このページは最初「不登校支援をしない理由」というタイトルで書きました。けれど、書き終わってみたら、まんじぇで大切にしていることを詰め込んだ形になったので、よりまんじぇを理解してもらうための資料として編集し直しました。
「子どもが学校に行けなくなったので…」という問い合わせをいただくことが、ときどきあります。この「行けなくなったので」の一言で、ああ、この方は勘違いしてらっしゃるな、と思うのです。どういう意味か?それを綴りました。長いですが、まんじぇで大切にしていることをより理解していただけると思うので、最後まで読んでいただけたら嬉しく思います。
「オルタナティブ(alternative)」というのは「もう一つの」とか「選ぶべき」とかいう意味で、オルタナティブスクールとは、主流の学校ではない別の選択肢としての学校というような意味です。(韓国では「代案学校」と呼ぶようです。)シュタイナー、フレネ、イエナプランなど、特定の教育理念に基づいて運営されているところが多く、デモクラティックスクールもその1つです。つまり、どこかに行けなかったから、という理由で通う補完的な施設ではなく、公立の学校を含め、並列な選択肢の1つとしての学校と捉えています。
まんじぇは昔「フリースクールまんじぇ」と名乗っていました。それは、教育における「フリー=自由」の重要性を意識したかったことや、先輩スクールであるグラスルーツフリースクールへの敬愛の念もありました。その来日がたくさんの自由教育の芽を日本に生んだ米国ミシガン州クロンララ校のパット・モンゴメリー氏も、著書「フリースクール その夢と現実」の中で新しい教育の形として誇りに満ちた印象とともに「フリースクール」という名称を使っています。
けれども、日本の社会の中で「フリースクール」という名称が広まっていく過程で、それはやや歪んで伝わっていきました。つまり、「不登校の子が通う場所」という認識をされることが増えていきました。そして、そこには、多くの場合「なんらかの理由で学校へ行けなくなってしまった子を支援する場所だというニュアンスが含まれていました。つまり、子どもを「助けてあげる対象」と見ている目線です。それは、子どもたちこそが、学校を作っていく中心的存在であり、学びの主体なのだと考える私たちの教育感とは相容れないものです。
中には「帰ったら友だちと遊ぶ」と話すまんじぇの子に「学校に行けてないのに遊ぶ友だちがいるの?」などという失礼極まりない言葉をかけた人もありました。そこに象徴されるように、助ける対象として見るということは、ある意味子どもを見下しているということです。もちろん、子どもから「ここを助けて欲しい」という要望があれば、スタッフは必要とされている支援をします。ですが、頼まれてもいないのに大人の勝手な判断で助けるということは、子どもを見下す行為です。
そんなやり取りもあった中で、その名称のまま本当の「自由」の意味を伝え続けていくということに限界を感じ、デモクラティックスクールまんじぇに改名したという経緯があります。
さて、まんじぇが大切にしたい「自由」については、「スクールの特徴」のページにまんじぇの2つの柱の一つとして掲げてありますが、サマーヒル校創始者のA.S.ニイルは著書「自由は放縦ではない」の中で「本当の自由とは相手の自由をおかさない自由」だと言っています。自分の自由と同じように他者の自由も大切にするためには、ときに長い話し合いが必要になったり、とても手間がかかることもあります。
そして、もう一つ大切なことは、自由は必ず責任とセットだということです。好き勝手にして、その結末に責任を持たないというのは「放縦」であって、私たちが意図するところの自由ではありません。つまり、自由は決して楽なものではなく、場合によってはかなり厳しいものです。
ある まんじぇの保護者さんが「もし子どもがまんじぇに通ってなかったら、こんなに『自己責任』という言葉を使うことはなかったんじゃないかと思う。」とおっしゃっていましたが、まんじぇの自由は「公立の学校はいろいろ詰め込み過ぎで子どもも疲れるよね。もうちょっと自由がある方がいいよね。」という類の自由ではありません。
責任とセットになっている自由の場では、すべてのことが自己責任です。例えば、ミーティングに出るかどうかは自由ですが、出なかった場合、そこで自分が気に入らないことが決定しても、文句は言えません。自分から提案すれば、どんなことでもできる可能性がありますが(もちろんいろんな事情で実現できないこともきっとありますが、それもその過程が学びなのです。)自分が言い出さなければ、何も起きません。たとえ「暇〜!」と叫んでも、スタッフから「じゃ、これをやってみる?」「こんなことするのはどう?」という提案は一切されません。それが自分の時間をどう使うかということに自分が責任を持つということですし、人は本当に暇になったときに一番自分自身に向き合うことになります。「私のやりたいことってなんだろう?」「あれかな?」「○○くんがやってるあれは僕は好きじゃないし…」とそれぞれが自問自答する中で見つけていくものに大きな価値があると考えます。
そして、子どもが自分でやり始めることの中には、上手くいかないこともあるでしょう。当然です。エジソンは電球を発明するまでに1万回失敗したことを「失敗ではない。1万通りのうまくいかない方法を発見したのだ」と言ったそうですが、うまくいかないことからも人は学ぶことができます。ただし、それは自己責任だからこそ。人から言われてやったことがうまくいったときも、嬉しいでしょうけれど、自ら挑戦したときとは比べ物にならないでしょう。「お手柄」は全部自分のものだからです。失敗も同じで、誰かに言われてやったことがうまくいかなかったら、それは往往にして、その人のせいになります。自己責任だからこそ大きく学べるのです。そういう中で自己肯定感が育っていくのです。
「子どもを守ろうとすること」は子どもにとって「あなたにはそれは無理(だからやってあげる)」というメッセージになりかねません。まんじぇでは子どもの失敗する権利も保証します。「失敗して傷ついたら?」…もちろん落ち込むこともあるでしょう。でも、再びはい上がる力があると信じます。取り返しがつかないような失敗がありえないとは言いませんが、個人差はあれ、子どもは本来慎重なので、そういう可能性はかなり低いと思っています。
「無茶をする」ように見える子は、もしかしたら信頼されていないと感じている子かもしれません。そういう「無茶」は誰かを「見返してやる!」という気持ちだったり、「どうせ自分にはできないと思われてるんだろう?」という自暴自棄な気持ちだったり、そういう時に起こりがちで、本当に信頼してお任せされていると感じていればいるほど、慎重になります。これは大人でも同じですよね。「100%あなたを信頼してお任せします」と言われたら、とても慎重になりませんか?そして誇らしくないですか?そのように自己責任と自己肯定感は大きく関わっています。
ここまで読んでいただいたら、まんじぇが「普通の学校はいろいろ厳しくて合わなかったけれど、もうちょっとゆるい感じの場所なら行けるんじゃないか?」という感覚で選ぶ場所ではないことは分かっていただけたのではないかと思います。親子ともにかなり覚悟が必要な選択であると思います。ここで分かりやすくたとえ話をしましょう。
例えば、雪山に単独で登りたい人がいます。それは時に危険もともなうかもしれませんが、人によってはそれとは引き換えにできないくらい素晴らしい経験になると確信して多少のリスクは承知の上で実行するわけです。また、もっとゆるい山にガイド付きで手を引いてもらって楽しみながら登りたい人もいます。それもそれで問題ないですよね。「そんな甘いやつは登山なんかするな!」なんて誰かに言われる筋合いもありません。どちらが正しいわけでも、間違っているわけでもありません。でも、手を引いてもらってゆるゆる案内してもらおうと思って行ったら、雪山に一人で置き去りにされた!となったら困ってしまうわけです。それで、このようなことを書いています。
世の中にはすでに(認可、無認可は別として)いろんなタイプの学校が存在します。学校を選択するとき、いろんなファクターがあると思いますが、例えば安全面について言えば、絶対に小さな怪我の一つもさせないように、と考えれば、どうしても子どもを厳しく管理することになります。デモクラティックスクールのその目盛りはそことは対極の場所にあると思います。そして、他のオルタナティブスクールの目盛りは多分、その間のどこかにあるでしょう。デモクラティックスクールは、ある意味、ハイリスクハイリターンな教育かもしれません。(もっとも、積極的にデモクラティックスクールを選択するご家族は、ここから得られるメリットに比べたら、そんなことは大したリスクではない、と思ってらっしゃるかもしれません。)
極端な話、今の日本の公教育では天才は生まれないと言われたりしますが、デモクラティックスクールでは生まれる可能性もあります。が、同時にひらがなも全部覚えないまま卒業する可能性もゼロではありません。それでもその子本人がいいと思っているなら大人が口を挟むことではないのです。文字が読めないと、この社会では不便なことが多いので可能性はかなり低いと思いますが、万一そうなっても本人の意思を尊重する、そこまで子どもを信頼する覚悟が保護者には求められます。それがデモクラティックスクールを選ぶ親としての責任です。
さらに、まんじぇでは開校時間内のことに関しては生徒とスタッフに全ての決定を委ねることになりますが、スクールの運営に関しては「運営会議」で子どもたち、スタッフ、保護者が一緒に話し合って決めています。(現時点では保護者はお金に関することには議決権があり、その他のことに関しては意見を言う権利があります。)つまりどんな学校を作っていくのか、一緒に考えていく責任が生じます。そのためには当然、デモクラティック(サドベリー)スクールについて学び続ける姿勢が求められます。一般の学校のように学費だけ払ってあとはお任せする、と言うことにはなりません。もちろん、子どもたちのミーティングと同じで参加は義務ではありませんが、参加しない場合も参加しなかったことによる責任は問われます。(お任せした以上はその決定に文句だけ言うことはできないと言うことです。)
デモクラティックスクールは、ここまで書いてきた通り、自分の責任において、日々何をして過ごすのか、自分で選ぶ学校ですが、本来はその前に学校自体も(ホームスクールという学びの形態も含め)子ども本人が選ぶべきだと考えます。そのためには多様な学びの場が存在するべきで、そういう意味では日本は未だ発展途上です。まだまだ多くの人が、地元の公立校が唯一の学校だと信じています。そこで出てくるのが「不登校」=「学校へ行けない」という概念です。
日本国憲法第26条には「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、等しく教育を受ける権利を有する」とあります。子どもには、能力に応じた教育を受ける権利があるのです。そうです。子どもには義務はありません。子どもにあるのは権利です。だから「行けない」というのは、そもそもおかしいのです。(その権利を保障する義務が保護者にあります)つまり「行かない」はあっても「行けない」はないのです。ありえないはずのものを支援はできないのです。(「不登校=学校へ行かない」なら問題ないですが、それもまた「支援」する状況ではないですよね。)
もし、これをお読みになっている方が「子どもが学校へ行けない」とお悩みでしたら、まずはそこから見直されることをお勧めします。子ども自身にも、本当は、学校へ行かないと決めただけなのに、まるで自分が法律違反をしてしまっているかのように後ろめたく感じている人がたくさんいます。そうではないことを伝えてください。その上でどうしたいのか選んでもらってください。
行かないという選択をするだけのために、エネルギーを使い果たしてしまっている子もたくさんいます。先ほどの山登りのたとえで言えば、雪山どころか軽い山に登る体力さえ残っていない状態かもしれません。そういう場合はおうちが休憩場所になる必要があるでしょう。気持ちの聞き方も要注意です。たいてい子どもは切ないほど親の期待に沿おうとするので、親が一定方向に期待をかけていると、本心ではないのに、そうしたいと言うことも多いからです。まずはそのままのその子を受け止めてください。そこがスタートです。
長いこと引きこもっている子の話を聞くこともありますが、そこでいつも感じるのは「いつまで待ったら学校へ行くの?」というような親の期待です。そういう期待はたとえ言葉に出さなくても子どもには間違いなく伝わっています。そして「いつになったら外に出るの?」という期待は、裏返せば「今のあなたではダメ」というメッセージです。家族にすら否定されていると感じている子が、外に出て大丈夫だなんて思えるはずがないのです。
まずは生きてそこにいてくれていることに感謝して、一緒に楽しめることを探してください。トランプでもいい、ただ一緒にテレビを見て笑うのでもいい、死んでしまった子と一緒には出来ないことです。冗談ではありません。「学校へ行けない」ただそれだけの理由で自殺する子どもがどれだけいることか。毎年子どもの自殺数が一番多い日が9月1日であることが物語っています。自分が生きていることで喜んでくれる人がいる、それを一番伝えられるのは家族です。
そして、再びたとえ話に戻るなら、いつか十分な体力がついて「山でも登ってみようかな?」と子ども自身が思ったら(これも、山でなくてもいいのですけど。学ぶ方法は無限にあります。)いろんな登山の方法を探ってみてください。その中で、もしかして、ちょっとハードなデモクラティックスクール山にチャレンジしたいと子ども自身が思い、親にそれを支援する覚悟ができたなら(上記の通りけっこう厳しい覚悟だと思いますが、親のその覚悟は子どもにとって大きな力になるでしょう。)「学校へ行けないので」ではなく「デモクラティックスクールを選んでみたいと子どもが言っているので」といらしてください。その時は心から歓迎いたします。もちろん、今現在すでにそこはクリアになっていて、もう一つの教育を求めてまんじぇにいらっしゃった方は、その勇気ある選択に敬意を表するとともに大歓迎いたします。
*こちらもお薦めです。
まんじぇと同じデモクラティックスクールネットワークの会員スクール「東京サドベリースクール」の保護者さんが書かれた文章です。保護者という立場から見たデモクラティック(サドベリー)スクールと、そこに向き合う中で感じてこられたこと、とても参考になると思います。
親とは何か。教育とは何か。子どもがサドベリースクールに通って"親としての意識"が劇的に変わった。
子どもはもちろん未熟ですが、親もまた未熟です。親が負う「責任の重さ」と「自覚の足りなさ」の
ギャップ。
親の役割はかつてとは大きく変わってきています。学校もまた時代の変化、社会の変化に気づくべきな
のです。
常識の鎖を裁ち切り自由な思考の中へ解き放ってくれる。保護者にとってもサドベリー教育は自分と
向き合う機会をくれる。
親ではなく、子ども自身が自分で考えるべき問題。「子どもの人生を、子どもに完全に委ねる」親は
その覚悟を。
「子ども扱いすること」がかえって「子どもを子どもの中に閉じ込めている」勇気をもって子どもの
独立した人生を認めること。
理想論はあくまで一般論。サドベリー教育は「世界で一人しかいない自分を認めてくれる教育」です。
「反抗することがないからだよ」反抗期が必要と考えるのは日本ならではなのでしょうか。
「東京サドベリースクールがあってよかった」「サドベリー教育」は幅広くある選択肢のひとつ。