工作員候補生は「招待所」と呼ばれる訓練施設で、「最高指導者の爆弾」となるための忠誠教育を受け、主体(チュチェ)思想を叩き込まれる。
金日成が唱えたこの思想は、人民が自主性を維持しながら革命をやり遂げるには、絶対的指導者に服従することが必要だと説く。つまり、最高指導者への忠誠心こそが、人民のためになると繰り返し頭に刷り込まれるのだ。
こうした基礎的な忠誠教育ののち、若者たちは金正日政治軍事大学に入る。ここでは潜伏先で必要となる語学はもちろん、想像を絶するレベルの肉体鍛錬を課せられる。
私がインタビューした金元工作員は「思い出したくないほど辛かった」と言いながら、その具体的な内容の一部を教えてくれた。
「最初は水泳訓練です。いきなり貯水池を8km泳げという。淡水を泳ぐのは厳しいですよ。あとは30kgの荷物を担いで、冬の毎夕、数十km走り続けながら訓練をする。寒いときは苦痛でした。
このほかに、素手で戦う格闘訓練は『撃術』と呼ばれていて、ものすごい回数をこなしました。現場では相手の制圧、拉致などもしなければなりませんからね」
他にも幾人もの元工作員に取材をした結果、訓練メニューには以下のようなものがあったらしい。
(1)班ごとに交替で60km泳ぐ遠泳訓練
(2)集団で魚雷を引っ張って泳いで目標物を爆破する訓練
(3)高速で走る列車の上を走りながら射撃をする訓練
(4)ひとりで15人の敵と戦って勝つ訓練を1日3時間
(5)浸透前には射撃訓練を3000回以上
(6)3日間休まず歩く「千里行軍」
途中で脱落する者だけでなく、戦闘訓練中の事故や、疲労や熱中症で死亡する訓練生も多いという。
教育課程の中には日本人化教育もあって、訓練生は日本人になりすますために語学や生活習慣、文化などを学ぶ。各地方の方言や文化などを叩き込むのだ。
「言語は標準語以外に、方言をひとつ選択します。そのほか政治、経済、文化はもちろん、芸能・芸術まで学びます。たとえば、ドラマは何が有名で、どんなストーリーで、どの俳優が好きで、テーマソングは何だったか、まで知っていなければならない。若い工作員は、若者に溶け込まねばなりませんから」
「日本人化」の講師は日本から拉致された人物や在日朝鮮人の帰国事業で渡っていった日本人妻だ。
ある山の地下にある訓練場には、日本の街を模した「日本村」もあり、訓練生はここでロールプレイングを繰り返したという。
こうした訓練を受けた上で、日本人の身分を与えられて送り込まれるから、工作員は日本社会に完全に浸透することができる。そして電波やインターネットを使った暗号で、本国からの指示を受けて活動するのである。
工作員は肉体、知力両面での鍛錬を潜り抜けた後、対象国に派遣されるのだ。
話している途中、金元工作員は、ズボンをまくって脚を私に見せた。そのふくらはぎは筋肉が隆々と盛り上がっており、常人とはかけ離れたものだった。
「訓練はしんどかったけど、工作員という職業はやりがいがありました。私にはこの仕事が合っていたのだと思います。
でも、私は工作員になりたくてなったわけではありません。労働党から重要な業務をやるようにといわれて、それを受け入れただけです。そもそも北では個人の希望で選定することなんてできないのですから、党に『やれ』と言われれば、その指示に無条件に従うのです」
戸惑いながらも、愛国心と忠誠心を焚き付けられたエリートの若者たちが、工作員として敵国への潜入任務につく。
次回は、実際に彼らがどのようにして日本に潜入してくるのかに迫りたい。
(続編の第2回はこちら)