらためて紹介しよう。それには、まず、おやじの話をしなければならない。おやじとは、ホンダ創業者の本田宗一郎・初代社長のこと。我々は敬意と親しみを込めて、「おやじ」とか「おとっつぁん」とか呼んできた。
おやじはこう話している。「理念・哲学なき行動(技術)は凶器であり、行動(技術)なき理念は無価値である」。では、その哲学とはどんなものなのだろうか。そのありようを示す象徴的な例がある。
■埼玉製作所の水
ドイツの自動車メーカーが1990年ごろに、工場の水をテーマにしたテレビCMを流し始めた。その工場で使った水は、元の水質レベルまで浄化して川に返しているという内容だった。日本では公害問題が落ち着いて、フロンガスを除けば環境に対する社会的な関心が低かった時期だ。当時、ホンダの社長だった川本信彦さんから筆者にホンダの実情を調べて対応策を考えろという指示があった。
そこで、若手を埼玉製作所(埼玉県狭山市)に行かせた。製作所の人は忙しいから、テレビCMは見ていない。埼玉製作所の所長からは「何だ、しょうがねえなぁ。先を越されちゃったな」という反応が返ってきて、その若手は製作所のスタッフと一緒に担当部署の設備管理課に行くように言われた。その上で、対応策をまとめて社長に報告するという段取りだ。
ところが設備管理課の担当者のところに行ったら、「あ、水ですか。埼玉製作所をつくった1964年から、元の水よりきれいにして返しています。おやじから、『水は皆さんのものだから、きれいにして返しなさい』と言われてますから」と話すではないか。みんなびっくりした。