こんにちは、たけのこです。
今回は台湾で銅像になったおじさんに会いに行く旅の後編です。
前回まではこちら
後編の旅では既にできている記念公園や終着地点を紹介し、今後の白冷圳について書いていきます。
※台湾サイドストーリーシリーズはこちら
〇台湾で偉業を残し銅像になったおじさんに会いに行きます【八田與一編】
〇台湾で偉業を残し銅像になったおじさんに会いに行きます【磯田謙雄編】
〇海外旅行にSIMロックフリースマホは必須?旅の難易度が凄く下がります
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白冷圳と磯田謙雄。台湾新社大地を潤した日本人と水をたどる旅【後編】
巨大逆サイフォンと日中の友好
前回も紹介した2号サイフォンの隣には「日台友好之橋」というなの橋が架けられていました。
白冷圳が完成してから70年。
台湾を襲った大地震が起きて初めて認識された白冷圳の偉大さに、地元の人が敬意をこめて名付けられたのでしょう。
この逆サイフォンは大きすぎて全体像が映り切りません。
反対側を見た写真です。
これだけの傾斜を自然の原理を利用し、電気やポンプを使わず水を流しているのです。
理屈はわかるけれども、これだけ巨大になると本当に水が流れているのか疑ってしまいますが、流れているんです。
手前に見える緑の配管は、地震で壊れてしまって今は水は流れていないものです。
隣の青い配管が現役の物。
なぜ壊れたものが残されているかというと、記念という意味もありますが、鋼製の配管はメイドインジャパン。
日本製なんです。
当時、台湾にはこれだけの配管を生産する設備がなく台湾で設計され、日本で生産されました。
そして海を渡り設置されたものなんです。
大地震でどこが壊れたのかわかりませんでしたが、大体の部分は健在でした。
当時の技術力、耐震性の高さに驚かされます。
おじさんと記念写真
思い出におじさんの銅像と記念写真を撮りました。
偉大な土木技師のおじさんの横でピース写真を取るなんて厚かましいと思いつつ…
ピースしてます。
日台の友好を祈ってのピースです。
ちなみにおじさんは大柄な人で身長は180㎝くらいあったとか。
銅像は気持ち小さいのかもしれないですね。
記念公園のパネル
記念公園には日本語のパネルまで設置されています。
内容を見てみると...
白冷圳が建設された背景や磯田技師の経歴、そして白冷圳通水式の挨拶分のようなものまでありました。
さわりを書いてみます。
「工事報告
本工事は昭和二年東勢群新社地方の高原に介在する植産局大南庄蔗苗養成所の所属耕地内八百四十町歩を灌漑して、従来の乾燥畑を甘蔗水稲緑肥の三年輪作田となすべく其の計画を樹立し同三年度より実施すること入なり蓋し同高原地帯は夙に開拓せられたりと雖も灌漑の水源に乏しく殊に本耕地は唯天水に依れるのみ…」
白冷圳を建設する目的が書かれていますね。そのあとは白冷圳の構造がつらつら書かれ、頑張って作った、万歳といったようなことがかかれています。
(超訳したので注意…)
歴史背景の説明
この後さらに新しくできた記念公園に行きます。
と言っても直ぐ隣なんですけどね。
白冷圳の日本製配管です。
人と比べると大きさがわかると思います。
記念公園には当時の時代背景や暴動などのトラブル、建設経緯などのパネルが展示されています。
また、台中市の歴史建築物第一号の賞状もありました。
第一号ですから、素晴らしいですね。
ここで、白冷圳に関する様々な話を伺いました。
が、写真に夢中で話半分に聞いてしまい、何も書けません…やってしまった。
いよいよ終着地点
ここが白冷圳の終着地点の「円堀」です。
水が流れてきているのがわかります。
円堀に辿り着いた水は3方向に展開し、1つは生活用水、もう2つは農業用水として活用されています。
建設当時はこの水を使ってサトウキビや稲を作っていたようですが、今は様々な農作物に活用されています。
前回でてきたパッションフルーツもその一つです。
今後の計画
なんと来年には、このパースのような記念公園を円堀の近くに、建設する予定のようです。
毎年10月14日に記念式典をやっているそうなので、それが目標とのこと。
私も来年はその式典に参加しようと今から計画をねっています。
水の貴重さ、自然原理を応用すること
白冷圳と磯田技師の偉業を見る旅は、水というものの貴重さ、そして自然の原理を応用することの重要性を感じさせられました。
それに写真だと伝わらない現地での感動は計り知れません。現物を間近で見るとその偉大さを、肌で感じることが出来ます。
是非、台中へお越しの際には白冷圳に行ってみてください。
台湾と日本の友好の懸け橋がそこにあります。