さて、小池氏は「ケンカ屋」と呼べるのか――その相手は、ある時は守屋氏という官僚であり、ある時は同じ自民党の先輩である都連幹部や森氏、石原氏。そして今回の選挙に至っては、改憲という目標は一致している安倍政権と戦う。
はっきりいって、これはケンカを売り過ぎだ。ケンカを通じて、小池氏の権力と集票力が増していくことは事実だが、なんでもかんでもケンカをすればいいというわけではない。さらにいえば、相手を叩きのめせばいい、というわけではないことも先に見たとおりだ。
ヤクザ社会にも、暴力をツールではなく目的にする組員もいないではないが、そういう組員のほとんどが、組織にとって利益にならない暴力を行い、娑婆と監獄を往復するようになる。「懲役太郎」と呼ばれるこうした組員が出世することはほとんどなく、その末路は悲惨だ。
小池氏の「ケンカ」は懲役太郎のそれに近い。実際、07年の防衛大臣辞任後から16年の都知事就任までの約10年間、政権から遠い「水牢」に繋がれていたのだから、間違いではないだろう。
その水牢を抜け出し、
ということで、小池氏という政治家は「ケンカ屋」というよりはいわば「鉄砲玉」……「一度飛び出したら戻ってこない兵隊」であるというのが、元暴力団員である私の見解だ。
本来この種の「鉄砲玉」は組織の上に立つのではなく、組織のガバナンスに従って、「ここで走れ」というべきタイミングでケンカをするから価値を持つ人材なのだ。鉄砲玉は、有能な「撃ち手」がいて初めて機能するということを忘れてはいけない。
それでも人は新製品に弱いものである。かつての「維新」がそうであったように、保守の新製品「希望の党」は自民党からある程度の議席を奪うことになるだろう。
しかし安倍総理はすでにそのことを見据え、議席減の退陣も視野にいれながら改憲実現を果たす覚悟だ、という声を政権中枢に近い複数の人物から聞いている。負けて実を取るのもまた「ケンカ」の形。政策実現のために合理的にケンカをしているのがどちらかは、私の目には明らかである。
さて、ケンカの果てに、いったい安倍総理は自分に刃向かった政敵に対してどのような措置をとるのか。私はそこに注目をしているのだ。