とりあえず、カッコイイ自分を演出する為に全力だった。それ以外のことは、その場しのぎでなんとなく切り抜ければ良いという感じだった。
カッコイイ洋服を着て、周りと見比べ、周りはダサく、自分はイケていると納得、安心する。
カッコイイ音楽、洋楽を聴いてみる。俺は洋楽聴いているんだぜ。カッコイイだろ!
髪をセットし、イイ感じにキメる。
制服はだらしなく、着こなす。
そんな若い頃の私にとって、他の"カッコイイ"男は危険な存在であった。私は誰よりもカッコ良くなければならない。周りを気にしては、見比べ、危険を感じたら新しい洋服を買うなどして自分を飾り、どうにかして自分の納得のいくイケてる自分を作り出す。そして、自分自身の心の中で彼らと闘い、いつも勝利を収める。
失敗するとダサいから、自分が出来なさそうな分野には手を出さない。自分はそんなこと興味ないんだよと、自信がないことを興味がないからという言い訳にすり替える。
一方でダサいをベースにしていない、とりあえずやってみよう精神の人が羨ましかった。何でも果敢に挑戦し、失敗しても何気無くニコニコしている。
こうして振り返ると、若いのにダサいからという理由で、チャレンジすることに積極的でなかったのは良くなかった。
若いからこそ自分の可能性を広げる為に、色々挑戦すべきである。特に苦手なことを減らしていく努力は必須である。
私は特に、大勢の前で堂々と自分の意見を述べることを苦手とし、避けていた。少人数の場合は、まだ大丈夫であった。
実は失敗を気にもせず新しいことにどんどん取り組む姿勢がカッコイイのであって、要はそこの失敗を糧にするというカッコよさに気づいていなかった。あれほど"カッコよい"にこだわっていた自分はそのカッコよさを発見することができず、外見を飾る簡単なカッコよさにしか視線が向いてなかった。
そもそも何がダサいのか?ダサいの基準を決めるのは難しい。
1.失敗をしてしまうであろうその自分がダサいのか
2.失敗を恐れて新しいことにチャレンジしない自分がダサいのか
チャレンジしなければ2.のようにダサくなるのは確実で、チャレンジすれば1.のダサいの確率はあるが失敗しない可能性もあり、つまりダサくならないことも十分あり得る。仮に失敗してダサい経験をしても、それをバネにして努力すれば、ダサいという経験が自分にとって次への原動力として働くことも期待できる。比べてみると2.のダサいを避ける方が賢い選択といえそうである。
本当にダサいものは何か、本当にカッコよいものは何か。
カッコイイを求める前に、ダサいを避ける前に一度しっかりとこれらを整理し、長期的に考えて自分にとってのベストな判断を行うことが大切だ。