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遠く離れた異国の地で、最後まで死力を尽くした男たちがいました。女たちがいました。
過酷な戦場の中に咲いた一輪の花のような恋もありました。
今生では子は望めないと覚悟した二人が、敵とはいえ少年の命をかばって自らの命を失いました。
こうした一つ一つが、決して忘れてはいけない私たち日本人の心であり、日本の歴史なのだと思います。
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9月17日(日)13:30
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埼玉縣護國神社奉納揮毫10月 1日(日)11:00
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古事記に学ぶ25の経営学10月26日(木)18:30
第19回 百人一首塾 公開講座(百人一首)11月 3日(金・文化の日)
第2回 名古屋倭塾 公開講座(古事記)11月 5日(日)
第45回 倭塾 公開講座11月25日(土)
第20回 百人一首塾 *****
拉孟(らもう)の戦いは、昭和19年の6月から9月まで、ビルマと支那の国境付近で行われた壮絶な戦いです。
守備隊は最後の一兵までこの地を守り抜き、120日間という長期戦を戦い抜いて玉砕しました。
守備隊1千280名のうち、300名はほとんど体の動かない傷病兵でした。
なかに15名の女性もいました。
遅いかかった敵は5万の大軍です。
是が非でも援蒋ルートを確保したい蒋介石が、国民党最強といわれる雲南遠征軍を拉孟に差し向けたのです。
それは米国のジョセフ・スティルウェル陸軍大将が直接訓練を施した、米軍式の最新鋭装備の軍でした。
戦いの末期、守備隊に飛行機で拉孟に物資を届けた小林中尉の手記があります。
「松山陣地から兵隊が飛び出してきた。
上半身裸体の皮膚は赤土色。
スコールのあとで、
泥にベタベタになって
T型布板の設置に懸命の姿を見て、
私は手を合わせ拝みたい気持ちに駆られた。
印象に深く残ったものに、
モンペ姿の女性が混じって
白い布を振っている姿があった。
慰安婦としてここに来た者であろうか、
やりきれない哀しさが胸を塞いだ」
上空からみた拉孟を死守する我が軍の周囲が全部、敵の陣地と敵兵によって埋め尽くされていました。
小林機は、低空から2個の弾薬包を投下しました。
これに応えて守備隊の兵や女性たちが、手をちぎれるほど振りました。
小林中尉はこの何分か何十分後かに戦死しているかもしれない彼たち、彼女たちの顔を心に刻み込もうと、飛行機から身を乗り出すようにしました。
けれど溢れる涙で眼がかすみ、前が見えなくなったといいます。
熱い思いに駆られた小林中尉は、弾薬包を投下したあと、直ちに離脱すべしとの命令だったのですが、敵の弾幕をくぐって急降下し、あらんかぎりの銃弾を敵陣に叩き込んだそうです。
愛機を敵弾が貫きました。
体を弾がかすめました。
それでも弾倉が空になるまで、撃ち続けたのです。
痛いほど気持ちがわかる気がします。
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このようなものを読むたびに、日本人としての誇り、共感を覚えます。
このような精神を失わないようにしたいと心から思います。