李はかつて日本にも潜伏し、極めて大胆な手法でその足場を築いていた。
1974年に、工作船で日本に密入国、「申順女」(シン・スンニョ)を名乗った。実在した申順女は在日朝鮮人で、1960年に帰国事業で北朝鮮に永住帰国したまま消息がわかっていない人物だ。女工作員・李はその身分を乗っ取ったのだ。
実は、李は北朝鮮で、本物の申順女から親類縁者に関する情報を聞き出し、順女にはまだ一度も会ったことのない、異母弟がいることを知ったのだという。
そして李は、兵庫県高砂市にいた、その異母弟に接近し、「私はあなたの姉だ」と騙して同居を始めた。東京・荒川区に住む在日の親戚を保証人にして、特別在留許可も得ていた。
その後、李は在日朝鮮人・申順女の名前と身分をかたったまま、異母弟とともに韓国訪問団に混じってソウルを合法的に訪問する。ソウルでは、高齢で視力の衰えた順女の実姉を訪ね、姉の名義でソウル市内に家を買うことに成功した。
女工作員は、こうしてまんまと工作拠点を手に入れ、1980年頃から「南韓朝鮮労働党中部地域党」という地下工作指導部を構築した。
日本は、李善実にクリーンな身分を与える、偽装工作の場所として利用されたのである。
私が話を聞いた、金東植・元工作員が李と同居を始めたのは、それからさらに10年ほど後の、1990年だった。彼は私にこう語った。
「私は1990年に、ソウルで李善実と半年間一緒に暮らしました。彼女は当時75歳。私は20代だったので、祖母と孫を装いました。
李善実は当時、すでに北の権力序列で19番目。しかも政治局候補委員でした。もう10年間も南(韓国)に浸透して活躍した、生ける伝説でした。個人的な会話を交わす関係ではなく、彼女の隣の部屋にいて、お世話をさせていただいていました」
同居中の金元工作員の主な任務は、本国の工作本部への連絡だった。
城南市内に「盆唐(ブンダン)中央公園」がある。都心ながら42万㎡もの敷地を誇り、かつての王宮を再現した場所もある有名な公園だ。そこにある丘の中腹には、韓山李氏の墓があるのだが、そこが通信機器を隠しておく場所だったという。
「深さは20cm。超短波のトランシーバを埋めて、その上に目印の石をおきました。
1ヵ月に一度、決められた日時に、3桁の暗号数字を打ち込んで工作状況の報告をしました。指示を仰ぐことが多かったように思います。
例えば、政府要人の包摂(=ポスプ。味方として取り込むこと)がうまくいっていないとか、仲間の工作員の所在が確認できないとか……。
通信は一方通行ですから、本部からの指示はラジオ電波で5桁の乱数放送で飛んできました。『この乱数はメモを取ってはならない。頭に叩き込め』と教わっており、記憶して換字表で文章に変換しました」