
←いつも
応援クリックをありがとうございます。
この散って行かれた岩崎ユキの遺書を公開したのは2015年9月のことですが、おそらくそれが、この遺書がネット上で公開された初出になると思います。
もともと看護師は男性の役割だったのです。
それが女性の仕事になったことには、ひとりの若い女性の命がけの誠実があったからのことなのです。岩崎ユキ

◆
【お知らせ】◆
9月17日(日)13:30
第43回 倭塾 公開講座(古事記) 9月21日(木)13:00
埼玉縣護國神社奉納揮毫10月 1日(日)11:00
日心会『ねずさんと古事記』出版を祝う会(古事記)10月15日(日)13:30
古事記に学ぶ25の経営学10月26日(木)18:30
第19回 百人一首塾 公開講座(百人一首)11月 3日(金・文化の日)
第2回 名古屋倭塾 公開講座(古事記)11月 5日(日)
第45回 倭塾 公開講座11月25日(土)
第20回 百人一首塾 *****
岩崎ユキという、わずか17歳の少女の覚悟と死を最初に知ったとき、私は人前だったのに涙があふれました。
明治27(1894)年8月1日、日本と清國の双方の宣戦布告によって「日清戦争」(〜1895)が勃発しました。
戦争指導のため、明治天皇と大本営が広島に移りました。
このとき国会も広島に場所を移しています。
日清戦争のために出征した日本の将士は総計30万人です。
広島の宇品の港には、軍船がひっきりなしに往来しましたが、こうした大兵の往復海運は、衛生と関係が深く、まして戦争となればこれに戦傷病者が加わります。
戦死や負傷に比べ、病人の数は何倍にもなります。
まして支那はコレラ、赤痢、疱瘡その他、伝染病の問屋ともいうべき場所でした。
このため7月20日には、広島城の西側の広島衛戍病院も戦時編成の広島陸軍予備病院へと改編されていました。
そして実は、ここが日本ではじめて女性が軍看護婦として採用された病院でした。
医師に看護婦という組み合わせは大昔からありました。
しかし、戦は男がするものです。
ですから我が国においては古来戦場に出向くのは医師も看護人も、すべて男でした。
このことは、明治維新の際の戊辰戦争や、その後の西南戦争、佐賀の乱等においても同じです。
戦場ないしその後方には病院がありましたけれど、医師も看病人も、すべて男でした。
西洋では、たとえば米国では、米国独立戦争(1775)で女性看護婦が活躍しています。
日本でも明治10年には博愛社が設立され、明治21年にはジュネーブ条約加盟に伴い日本赤十字社と名称変更され、そこで看護婦の育成をしていましたが、これら看護婦は戦場や軍病院には一切採用されることはありませんでした。
ところが日清戦争の頃になると、日本赤十字社から「女性看護婦を軍で採用してもらいたい」という強い要請が出るようになりました。
陸軍は、当初これを固く断っていました。
◆youtubeの動画サイトをはじめました。↓下のバナーをクリックするとチャンネルに飛びます↓

↑よろしかったらチャンネル登録をお願いします。登録無料です↑
新しい動画がアップされました!◆
『ねずさんと語る古事記・参』絶賛発売中!!
