地獄とは神の不在なり

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「神がいるかいないか」というパスカルの賭けがしっくり来ないのだそうで。
ちなみにパスカルの賭けとは、

パスカルの賭け(パスカルのかけ、フランス語: Pari de Pascal, 英: Pascal's Wager, Pascal's Gambit)は、フランスの哲学者ブレーズ・パスカルが提案したもので、理性によって神の実在を決定できないとしても、神が実在することに賭けても失うものは何もないし、むしろ生きることの意味が増す、という考え方である。
パスカルの賭け - Wikipedia

ちょっと気になったので以下。



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わたしは、特に宗教を信じてはいませんが、神様はいてもいなくてもいいなぁ、と思ったり、いた方がいいんじゃないか、と思ったりと、無神論者とも言い切れない曖昧な立場です。

 でも、毎年初詣には行きますし、墓参りもします。

保険はいいとして。

まず冒頭、坊主が話した神さまの話とその後のパスカルのパンセやヴォルテール。

だが坊主は、仏教。
仏様を信仰する。
仮に日本で「神さま」という場合は、神道においての八百万の神、神主、神社。

さらにパスカルやヴォルテールの語る神は当然ながらキリスト教的な一神教の神。
同じ「神」でもアマテラスもいればオーディンもゼウスもキリストもモハメッドもアフラマズダも「神」
だがこれらを同軸で語るには齟齬が多い。

これを聞いたわたしは、はっきりとこう思いました。

 「神様を賭けの対象にするなんて!!」と。

 信じているとしたら、賭けの対象にするということは、卑近な自分の理解が及ぶものとして、神を認識していることになるのではないでしょうか。そこには神の持ち得るであろう無限、永遠性を前提にしているとは思えませんでした。

神という概念に対してこだわりなく「どれでも宗教で祈ってるのは神」だと扱ってしまうのでは、「神の信仰に賭ける」とのたまいジャンセニスムに傾倒したパスカルの方がよほど宗教に対して真摯なのは気のせいか。
トイレには「女神様がいるんやで」と歌った歌手もいたが、日本の神は八百万であり、そこここのモノに神が宿る。
仮にキリストのような一神教を信じるのであれば、初詣に行くことは「偽の神を信仰する」ことであるし、八百万の神と矛盾する。


この方だけではなく、日本が宗教に関してこんなにちゃんぽんかつちゃらんぽらんなのは、古来からの土着宗教や仏教の輸入と政治的な力の増大、その後の神仏習合、廃仏毀釈、政治利用のための神道国教化などなど道具として利用されてきた歴史による。
キリスト教圏では教会が力を振るい続けたからこそ政教分離せず未分化な現代の強大な宗教国家を築き上げた。

一方で、長年に渡る混乱の結果、日本において宗教は形骸化してしまった。

さらにそこへマスコミが西欧的な風習を煽りたてクリスマスやハロウィンが根付く(堀井憲一郎の著作参照)。
資本主義と西欧文明の襲来は、まるでカーゴカルトのように新たな「日本のクリスマス」「日本のハロウィン」を生み出すことになる。

日本のクリスマスやハロウィンは付随するそれぞれの宗教観から切り離された資本主義的なフレームワークな行事。
それらが実態のない器であるように、神仏に関する行事もまた空疎な器でしかない。
もはや行事に本来的な意味や信仰の影はない。
ましてや信仰があればあるほど、日本では敬虔ではなく胡散臭いものとすらされかねない。
神を信じないことこそ正しい現代人であり、うさんくさい神を信じるなど馬鹿げている。
※それには一連の新宗教の台頭や騒動のイメージもある

だが神も仏も信じていなくても初詣も七五三もお百度参りも行う。
そこに信仰がなくても祈る対象としての神や仏のような「超越的な何か」であれば祈るし、願をかける日常。
だからこそ海外の異端な風習であるクリスマスでもハロウィンでも容易に受け入れることが出来る。

地獄とは神の不在なり

神は公正ではない、神は優しくない、神は慈悲深くない。
それを理解することが真の信仰に不可欠なのだ、と。
テッド・チャン/あなたの人生の物語

SF作家テッド・チャンの書いた短編に「地獄とは神の不在なり(Hell Is The Absence Of God)」がある。

これはヨブ記を受けて書かれたものなんだけれども、天国も地獄も天使も可視化された地上を舞台に、神への信仰がどれだけ理不尽でも神の存在が超越的であればそれは矮小な人間に測れるものではない、とニヒリズムいっぱいに書かれてる。


もし神の力や意思が超越的であるなら人間の思惑なぞ微々たるもの。
高次な神の考えが人間の脳ごときに想像ができるわけもない。
クトゥルフ神だって、その姿を目にするだけでSAN値が1D10/1D100で減少する。
脳が焼け付く。

絶対的で、尊敬するべき、神さまを賭けの対象にするということは、さすがにやりすぎなんじゃないの?

「神への信仰を賭けにする」ことが不敬か否は神のみぞ知る。
人間が勝手に判断することこそ不敬。

神はいるのかいないのか、ということに対してイギリスのブックメーカーのごとく賭けの対象として実際に金を賭けているわけでもない思考実験でしかないパスカルの賭けが神に対する裏切りかどうか?という疑問はその対象である神が判断することでしかない。

仮に神が不在であれば、思考が不敬かどうかを判断すべき神の判断は永遠に下されず、神が存在するなら、その信仰の正しさを判断するのもまた神の御技。
だとすれば盲目的に信じる以外のどんな「正しい信仰」があるというのか。


信じるものは救われる、と言う。
信じると言う行為によって結果的に救われると言う意味であると同時に、信じると言う行為こそがその人の精神の拠り所になったり救いになったりすることも指してるように思えてならない。
神がいるかいないか、ではない。

信じることがその人にとって「幸せ」をもたらすからこそ信教は自由であり、それを利用して搾取する構造だけが暴走すればそれは「悪い宗教」になる。
だがそんな悪い宗教ですら信徒が「幸せ」だと信じ込まされてしまうからこそ歪んだ信仰は御しがたい。
「正しい宗教」と「正しくない宗教」の差は果たしてどの程度だろうか。

シャーマン

先日、テレ朝「陸海空 地球征服するなんて」と言う番組の部族アースで、ナスDが未開の地のシャーマンに「悪霊が取り憑いているから払ってあげよう」と言われ、何時間も悪霊払いの儀式が行われる場面があった。
日本人ナスDには、悪霊が払われた実感がなく、しかしついて来た原住民は悪霊払いの余波で嘔吐する。

こういったことは、悪霊払いがあるかないか、シャーマンの能力が本物か偽物かという二元論では計れない。
本物か偽物かで言うなら悪魔払いの特殊な能力というのは明確ではないし、少なくともナスDにとってそれは「無い」。
だが嘔吐した原住民からすればそれは「ある」
あるから本物なのか、ないから偽物なのか。
本物とは何か、偽物とは何か、と言う定義が曖昧すぎて難しいが、少なくともその能力があると信じるコミュニティが存在し、共有する概念としてそれがあるのであればそれは存在すると言える。

そもそも神がいるかいないか、という単純な判断は正しいのだろうか。
その信じる対象である神は果たして正しい神か?
そもそも信仰においての「正しさ」とは何か?
「正しい宗教」とは何か?

もし神がいないのなら世界のあらゆる寺社仏閣も教会も打ち壊し、あらゆる教会を燃やしてしまえばいい。
無いものを信仰するほど愚かなことはない。
神がひとにもたらす欺瞞、争いの元凶となっている例は枚挙に暇がない。


人は、容易に、都合よく矛盾を肯定する。
神を否定し、仏を認めず、なのに幽霊を信じる人は多い。
神も仏も信仰も念仏もバカにするのに、いざとなると両手を合わせて祈ったりする。
人は、観たいものを見たいようにして見るし、信じたい時に都合よく信じたいものを信じる。
それがシャーマンを信じる原住民とどれだけ違うのか。

地上のそこら中に神の愛が溢れていても、それを見ることが出来ない人間にとってそこは地獄と変わらない。
「地上にあふれる愛」を与える神が果たしてどんな神なのかは定かではないし、科学によってそれらは駆逐されつつあるとして。

ドーキンス*1は神は妄想だと言う。
だが神を信じず、信仰なく、死んだあとは救われることなく無になると考えることが果たして「正しく」「幸せ」な考え方なのか、疑問にも思う。

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*1:利己的な遺伝子で知られる生物学者リチャード・ドーキンス