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「FF外から失礼します」に違和感を覚える人は、完全に遅れている

いつから気にするようになったのか…
熊代 亨 プロフィール

やがてTwitterやFacebookが、後にはLINEやInstagramが普及すると、クローズなコミュニケーションを望む人は、それらのサービスを用いるようになりました。

複数のアカウント、複数のアプリを使い分けることによって、SNS時代のネットユーザーは、オープンな「ソト」のコミュニケーションと、クローズな「ウチ」のコミュニケーションを的確に使い分けることができます。

なかには、クローズに留めておくべき文章や写真をオープンに公開してしまい、炎上したり社会的制裁を被ったりする人もいましたが、そのようなユーザーは全体のごく一部でしかありません。

また、学校などでネットリテラシーの教育が進んだこともあってか、以前に比べると、「ウチ」と「ソト」を区別できていないアカウントは少なくなりました。

それなら、「オープン=ソト」のアカウントでは誰もが自由に繋がりあい、「クローズ=ウチ」のアカウントでは内輪のコミュニケーションを楽しめばいいじゃないか……と私などは思ってしまいますが、現実に到来したのは、それとは正反対の事態でした。

インターネットが「世間」になった

TwitterなどのSNS、スマホが普及して以来、インターネットを経由したコミュニケーションは、世の中の大多数が、日常的に行うものとなりました。

それ以前にもガラケーを使ってローカルなコミュニケーションをする人、パソコンを買ってブログを書く人はいましたが、日本のインターネットが本当の意味で“みんなが繋がりあうメディア”となって、そこで広がる声が“世論”として無視できなくなってきたのは、2010年代以降です。

そう、インターネットは、いつの間にか“世論”をかたちづくる場になったのです。

“世論”をかたちづくる場になったということは、インターネットが“世間”になったということでもありますし、“リアル”と地続きになったということでもあります。

Photo by iStock

ほんの十年ぐらい前まで、インターネットは、「ウチ」か「ソト」かを区別する以前に、まずは非日常であり、アンダーグラウンドな世界でした。

昔は、インターネットのイメージ画像として、真っ暗な部屋でキーボードを叩いている図像がニュース番組などで用いられてきましたが、実際問題、インターネットをまともな“世間”とみなしている人はほとんどいませんでした。

インターネットに何かが書き込まれていても、その社会的な位置づけは“便所の落書き”も同然でした。

ところがインターネットを誰もが日常的に利用するようになり、“ネットの声”をマスメディアが大々的に取り上げるようになると、インターネットは急速に“世間化”“リアル化”していきました。東京五輪のロゴ問題の炎上のように、“ネットの声”がそのまま“世論”に直結し、国政に影響してしまうケースすらあります。

一昔前まで耳にしていた、「“ネット”と“リアル”の区別がついていない」という決まり文句は、完全に時代遅れになったと言えるでしょう。今ではむしろ、“ネット”と“リアル”を区別し過ぎるほうが危険です。

インターネットが“世間”になったことで、ユーザーの感覚も習慣も変わっていきました。

インターネットが“世間”とみなされるかみなされないかの境目の時期、SNSがレイトマジョリティにも普及していった2010年代前半ぐらいまでは、TwitterなどのSNSを旧来のインターネットに近い感覚で使う人が多かったらしく、オープンなTwitterアカウントやFacebookアカウントに、危なっかしい書き込みや写真投稿を見かけることがよくありました。

私も、とある大学の運動系サークルの個人情報が無防備に公開されているのを発見してしまい、びっくりしたものです。

しかし2015年以降は、「インターネットには何を書いても構わない」という感覚もめっきり少なくなり、危なっかしい書き込みや写真投稿は減っていきました。と同時に、例の、「FF外から失礼します」というフレーズが使われ始めたのです。

これらが意味しているのは、インターネットが“世間”や“リアル”と地続きになるにつれて、私達のインターネット上での振る舞いもまた“世間”や“リアル”におけるそれと近しくなっていった、ということです。