東日本大震災

「3.11大震災・検証」アーカイブ

【激震通信指令室】110番通報やまず 地震、津波

県警ヘリが撮影した富岡漁港付近。津波で浸水した漁港周辺にさらに大きな津波が押し寄せる=3月11日午後(県警提供)

 東日本大震災と東京電力福島第一原発事故発生時、県民の安全と安心の確保を使命とする県警は未曽有の災害にどう対応したのか。現場の出来事を証言で追った。

■3月11日

【午後2時46分】

 東日本大震災発生。県警ヘリコプター「あづま」は南相馬市上空で二月から行方不明になっていた女性の捜索に当たっていた

 南相馬市の上空300メートルで旋回する「あづま」のコックピット。航空隊長の横山安春(59)と、同乗していた通信指令室長の古川茂(60)は突然、杉林から煙のように花粉が湧き上がるのを目撃した。
 「何だ、これは」。古川が叫んだ。後部座席の整備士が無線を傍受した。「地震です」
 行方不明者の捜索を打ち切り、横山は海岸線を目指した。浪江町まで南下し、再び北上した。つぶれた住宅、逃げ惑う住民...。しかし、燃料切れが間近に迫っていた。
 県庁本庁舎4階にある通信指令室は、突き上げるような揺れに襲われた。棚が倒れ、地図やパトカーの位置を映し出す大型パネルの電源も切れた。
 巡査部長の清野裕美(31)は女性の通報者との会話を終えようとしていた。通話が続いていた女性に「避難して下さい」と言って切った。揺れは収まらない。110番は鳴りっ放しになり、着信を知らせるシグナルタワーは点滅が続いた。清野に蛍光灯の格子状の枠が落ちてきた。左手で枠を支え、右手で受理ボタンを押し、通報内容を聞き取った。
 「受理台の下に隠れろ」。指示を受けもぐったが、110番は続く。通話状態は悪く、出ても切れた。それでも手を伸ばして通報を受け続けた。
 県庁本庁舎は耐震診断で「震度6強で倒壊する危険性がある」と指摘されていた。揺れが収まると県の庁内アナウンスで「火災発生、火災発生」と響いた。めちゃくちゃになった通信指令室には7人がいた。「逃げよう」と言う者は、誰1人いなかった。
 そのころ、白河市葉ノ木平で大規模地滑りが発生、須賀川市長沼では藤沼湖が決壊していた。

【午後2時49分】
 本県を含む太平洋岸に大津波警報発令。相馬署は地震による信号機の被害や幹線道路の被災状況の確認を始めたばかりだった

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福島署に設置された県警災害警備本部で対応に当たる警察職員=3月17日(県警提供)
 相馬署地域課長の根本浩吉(55)は被災状況確認を命じた署員に、警報発令直後、沿岸部で避難誘導をするよう指示を変更した。当初の情報は「1時間後に3メートルの津波が来る」という内容だった。  相馬市長名で津波被害の恐れがある地域に避難指示が発令された。海に近い磯部、尾浜、新地の駐在所の署員は津波が迫っていることを知らせるため、パトカーを走らせた。交通課や生活安全課の警察官も沿岸部に向かい、避難誘導に当たった。幹部と窓口担当を署内に残し全署員態勢だった。  県警ヘリ「あづま」の燃料計は福島市荒井の県警機動センターへの帰還を考慮すると、限界に達した。沿岸部で30分間ほど情報収集し、ヘリポートに機首を向けた。その時点で、津波は確認できなかった。

【午後3時25分】
 県は相次ぐ余震を受け、県警本部に庁舎から退避するよう指示した。県警は通信指令業務を福島署に移すことを決断した

 通信指令室を所管する地域安全課長の五十嵐広和(60)は部下に福島署への移動を命じた。110番通報全てを通信指令室で一括集約することになった平成7年以降、県庁外で通信指令業務を行うのは初めてだった。
 しかし、指令室のドアは地震でゆがみ、開かなかった。体当たりして開け、移動式無線などを持ち出した。
 指令室員ら30人ほどがひしめく福島署3階の小会議室。「110番受理代替システム」があったが、運用できなかった。電話が不通となり、NTTと連絡が取れないためだ。その後、2時間余にわたり、110番通報は受理できない事態に陥った。
 そのころ、相馬署には高台で警戒していた消防団員から情報が飛び込んできた。「白い波が見える。見たこともないでかい津波だ」
 地域課長の根本は無線で「6号国道まで住民と一緒に避難せよ」と呼び掛けた。6号国道は海から2~4キロの距離にある。「そこまで退避すれば大丈夫だろう」。昨夏の県の津波訓練は「高さ4、5メートルの津波が発生し、海から1キロの範囲が浸水した」と想定していた。

「5分遅かったら...」

【午後3時40分ごろ】
 高さ10メートルを超す津波が新地町釣師地区に到来した。海から約500メートル離れたJR常磐線新地駅で停車していた上り普通列車は転覆し、折れ曲がった

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JR新地駅に停車していた列車は津波で転覆し折れ曲がった。相馬署員の誘導で乗客約40人は避難し無事だった=3月12日
 相馬署では、この日に赴任する予定だった地域課巡査の斎藤圭(27)と吉村邦仁(24)に連絡が取れなかった。  2人は福島市の県警察学校で初任補修科の卒業式に臨んだ後、相馬署に向かった。宮城県の岩沼駅でJR常磐線に乗り換え、新地駅で被災した。斎藤らは私服だったが、運転手に警察手帳を見せて乗客約40人を車両から降ろし避難誘導を開始した。  吉村が先導し、斎藤は最後尾に付いた。新地町役場に着くと津波は目の前の役場駐車場まで押し寄せていた。「あと5分遅かったら津波にのまれていた」  6号国道沿いにある相馬署。余震が続き、建物内にとどまるのは危険だった。パトカーの無線で署員に指示を続けた。津波到達から時間を追って「避難誘導の消防団員と連絡が取れない」などの情報が入る。磯部のパトカーは前を走行していたポンプ車が津波にのまれたのを見て、2キロほどバックで走って難を逃れた。  署内には付近の住民100人ほどが避難してきた。住民を車庫内に誘導し、毛布や暖房器具を配った。雪がちらつき始めていた。  住民は口々に目撃情報を伝えてきた。「住宅2階に人がいるのを見た」「逃げ遅れている人がいる」。津波による浸水は広範囲に及んでいた。署にはボートがなく、救助に行けなかった。逃げ遅れた人の携帯電話番号を知っていた人もいたが、つながらなかった。寄せられた情報を克明に記録しておくことしかできなかった。

土砂の壁、捜索阻む

【午後】
 110番通報を受け、白河市葉ノ木平の地滑りが判明。現場で県警機動隊による行方不明者の捜索が始まった

 十数戸の家があるはずの山間部は辺り一面、土砂に埋もれていた。機動隊副隊長の佐藤洋1(58)は土砂が巨大な「壁」に見えた。
 「この中に娘がいる。早く助けて」。若い女性がすがり付く。土砂には木が何本も突き刺さっていた。佐藤は「すぐには掘り出せない」と言いたかったが、言えなかった。
 まず木を切り出し、重機で土砂を取り除くしかなかった。山側から水が流れ込んでいた。水道管が破裂したようだった。土砂は泥となり足場を悪くした。住民が機動隊の動きを固唾(かたず)をのんで見守っていた。
 余震が断続的に起きた。その都度、ハンドマイクで作業の中断を命令した。行方不明者捜索は難航を極めた。

【午後6時すぎ】
 福島署に設けた通信指令システムの切り換えが完了した

 せきを切ったように5台の受理用電話が鳴り響く。けが人救出の要請や家族の安否確認など、ひっきりなしに通報が入った。位置の確認は住宅地図を使った。
 相馬市では午後7時ごろ、市役所前の相馬アリーナに避難所が設けられた。市内に散らばる被災者の避難所への移動は翌朝までかかった。相馬署は信号機が停電した交差点に署員を配置し、住民の安全な避難を支えた。

ひつぎ多数、言葉失う

■3月12日~

【夜明け】

 沿岸部の住民から「遺体を見つけた」との通報や救助を求める110番通報が殺到した

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多数の住民が生き埋めとなった白河市葉ノ木平の現場で懸命の救出作業を行う県警機動隊員ら=3月11日
 「早く来て、早く来て」「がれきの下から体が見えるんだ」。福島署で通信指令室員は仮眠も食事も取らず、通報を聞き、一線署に指示を送った。場所を聞くが、建物などが倒壊したため目印がなく、現場の特定に手間取った。「できるだけ早く行きます。安全に、できるだけのことをして協力してください」  相馬署は早朝、捜索態勢を組んだ。沿岸部は地盤沈下し水が引かない。県警本部からは会計課員や一般職員まで駆け付けた。  被災後72時間。命が危うくなるとされるリミットだ。相馬署長の竹中淳1(56)の提案で、相馬市、新地町、消防団、自衛隊、消防署、警察が分担を決めてから捜索に当たった。長靴を履いている署員は現場に向かわせた。生存者はいるか、取り残された人はいないか。双眼鏡や目視で確認して歩いた。  いわき中央署は署長の高橋和7(59)の指示で、捜索に百数十人を投入した。前日、火災が発生した久之浜地区と、豊間地区が壊滅的な被害を受けていた。  沿岸各署には他県警の広域緊急援助隊や自衛隊の応援が入り、救助や捜索が本格化した。署員が応援部隊を現場に案内した。しかし、重機がなく、がれきの下の確認は後回しにするしかなかった。  沿岸部の各署では津波や地震による遺体を収容しきれなくなっていた。  相馬農高体育館の遺体安置所。県警捜査一課検視官の永山清喜(56)はひつぎの多さに言葉を失った。無意識のうちに合掌した。ひつぎの中に横たわる顔を見て回った。  安置所を訪れる人は後を絶たなかった。知人や家族を捜し、見つけると涙を流して手を合わせていた。検視に当たる警察官は皆、「一刻も早く身元を判明させ、遺族の元に戻してあげたい」と思っていた。  医師や歯科医師、警察官の数人のグループが、それぞれ検視を進めた。後日の身元確認に備え所持品、着衣を丁寧に洗浄し保管。手術痕やあざ、ほくろなども記録した。遺体や所持品などは写真化し、遺族がひつぎを開けなくとも遺体を確認できるようにした。ほとんどの遺体は津波で泥だらけだった。検視前に水で丁寧に汚れを落とした。  検視班の宿泊場所は体育館だった。布団は数に限りがあり、県外からの応援組に使ってもらった。毛布2枚を重ねて冷たい床の上で横になるが、寒さで眠れない。車の暖房を入れ、仮眠した。

【早朝】
 政府の「原子力緊急事態宣言」を受け、福島第一原発には冷却機能を稼働するための電源車が配備された

 「電源車を送る」。発令から間もなく、県警が福島署に設置した災害警備本部に警察庁を通し国から連絡が入った。行方不明者捜索や被害確認に追われていた県警幹部には「原発はどうなっているんだ」と不安が渦巻いていた。
 電源車の運転手は福島第一原発までの地理が分からないため、県警は原発までの案内を要請された。隣県の県警が県境まで誘導し、福島県警が引き継いで原発まで先導する方式で計画を進めた。県警の交通機動隊、高速交通隊が役目を担った。
 先導は夜通し続き、東京電力や自衛隊の電源車、高圧変電機積載トレーラーなど数10台がいわき、会津、関東圏から続々と入ってきた。各地で道路が壊れていたが、大きな迂回(うかい)もなく、手配された電源車全てを原発に誘導できた。
 災害警備本部副本部長を務める警備部長の山田憲(57)は信じていた。「原発に電源車が到着しさえすれば、冷却機能は回復できる」

(肩書は当時、敬称略)

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