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- 「選挙に行く行かない」の自由を搾取される若者たち
- 選挙・投票をする上での『個人的な必要性』が皆無
- 次世代が得をすると、今の僕たち世代が精神的に損をする
- 国民の政治参加は、徹底的なまでにエゴを発揮する方が良い
- 選挙が面倒で行かない人は、『選挙は面倒』という見えざる投票を行っている
「選挙に行く行かない」の自由を搾取される若者たち
ここ最近、衆議院解散、総選挙の流れに乗じ、「若者よ、選挙に行こう!」「積極的棄権(投票放棄)とかふざけるな!」「選挙に“行かない”と主張している人たちは、“めんどうだから行かない”だけのナマケモノでしょ?」という声が、方々から聞こえるようになってきた。
それどころか、『選挙権を行使しない国民=義務を果たさない社会不適合者』というレッテルを貼られてしまう。
中には、「投票を棄権するのなら、日本の政治にただのひとことも文句をつけるなよ? おまえにその資格はない!」という、言論統制、人権剥奪などなど、脅迫行為を仕掛けてくる輩まで存在する始末だ。
これはれっきとしたパワーハラスメントである。
他者の意思を踏みにじり、精神をとことん追い詰めることによって、『自分の価値観≒絶対正義』という攻撃的な思想を塗りつけようとする、一国の暴君によるヘイトスピーチに等しい。
選挙・投票をする上での『個人的な必要性』が皆無
まず最初に断っておくと、僕はいつも散歩がてら投票しに行く。
投票所が小学校の中にあるから、懐かしい気持ちになれるし、気分転換として悪くない。
なにより、紙切れに殴り書きして投げ込むという――投票行為を行うだけで「社会不適合者」という烙印を押されずに済み、一市民としての暮らしが楽になるのは素晴らしいなと思う。
僕にとって選挙とは、政治に参加するイベントではなく、世間体を取り繕うための儀式だ。
選挙・投票という、政治の本質部分に参加する『個人的な必要性』は、皆無だと確信している。
なぜなれば、まったくもって困っていることがないためだ。
もしも仮に今よりずっと、若者冷遇・老人優遇の程度が強化されたならば、むしろ僕の人生においては好ましいとすら考えられる。
理由は、将来不安にさいなまれる若い女子が増えると、遊び友達や彼女を作る際の成功率が飛躍的に上昇するからだ。
不安になった人類は、すべての者に磁力を感じるようメカニズムされている。
そして、社会が悪い方向に進んだとしても、それは国民全員に降りかかる火の粉であるために、「自分だけが損をしている……俺だけが底辺だ」という、『社会的報酬の欠落感』でつらい思いをせずに済む。
それゆえ、絶対的な豊かさは下落する可能性があっても、相対的には大して変わりがない。
結論としては、選挙に行こうと行くまいと、社会が急発展しようと滅亡しようと、僕の高い幸福度はみじんも揺れ動きはせぬということだ。
そんなこんなの経緯により、いくら説得されたところで、「社会を変えるために選挙へ行こう! 白票でも良いから投票しよう!」といきり立つことは出来やしない。
今年のキングオブコントで準優勝を果たした、縄跳び職人のにゃんこスター・アンゴラ村長が、『もっとブスでデブで貧困に生まれていたら、勉強がんばるのだけど、、、』と、胸の内を披露していたように、僕がもし政治のせいで落ちぶれたら、「じゃあ頑張らなきゃ!」という原動力が生じるから、むしろ悪徳政治家に感謝するだろう。
従って、この僕には選挙・投票に参加する『個人的な必要性』は皆無である。
次世代が得をすると、今の僕たち世代が精神的に損をする
すこぶる性根の腐った発言をさせて貰うと、もしも良い政治家を国民でプッシュすることに成功し、『若者がより良く生きられる社会』に移行してゆくとしよう。
たとえば、小池百合子がベーシックインカム(すべての国民に等しく、一定の所得を給付する制度)を検討・公約している訳だが、こういった大々的な制度には、「来年すぐやりますね」というスピード感は宿らない。
何が言いたいかというと、ありったけの儲けを得るのは、次世代である可能性が高いということだ。
今、必死にベーシックインカムを宣伝したとして、それが30年後に実施されるとしよう。
すると、僕たちは50歳くらいになっていて、「あー、結局、無職でも暮らせる時期って短くなっちゃったな」と愚痴を吐くかもしれない訳だが、その隣には、「いえぁ! おっさんたちは食うために働いてたんだろ? かわいそうな世代だな。ハハ!」と遊び狂う若者がいるかもしれない。
このように経済的には損どころか得をしていたとしても、その状況をじっくり観察した際に、果てしのない損をさせられ続けている感覚(相対的不運)に陥ることも考えられる。
僕は出来れば、「仕事しなければ食えねぇんだよ」という態度で、イソップ寓話・アリとキリギリスを嫌がらせのように喧伝することを、老後の生きがいにしたいと考えている。
その点も含めると、ますます選挙に行く必要がないと思えるのであった。
国民の政治参加は、徹底的なまでにエゴを発揮する方が良い
ここまで、選挙はくだらないものだと言わんばかりに、心情をぶちまけてきた訳だが、僕もいつか結婚してかわいい子供が出来るかもしれない。
その暁には、「ちゃんと選挙行けよボケコラ」と若者を叱りつけるだろう。
なぜならば、息子・娘という自分の分身的な存在(次世代)に、利益をもたらしたいと思うからだ。
未誕の子に愛は注げないが、生誕した子にはこれでもかと、すべてを注ぎ込みたい。
この僕を恐ろしく利己主義者に感じる方もいるかもしれないが、こんな風に国民一人一人が自分のやりたいように行動することで、価値観・言動に多様性が生まれ、政治に必須な材料を与えることが出来る。
つまり僕の自我は、国の宝なのだ。
選挙が面倒で行かない人は、『選挙は面倒』という見えざる投票を行っている
政治家は、国民の一人一人が浮上させた気持ちを汲み、国のあり方を流動的に変更させる必要がある。
だから大切なのは、国民の本音と、政治家の本気なのだ。
世間体だとか慣習に縛られて、惰性の行動を繰り返していると、社会は息苦しくなり続ける。
極論、選挙が面倒で行かない人は、『選挙は面倒』という見えざる投票を行っている訳だから、立派に権利を行使している。
その声なき声を拾い上げ、新ステムを築き上げるため奮闘するのも、政治家の役割だ。
我々国民は、やりたいように行動するだけで良いのである。
最近読んだ本・『選挙に行けイジメ』が増加する季節
いじめの始まりは、「間違っている人を正す」という気持ちから発生します。「おまえは間違っているだろう!」という気持ちで制裁し、「自分は正しいことをしている」と感じることで得られる快感があるのです。
いじめが増える時期は、6月と11月
(中略)
日照時間が変わる時期にあたるので、セロトニンの合成がうまくできず、分泌量も減り、その結果、不安が強まり、“うつ状態”を経験する人が散見される季節なのです。
(中略)
セロトニンの不足は不安を招くだけではなく、暴力性を高め、過激なギャンブルにはまるなど、悪い結果になることを承知しつつも、それを止められない“衝動性障害”を招くことがわかっています。
などと書いてあるように、今は10月中旬だがこれくらいの時期から、衝動的に人をイジメる人が増えてくる。
将来不安が激しく、正義感に燃えたやっかいな存在が、『「選挙に行け」パワハラ』を繰り出す季節の到来だ。
悲しいかな、この社会には『良い大人なのに選挙に参加しない者は、大体、社会不適合者だ』という印象を持つ者が多いため、奴らは援軍を得たとばかりに、ちくちくと嫌みを放つ。
そしてトドメとばかりに、「選挙に参加しない人間は、一生文句を口にするな」と恫喝してくる。
だが投票の有無によって、言論の自由度が決まるとは、とんでもない。
国民年金、住民税、消費税などを余すことなく支払っているのに、『選挙に行かない』という一点の曇りがあっただけで、社会人としてあるまじき、たわけと評される。
正しいとされているものを武器にするイジメっ子は、たちが悪い。
そういう人間に絡まれないために行うべき対策は一つだ。
選挙へ行こう!